ギリシア的悲劇に洗脳された或る愛の叙情詩の続き
その紙を受け取った瞬間破り捨てずに努めて冷静に「これはなんですか」と尋ねた自分を誰か褒めてほしいと帝人は思った。激情のまま破り捨ててこれを渡してきた相手にボールペンを突き刺してもいいのだが、帝人程度ではその相手にかすり傷ひとつ与えられない。彼と戦うのなら戦車でも持ってこないといけない。
「なにって、紙だろ」
「誰が物質名を訊きましたか。面倒ですからぶっちゃけますけど、これってアレですよね、氏名とかその他モロモロを書き込んで判押して役所に持っていくと法律的に婚姻が認められる魔法の紙ですよね」
「ふつーに婚姻届って言えよ」
「言いたくないから遠回りしたんでしょうが」
思わず溜息混じりの吐息が唇から洩れた。とたんに、斜め向かいで胡坐をかいて座っているこの溜息の張本人――――静雄がそっぽを向いた。休日に何の前触れもなく突然静雄が帝人のボロアパートを訪れることは珍しくはないが、来て早々紙きれ一枚を放り投げ何の説明もなしに「名前書いて印押せ。今度の大安の日に役所持っていく」と言われれば、いくら帝人だって混乱する。混乱した頭でうっかり「一発くらい殴ってもいいかなあ」とか考えてしまう。
「・・・・・冗談で済ませるべき、ですか?」
言った瞬間、静雄の端正な顔がいびつに歪んだ。しまった、と心の中で毒づく。彼の地雷を踏んでしまったようで、あっという間に彼が纏う雰囲気がピリピリしたものに変わる。静雄は昔から感情を表に出す傾向があるから、不機嫌なのも機嫌が良いのもわかりやすい。隠し事ができないその素直さは昔から何も変わらない。
昔からずっと、隠し事ができなくて、なんでもすぐ態度と口に出す子供だった。いつもちょこちょこと帝人の後をついてきて、みかど、と舌足らずの声で繰り返し呼んで、手を繋いだり頭を撫でたりすると恥ずかしそうにそっぽを向くけれどその顔は嬉しそうで、そんなふうに自分を慕ってくれる静雄が可愛くて、愛おしくて。
そんな彼がこんなふうに帝人に迫る日が来るなんて。
「なんかこう、もっと雰囲気とか考えてほしかったですよね。男女が進めるべき過程を全てぶっ飛ばしていきなり婚姻届ですか。そんな子に育てた覚えはありませんよ」
まるで母親のような口ぶりで言うと、静雄はまた顔をしかめた。いつからだろう、帝人が彼の母親のように振る舞うたびに彼が顔をしかめるようになったのは。
母親のように接してきた。母親のように慕われると思っていた。彼の恋情はただ自分のモノを取られるのを厭う、子供じみた執着心だと思っていた。だって彼は一度だって、恋だの愛だの囁かなかった。だからこの最悪な求婚も真面目に受け取る気などない。
「そうでもしないと、お前、また逃げるだろ」
こちらを睨みつけて吐き捨てる静雄の言葉が帝人の胸に突き刺さって、帝人はいっさいの動きを止めた。逃げた、そう、帝人は逃げたのだ。その真摯な瞳が怖くて、その純粋さが恐ろしくて。縋りつく手を振り払って逃げるように上京した。
ずっと一緒にいると、約束を破って逃げ出した。笑顔で嘘をついて、笑顔でその手を振り払って。帝人はずっと笑顔で彼に最も残酷なことをしてきたのだ。
「―――――嫌われていると思いましたよ、ぼくは」
高校生になった静雄が帝人の前に現れた時、殴られると思った。散々罵倒されて、殴られて、そうして縁が切れると思った。それなのに静雄は泣きそうな顔をしてたった一言、嘘つき、と小さく吐き捨てた、それだけだった。
静雄は冷めた目つきで帝人を見た。その顔は帝人の知らない静雄で、その時ようやく帝人は彼から離れていた八年間を実感した。こんな顔ができるようになっていたなんて、帝人はこれっぽっちも知らなかった。
「帝人が笑って嘘つける奴だって、俺は知ってた」
え、と小さく帝人は声を漏らした。気づかれていないと思っていたのに。気づかれたくないと願っていたのに。
「恨んでた。当たり前だろ? 一緒にいるって言ったくせにこんな遠くまで逃げやがって。しかも八年かけて追いかけてきたら、そんなの予想もしなかったみたいな顔しやがって。俺は帝人のそーゆーとこが、すっげえ嫌いなんだよ!」
その叫びはまるで獅子の咆哮のようで、なのに帝人には震える子犬の鳴き声にも聞こえた。昔はしょっちゅう泣いていたくせに、いつのまにか彼はどんな怪我をしても全く泣かなくなった。それが少しだけ、寂しい。
気がつけば静雄が前にいて帝人の腕を掴んでいる。静雄の力なら帝人の腕ぐらい簡単に折ることができるのに帝人が無事でいられるのは、険しい顔をしている静雄が懸命に力を抑えているからだろう。
「ずっと昔から好きで嫁にするなら帝人でいいって言ってんのに、お前全然信じねえし逃げるし嘘つくし、しかも嫌われてると思ってたとか言うし! 馬鹿だろ。嫌ってたらわざわざすっげえ勉強して偏差値上げまくって東京の学校になんざ来るか! あほ! 来良に入学するのすっげえ大変だったんだぞ!」
「・・・・・・・・・す、すみません」
なんだか自分がすごい悪女になったような気がして、帝人は慌てて頭を下げた。だからってあの婚姻届はやりすぎな気もするが。
怒涛のように叫んで疲れたのか、静雄ががっくりと肩を落とした。なんだか無性にその背中を撫でてあげたい衝動に駆られて、帝人はよく考えないまま静雄を抱き寄せてぽんぽんとその背中を軽く叩いた。
「だったら普通に好きだって言ってくれればよかったんですよ。昔だったら信じなかったでしょうけど、こっち来てから言われたらいくらぼくでも真面目に考えるのに」
「・・・・・・・・・・いや、ちょっとそれは無理っつーか、もうちょい勇気がいるっつーか」
頬を赤く染めてそっぽを向く、そのしぐさから察するに要は照れくさかったということか。帝人は呆れて馬鹿、と呟いた。素直に言えなくて、その照れ隠しが婚姻届。照れ隠しだとしても最悪すぎる。馬鹿みたいだ。静雄も自分も、皆馬鹿みたいだ。
ひどく滑稽で、なんだか愉快で、帝人は小さく笑った。訝しんで顔を覗き込んでくる静雄を無視して、手元に残っている紙にさらさらと名前などの必要事項を書き込む。印鑑はどこにしまっただろうかと、最近では宅配便の受け取りにすら使われなくなったそれの在りかを記憶の底から引っ張り出した。
「静雄さん、ちゃんとぼくにプロポーズできたら告白、お付き合い、ご両親に報告、までの過程全部ぶっ飛ばして結婚してあげますよ」
顔を真っ赤にした静雄にとってそれが最も難しいのだと、わかっていながら帝人はそんな条件をさらりと突きつけた。好かれていることも愛されていることも大切にされていることも知っている。でも、ちゃんとその一言を言って欲しいのだ。愛も好意もその誓いも全て欲しい。帝人は自分が酷く欲張りな人間だということを、ずっと昔から知っていた。
女は 世界で一番欲張りな生き物なんですもの
お題は選択式御題さんよりお借りしました。