竜ヶ峰夫妻と平和島夫妻はお隣さんとして10年以上付き合ってきた。竜ヶ峰夫妻に子供が産まれてからは、共働きで忙しい夫妻に代わって赤ん坊の世話をした。その数年後に平和島夫妻に子供が産まれてからは、先に産まれた竜ヶ峰帝人がその赤ん坊の世話をした。その付き合いは帝人が中学に上がっても続き、両親がいない晩は平和島家に泊まった。


 「それで」


 帝人が平和島家に泊まった、その晩の夕食の席だった。危なっかしくシチューを食べる静雄と黙っておかずのエビフライを咀嚼する幽の世話をしていた帝人に、静雄と幽の母親がニコニコ笑いながらこう言った。


 「帝人ちゃんは静雄と幽、どっちのお嫁さんになってくれるのかな?」


 瞬間むせ込んで盛大にシチューをこぼした帝人を、誰か責められようか。げほごほと苦しそうにせき込む帝人の背中を、幽が小さな手であやすように撫でた。これではどちらが年長者かわからない。


 「あらあら、帝人ちゃん大丈夫?」


 「駄目じゃないか、母さん。その話はせめて帝人ちゃんが中学を卒業してからじゃないと」


 「ごめんなさい。気が急っちゃって」


 「せっかちだな、母さんは」


 うふふあははと笑い合う平和島夫妻には悪いが、帝人は全く笑えない。最近になって帝人の名前が刺繍されたエプロンが用意されたり結婚式場のCMが流れるとやけにキラキラした目で見られたりした理由を知って、帝人は顔が引きつるのを感じた。


 「あの、すみませんけど、ぼくまだ中学1年生なんですけど。そして静雄さんはまだ5歳、幽さんにいたっては3歳なんですけど」


 自分の名前が出てきてきょとんとしている兄弟になんでもないと手を振って食事の続きを促す。帝人の言葉に、静雄と幽の母親はそんなこと知ってるわよと笑った。


 「だって帝人ちゃん料理もできるしお掃除も洗濯もきっちりしてるし子供の世話も手慣れてるし、母親としては帝人ちゃんみたいな子がお嫁さんに来てくれると嬉しいのよ。ていうかそのつもりでお料理教え始めたんだし」


 「計画犯!? 計画犯ですよこの人! ぼくが料理を教わったのって10歳の頃からだから・・・・・3年前からそのつもりだったんですか!?」


 「親としては早く孫の顔が見たいんだよ、帝人ちゃん。竜ヶ峰さんたちもそう言っててね」


 「産めってか!? どちらかが18歳になったら即結婚して産めって言うんですか!? ていうかぼくの親も共犯ですかチクショウ!」


 逃げ場などどこにもなかったらしい。本人が自覚するよりも早く外堀が埋められている。あれだ、じわじわと落城が迫っているのを眺めている殿様の気分だ。逃げたいが後ろも前もがっちり塞がれている。


 「で、どっちにするの? 親としては静雄の将来が心配だから面倒見て欲しいなあ」


 「一生お世話してくださいって言うんですか。自給もらわなきゃやってられませんよ」


 「あ、じゃあうちに結婚(しゅうしょく)しなさいな」


 「結婚って書いて『就職』って読みましたよね? とんでもないルビふりましたよね?」


 会話しているだけで頭痛がしてきたような気がして、帝人はさっさと食事を片付けるとごちそうさまでした、と手を合わせて席を立った。その後に続くようにして食事を終えた静雄と幽が席を立つ。どうやら帝人が立ちあがるのを待っていたらしい。


 「あ、帝人ちゃんご飯終わったんだったら静雄と幽をお風呂に入れちゃって」


 「わかりました。ほら静雄さん、幽さん、お風呂の準備してきてください」


 帝人が指示すると、静雄と幽は素直にそれに従って着替えを取りに駆けだした。帝人も平和島家に常備してある自分の着替えを取り出すと、脱衣所で何のためらいもなく服を脱いだ。途中で入ってきた静雄と幽の脱衣を手伝い、先にシャワーでお湯を出してからふたりを呼んだ。


 「じゃあ先に静雄さんから身体を洗ってください。幽さんはシャワーだけ浴びて、ぼくとお湯につかってましょう」


 静雄と幽が小さいこともあって3人でも余裕のある浴槽に、帝人はシャワーで幽の身体を温めると、抱き上げてゆっくり湯船に浸かった。今年で3歳になる幽の小さな身体を自分の膝に乗せて、帝人は幽の髪を撫でた。


