このシリーズを先に読んだ方が分かると思います。














 目を開けたとき、最初に見えたのは彼の顔だった。見慣れたその顔に、刹那が安堵の息を吐いた時、彼は口を開いた。


 『刹那、すまねぇ・・・・』


 その時の彼の顔を、刹那は一生忘れない。


 傷付けられた子供のような、彼の顔を。














 刹那は大きく深呼吸をすると、目の前の紙切れに意識を集中した。紙切れが宙に浮くイメージを強く思い浮かべ、指先を振る。


 ふわり、と紙切れは空中を漂った。


 「っ! 出来た!」


 「わぁ、すごい進歩だよ、刹那」


 ぱちぱちと拍手が響く。その音に刹那の意識は乱れ、紙切れはあっという間に地面へと落ちた。刹那は呼吸を整えながら、傍で見守っていたアレルヤから水を受け取った。


 「転生して一週間でここまで出来るのはすごいよ」


 「そんなこと、ない。まだ紙切れしか動かせないから」


 額から流れる汗をふき取り、刹那は一気に水を飲み干した。喉をすべり落ちていく冷たい感触が心地よい。


 「今日はここまでにしようか。刹那も疲れただろう?」


 「俺は大丈夫だ。まだ出来る」


 強がる刹那にアレルヤは苦笑すると、優しく彼女の頭を撫でた。


 「駄目だよ。〈力〉は想像以上に体力を消耗するんだ。今日はもうお終い」


 優しい、けどれも有無を言わせぬ口調で諭されて、刹那は押し黙った。不満をあらわにしながらも、大人しく引き下がった刹那に、アレルヤは「紅茶でも飲む?」と問いかけた。


 「いらない。少し散歩でもしてくる」


 「そう。ねぇ、刹那」


 扉の向こう側から顔だけ出して「なんだ?」と返す刹那に、アレルヤは飄々と告げた。


 「ハレルヤだったらきっと裏の森にいるよ」


 「っ!?」


 飛んできた靴は、見事にアレルヤの顔面に命中した。

















 刹那が吸血鬼になって一週間が過ぎた。目を開けたとき、そこは見慣れない部屋のベッドの上で、とても混乱したのを覚えている。記憶はハレルヤをかばって胸を貫かれたところで終わっていたので、ハレルヤから説明を受けるまで、ここは死後の世界だと思っていた。


 あれから、ハレルヤは刹那にそっけない。


 慣れない刹那の面倒は、ハレルヤの兄弟だというアレルヤがみてくれていた。食事や睡眠などの場でしか、刹那はハレルヤに会えなかった。朝の挨拶でさえ、返される事はない。


 踏み出した靴底が深緑の草を踏む。まだ刹那は空を飛ぶ事が出来ないから、歩いてハレルヤを探すしかない。照れ隠しで靴を投げてしまったが、アレルヤの助言がなかったら今頃途方にくれていただろう。


 彼に、会いたい。


 それだけを考えながら、ふらふらと森をさまよう。森と言えど小さいので迷う心配もない。だがその中から人を見つけるとなると、かなりの重労働になる。


 と、思っていたのに。


 (何しているんだろう・・・?)


 なんとなく見上げた大樹の上に、ハレルヤがいた。何をするでもなく、ぼんやりと遠くを眺めている。朝から姿が見えなかった彼は、ずっとあそこにいたのだろうか。


 ハレルヤに気付かれないように、こっそりと木に登り始める。木登りなどしたことはないので、多少危なっかしい登り方となってしまった。ハレルヤの傍、とまではいかないが、近くまで登ったところで刹那は大声で叫んだ。


