電車から降りた瞬間、比喩でもなでもなく本当にぐわん、と脳みそが揺れた。ありえないことかもしれないけれど、本当に揺れた。空調のきいた居心地のよい車内から出た瞬間にこれだ。帰って来たんだな、と僕はしみじみと思った。本当は昨日の夜にはこっちにいたのだけれど、太陽が昇ってからこそが、池袋に帰って来たのだと実感できる。
八月も終わりかけた、けれど冷めやることのない夏の熱気が僕のほおを撫でる。日本特有のじめっとした空気が加算されて、尾を引く不快感となって僕を襲った。その熱気とひとごみが交じり合って池袋が形成されている。ただいま、僕の愛する池袋。
「あ、やほー帝人くん」
「こんにちは、狩沢さん、遊馬崎さん、門田さん」
駅からだいぶ歩いたところで、いつものごとく大量の紙袋やらパンパンに膨らんだ青いビニール袋やらを両手に抱えた狩沢さん達と遭遇する。たぶんあれ全部アニメグッズやら漫画やらライトノベルなんだろうなあ。そして門田さんは荷物持ちか、この暑い中大変だろうに。
「なんか久しぶりだね、帝人くん」
「そうっスね、そーいやここ一週間かそこら全然見かけなかったっス」
「里帰りしてたんです」
お土産です、と地元で有名な揚げ饅頭の箱を手渡す。そう、僕はこの夏休みを利用して実家に帰っていたのだ。僕は特に帰るつもりもなかったのだけど、両親からの帰ってこいコールに負けてしまった。
ド田舎というほどでもないけれど都心でもない僕の地元は、後方を山に、前方を海にかこまれているためか空気も綺麗で夏でもかなり涼しい。おかげで長居するつもりはなかったのに、ずるずると十日も居座ってしまった。生まれ故郷は懐かしくて居心地がよかったけれど、僕としては愛して止まない非日常が溢れている池袋のほうがいい。
「ありがとー。でもどうせだったらアニメイト限定グッズのほうが良かったかな」
「僕の地元、アニメイトはおろか漫画喫茶もありませんよ」
そう言うと、なんて地獄! と狩沢さんと遊馬崎さんが同時に頭を抱えて叫んだ。いや、別に気にしてないんですけど、堂々と人の地元を地獄呼ばわりですか。や、本当に気にしてないんですけど。
「一週間っていえば」
暑さのせいかそれともこのふたりの買い物つき合わされてか(高確率で後者だと思うけど)、若干顔色が悪い門田さんがなにか独り言のように呟いた。
「臨也のやろうも、ここんとこ姿見てねえな」
臨也さん、が。
お土産の袋をがさごそ揺らしていた僕の手が止まる。それに気付かずに、狩沢さんと遊馬崎さんが声を上げた。
「あー、そーいや見てないっスねえ」
「ここんとこみょーに平和だったねえ、そいうえば。自動販売機が空から降ってくることもなかったし」
静雄さんが暴れなかったというと、それは池袋じゃないくらい平和だったに違いない。静雄さんが切れる理由の80%以上を占める臨也さんがいなかったらしいから、それもそうか。
「じゃ、僕はこれで。今日はお土産配って歩かないといけないんです」
「そっか、お土産ありがとねー」
比較的荷物の少ない狩沢さんが大きく手を振る。荷物で腕すらあげられない門田さんは、気をつけろ、と会釈してくれた。まだ日は高く、一日は始まったばかりだけけれど、きっと忙しい日になるだろう。
その後は本当に忙しかった。新羅さん家に行って揚げ饅頭とそれを模したキャラクターのキーホルダー(揚げ饅頭を食べられないセルティさん用。家の鍵につけるのだと喜んでくれたので、悩んで買ったかいがあったというものだ)を渡し、町でナンパ連敗記録を伸ばしていた正臣、公園でタバコを吸っていた静雄さん、街角で客寄せをしていたサイモンさんにもお土産を渡した。学校以外で会う機会がほとんどない園原さんはどうしようかと悩んでいたら、セルティさんが会った時に渡してくれると言うのでお言葉に甘えて預けた。
会う人たち全てに里帰りの報告と差し障りのない世間話を繰り返しているうちに、いつしか頭上に輝いていた太陽は遥か西へと沈みつつある。ビルの群れが茜色に染まるのをなんとなく眺めながら、僕は自宅のドアを空けた。
「ただいまー」
「おかえり」
・・・・・ただいま、と言ったものの、それはもはや独り言に近いもので、実際に中に誰かいることを知っていたわけではない。ていうか鍵はかけておいたはずだしなにより僕が帰るついさっきまでしっかりかかっていたので、誰も中に入れないはずだ。というわけで、すみやかにどうやって不法侵入したのか教えてください、臨也さん。