 「湯加減はどうですか、幽さん。熱くないですか?」


 「へいき」


 両足でぱしゃぱしゃと水をけり上げて遊ぶ幽の姿を眺めていると、みかど、と身体を洗っている静雄に名前を呼ばれた。静雄のほうをむくと彼はどこか、不機嫌そうな顔をしている。


 「おれのよめになるの、そんなにいやか?」


 話を聞いていたのか、否、聞こえていたのだ。あれだけ盛大にわめいていれば嫌でも耳に入ってくる。5歳になる静雄にその言葉の意味が理解できていたことに驚いて、帝人はどう答えるべきか悩んだ。


 決して、嫌っているわけでも疎んでいるわけでもないのだ。まだ13年しか生きていない帝人に結婚だ恋愛だの話は遠い将来のことに思えて、実感がわかない。恋だの愛だのはお伽話か漫画の世界にだけ、在るものだとさえ思っていた。


 「静雄さんはぼくがいいんですか?」


 こんな胸もまっ平らな、色気もなにもないおばさんですよ。そう笑うと、静雄は頬を赤く染めて「みかどがいい」と言った。そのまま照れ隠しかなにかのように、勢いよくお湯をかぶると乱暴に浴槽の中へと侵入してきた。


 「かすか、そこかわれよ」


 「こらこら、我がまま言わないでくださいよ」


 弟を押しのけようとする静雄に苦笑して、仕方なく帝人はビニールでできたカエルのおもちゃで幽の気を引いて自分から離し、空いたスペースに静雄を抱き上げた。3歳の幽と比べればずいぶんと重いが、それでも抱きかかえればその小ささが実感できて、自分の中の母性がくすぐられるのがわかる。


 母性からだと、思っていた。この年下の少年たちを愛おしく感じるのは、いつしか遠い未来に発揮するだろう自分の母性がざわめいているだけのだと。この子供たちが自分に懐くのは、ただ縋りつく対象が家族以外に自分しかいなかっただけなのだと、思っていた。


 その感情を恋だなんて、呼ぶつもりは決してない。


 「静雄さんはただ、ぼくとずっと一緒にいたいだけでしょう?」


 その感情を恋だなんて、呼べない。


 幼子の独占欲を、恋などと、どうして呼べようか。愛だの恋だの、まだ知識でも知らぬ子供なのだ。名前をつけることさえ難しいだろうその感情は淡く、吹けば飛んでしまうくらい儚い。


 お湯で温まった指先で、帝人は静雄の柔らかい頬を撫でた。くすぐったそうに身をよじるけれど、決して拒もうとはしない。そんなふうに育てた。帝人は彼らの母親とも言ってよかった。そんな風に接してきたし、そんな風にしか接しられない歳の差があった。


 「静雄さんも幽さんも、ぼくをそんな風にみたことなんて、一度もないくせに」


 責めるような響きを含んだ声が、浴室独特の反響をもって響いた。大人しく帝人の膝の上に座っていた静雄が、大きな瞳で帝人を見上げた。


 「それでも」


 まだ声変わりすらしていない、幼子特有の高い、声。


 「おれはみかどがいい」


 そして帝人でなければだめなのだと、静雄は言った。危ういと、帝人は思う。この真摯さを、純粋さを、これから先もずっと向けられてしまってはいつかどこかで勘違いするだろう。帝人も静雄も、これが恋なのだと、そう感じて成長してしまうだろう。


 だから帝人はそう遠くない将来、この街を離れることを、今、決めた。小学校の頃に引っ越していった親友の誘いに乗ることを決めた。まだ両親にしか話していないが、きっと平和島夫妻はこのことを知っていたのだろう。だからあんな風に、帝人に将来が確定する約束をさせようとしたのだ。それほどまでに帝人を可愛がってくれることには感謝しているが、それでは駄目なのだ。帝人にとっても静雄にとっても、そしてもちろん幽にとっても、駄目な結末になる。


 「みかどはおれたちと、ずっといっしょだよな?」


 静雄が真剣な顔で問う。カエルのおもちゃで遊んでいた幽も、いつのまにか帝人のそばで帝人を見上げている。


 帝人は自分が、笑顔で嘘のつける人間だと自覚していた。


 「ええ、一緒ですよ」


 だから胸に突き刺さった痛みも後悔も躊躇いも戸惑いも動揺も理性も全てなかったことして―――――――綺麗に、微笑んだ。その頬をひとすじ、温かな液体が流れたが、涙なのかお湯なのかわかる人間は、帝人を含めて、誰もいない。





 











お題は歌舞伎さんよりお借りしました。