 「ハレルヤ!」


 「は? え、刹那!?」


 ちょっとした悪戯心だった。当然声をかけたら驚くだろう、と。予想道理ハレルヤは驚き、叫び声を上げた。


 ただ予想外だったのが、その声があまりにも大きかった事と。


 「うわっ!」


 「っ!?」


 その声に驚いた刹那が、足を踏み外してしまった事。


 一瞬の浮遊感、そして傾いていく視界。地上との距離は10メートルくらいある。とっさに伸ばした手は、ハレルヤには届かない。


 落ちる、と刹那は目をつぶった。せめて少しくらいは恐怖を味わいたくない。だがいくら待っても、硬い地面の感触はやってこなかった。


 「・・・・え?」


 恐る恐る目を開けると、刹那は宙に浮かんでいた。


 「え、俺なんで・・・・」


 「じっとしてろ。今こっちに動かしてやるから」


 ハレルヤが手を動かすと、刹那はふよふよと宙に浮かんだままハレルヤのもとへ動かされた。わけがわからないまま、ぽすん、とハレルヤの腕の中へ落とされた。


 「お前、本っっっ当に馬鹿だろ。いくら俺たちがあれくらいで死ぬ事はねぇっつても、痛覚は残ってんだぞ」


 「でも、ハレルヤが助けてくれただろう? 前みたいに」


 「・・・・・・・」


 ハレルヤは額に手を当てて黙りこくってしまった。刹那はハレルヤの腕の中、また落っこちないようにハレルヤの腕にしがみついた。


 「刹那、お前もう帰れ」


 「嫌だ」


 ぷい、と刹那はそっぽを向いた。子供の我侭みたいだ、と思いながらも、そうする以外、刹那は彼に訴える方法を知らない。


 「ハレルヤはなんで」


 彼が言葉を言う前に、刹那はぼそりと呟いた。


 「俺を避ける?」


 「・・・・・避けてねぇよ」


 「嘘つき」


 刹那の言葉は淡々としていて、そこにハレルヤを責める響きはなかった。それが逆にハレルヤには苦しい。


 いっそ、責められた方が楽だというのに。


 「俺はずっとハレルヤと話したかったのに、ハレルヤがずっと俺を避けるから、まともに会話するのにずいぶん時間がかかってしまった」


 「なんだよ、話って」


 刹那と目を合わせるのがつらくて、ハレルヤは空に視線を向けながらそう尋ねた。すると刹那の手が伸びてきて、むりやり視線を合わせられた。


 「ありがとう、って、言いたかったから」


 その言葉と、刹那の微笑みに、ハレルヤは驚愕に目を見開いた。


 「・・・・馬鹿、か。なんで俺なんかに礼を言うんだよ!? 俺はお前を」


 認めることが出来ない、けれど、認めないことなんて出来るはずがない事実を、ハレルヤは叫んだ。


 「化け物に、したんだぞ」


 その悲痛な叫びに、刹那は目を丸くして首をかしげた。


 「だから、礼を言ったのだろう」


 「・・・・・・は?」


 ぽかーん、と口をあけて呆けるハレルヤに、刹那は笑いかけた。


 「俺はあのまま死ぬはずだった。でも生きている。それはおまえのおかげだ。お前が、俺を吸血鬼にしてくれたから」


 「お前は何も知らねぇからそんなこと言えるんだ」


 いいか、と前置きして、ものすごく嫌そうな顔をしたハレルヤは説明を始めた。


 「吸血鬼ってのは色々めんどくせぇんだぞ。血ぃ吸わなきゃ生きてけねぇし、〈力〉使うのだって負担かかるし、昼間はダルくなるし」


 「吸血鬼って太陽を浴びると灰になるんじゃなかったのか?」


 「んなもん、ただのおとぎ話だっつーの。太陽は苦手けど、灰になったりしねぇよ。とにかく」


 吸血鬼になったことを、喜んでんじゃねぇよ。ハレルヤが苦々しげに言った台詞に、刹那はそれでも、と返した。


 「俺はこの身体になれて嬉しい」


 「刹那!」


 「俺は今まで、こんな風に外を歩けなかった」


 刹那の言葉に、ハレルヤははっとした。昔を思い出すような、どこか寂しそうな顔で、刹那は言葉を紡ぐ。


 「木登りなんて、生まれて初めてだ。俺はずっと、あそこから出られずに死んでいくのだと思っていたから。だから、この身体になれて嬉しいんだ。お前と一緒に歩けて、とても嬉しいんだ。なぁ、ハレルヤ」


 ありがとう、と言わせてくれないか。ふわり、と微笑んだ刹那は優しくそう言った。うつむいたハレルヤは、ぼそぼそと胸のうちを語った。


 「憎まれている、と思ってたんだ。俺はお前を化け物にしちまったから」


 「馬鹿か、お前。俺がお前を憎むはずがないだろ」


 「だとしても、怖かったんだ。お前にそんな目で見られることが。罵られる事が。だから、逃げた」


 「じゃあ、もう逃げるな」


 叱られるのを怯える子供のようなハレルヤを、刹那はそっと抱きしめた。刹那の突然の行動に驚いたハレルヤだが、おずおずと刹那の華奢な身体を抱き返した。


 お互いの体温が、とても心地よかった。














 刹那は大きく深呼吸をすると、目の前の紙切れに意識を集中した。紙切れが宙に浮くイメージを強く思い浮かべ、指先を振る。


 ふわり、と紙切れは空中を漂った。


 だが、それも数秒で地に落ちた。


 「うわ、しょぼっ」


 「・・・・うるさい」


 嘲笑うような、ハレルヤの声が不愉快でしかたない。刹那はアレルヤから受け取った水を飲まずにハレルヤへとぶん投げた。だがそれもハレルヤの指先の動き一つで止められれる。


 「からかっちゃ駄目だよ、ハレルヤ。でも前よりは長くなったね」


 アレルヤのフォローに刹那はこくんと頷いた。面白くなさそうに鼻を鳴らして、ハレルヤは立ち上がった。


 「俺様直々に特訓しやるよ。ついてこれるか?」


 「見ていろ。すぐにお前なんか抜かしてやる」


 不敵に笑ったハレルヤに、負けじと刹那も返す。転化したばかりの自分がハレルヤに勝てるとは思っていないが、言い返さないのはとプライドが許さない。刹那は息を整えて、ハレルヤと向き合った。


 再び笑え合えるようになった彼へと、極上の笑顔を向けた。