「合鍵で入ったんだよ」
僕の顔を見て察したのか、臨也さんが指の先で渡した覚えのない鍵をくるくる回しながら答える。もはやこれは犯罪なんじゃないだろうかとか少し思ったけれど、警察に引き渡してもどうせあんまり効果ないだろうから止めておいた。静雄さんが一番効くだろうけど、それやったら僕の部屋が消し飛ぶし。
いつまでも玄関で呆けているのもあれなので、とりあえず靴を脱いで室内に上がる。いつからそこにいたのか、臨也はペットボトルの紅茶まで用意してすっかりくつろいでいる。僕の家なのに。ていうか不法侵入のくせに。
ちょいちょい、と臨也さんが僕を手招きする。両手をいっぱいに伸ばして呼ぶってことは、その腕の中におさまれということだろうけど謹んで辞退した。ちえーとか可愛い仕草を全然可愛くなくする臨也さんを尻目に、僕は紙袋から出したお土産を渡す。
「はい、里帰りのお土産です」
「ありがとー。紀田くんに聞いたよ。実家に帰ってたんだって?」
なるほど、どうりで正臣が申し訳なさそうな、それでいて哀れみを含んだ変な顔で見てくるわけだ。臨也さんのことだ、聞いたというか脅して無理矢理聞き出したんだろうな。正臣、ごめん。
「十日も帝人くんに会えなくて、俺、死にそうだったよ」
生きてるじゃないですか、うそつき。
「臨也さんはおおげさですね」
「本当だよ? だって俺は帝人くんを愛してるんだから」
その言葉が嫌いです。僕は歪みそうになる顔の筋肉を必死でなだめる。会うたびに言われてきたそのお決まりの台詞に、僕の心は完全に麻痺していた。臨也さんの愛してる、は空気のようなものだ。当たり前のようにそこにあるけど、目に見えないし感じない。
じゃあ臨也さんの愛なんて全く意味のないものじゃないかと少し考えて、いやそれは比較対象にした空気にかわいそうだと気付いてやめた。
僕の頭の中身なんて気付かずに、臨也さんはとてもご機嫌で、今すぐ鼻歌でも歌いだしそうな状態だ。また愛だなんだ言い出す前に、お土産持ってさっさと帰ってくれないかな。
唐突に、本当に唐突に、臨也さんが口を開いた。
「会いたかった」
僕は。
「君にとても会いたかった」
僕は会いたくありませんでした、臨也さん。
池袋に帰ってきて、まっさきにあなたを思い出しました。十日も会っていなかったのは皆同じなのに、なぜかあなたを思い出しました。
それでも僕は、あなたに会いたくありませんでした。
あなたの愛が信じられないわけでも嘘だと決め付けているわけでもありません。確かにあなたは僕を愛してるんでしょうけど、それは猫という動物の中の、スコッティホールドという種類が好きだと言っているのとなんらかわりません。
あなたは、僕を愛しているだけで恋をしているわけではないんです。
だから臨也さん、僕はあなたに会いたくありませんでした。
あなたに会って、こんなぐちゃぐちゃとした醜い考えをさらけ出してしまうのが嫌で嫌でたまらないからです。
「帝人くん」
そんな声で、僕を呼ばないでください。
まるで詩を朗読するかのように臨也さんが僕の名を繰り返す。その声を聞きたくなくて、僕は今すぐ両耳の鼓膜を突き破ってしまえたらどんなにいいかと思った。
本当ならこのお土産は波江さんにでも渡して、そうしてあなたに会わないつもりでした。
あなたに会って、他愛のない話をして、そしてさようならってしたくなかったんです。
さようならって言った瞬間に、僕は酷く死にたくなるから。
別れの挨拶がまたねじゃないことに、酷く絶望するから。
「・・・・紅茶、ロールケーキご馳走するんでわけてください」
一人で飲むには多すぎる二リットルの紅茶は偶然か必然か僕が好きな銘柄だ。臨也さんからただで物をもらうなんて怖すぎることはできないので、対価として母からもらった秘蔵のロールケーキを冷蔵庫から出すために席を立つ。背後で臨也さんが狂喜乱舞しているのがわかったけれど、なんかもう疲れたので全力で無視をした。
ロールケーキをふたりぶん切って、ティーカップもふたりぶん用意する。そういえば、臨也さんからケーキもらったりご飯をご馳走してもらったりすることは多々あったけど、僕からお茶に誘うなんて初めてかもしれない。
嫌だな。
それほど嫌だと思えないのが、嫌だ。
真実と終わり或るいは 戯言
お題は選択式御題さんよりお借りしました。