「出産費用というのはどれくらいかかるんですか、新羅さん」


 来て早々ぶしつけだとは思ったが、その質問が帝人の訪問の理由全てで、これを黙っていては本末転倒もいいところである。帝人は向かい側に座った新羅の混乱が収まるまでまってから、再度その質問を口にした。


 「出産費用というのはだいたいどれくらいかかるんですか」


 「・・・・・・・・・・うん、どういった流れでその質問をされたのかわかっちゃう自分がちょっと悲しくなってきたよ、帝人ちゃん」


 臨也や静雄といった友人のせいで混乱するのには慣れているのか、爆弾を落とされたわりには早く立ち直った新羅が眼鏡のズレを直しながら、ためらうことなく回答を口にした。


 「基本的に出産費用って言うのは、妊娠してから出産までにかかるお金のことなんだけど・・・・・・妊娠検査はもちろん、定期健診がだいたい出産までに10回くらいかな、あるから。それだけで10万円くらいはするね。それと任意の検査代に、入院費用。それから、ほら、お腹が膨らんでくると服や下着も買わないといけなくなるよね。産んだ後も産後検査っていう子宮癌の検査をやらないといけない」


 出産は専門じゃないんだけどなあと言いながらも、新羅は紙に書いて懇切丁寧に教えてくれた。合計すると4、50万は必要になる。その途方もない金額に目がくらんで、いっそう下腹部がずしんと重くなった気がした。


 「それで、帝人ちゃんはどうしたいのかな?」


 何も尋ねずにただ『どうしたいのか』だけを問うた新羅の異常なまでの察しの良さに内心で舌を巻きながらも、帝人は躊躇いもなく口を開く。複数ある答えのうちどれを選ぶかなんて、最初から決めていた。


 「ぼくは産みます。産んで―――――――静雄さんの前から、姿を消します」


 最善の道ではないかもしれないけれど、これが帝人の選んだ答えであった。優しすぎるくらい優しい恋人へ何も告げず何を言わず何も説明せず、腹の子と共に姿を消す。そうしてそのまま、母ひとり子ひとりで生きていけばいいと、本気で考えていた。


 「どうして? 静雄だったら君とお腹の子ぐらい喜んで養っていくと思うけど。相思相愛だろう、君たち」


 「ぼくは嫌です。けじめだなんだ言って、子供を結婚の理由にするのは嫌です。この子で静雄さんを縛りつけるのは嫌です。そんなの、この子も静雄さんも可哀そうですし、ぼくだって惨めです」


 学生結婚に躊躇いはない。けれどそれは静雄を変えてしまうだろうと思う。良い変化かもしれないし、悪い変化かもしれない。子供が生まれなくても、数年後には訪れる変化かもしれない。それでも帝人は、意識的だろうと無意識的だろうと、その変化を出産という行動で強制的に行い、静雄を縛りつけてしまうのだけは、嫌だった。


 衝動的に帝人が自分の腹に手を置く。まだこれっぽっちも膨らんではいない、己の腹。そこにいるかもしれない、自分の子供。


 「姿を消すって言ったってどうやるのさ? 失踪なんてひとりじゃできないよ?」


 「臨也さんに頼みます。あの人なら人ひとり消すのくらい簡単でしょうから。依頼料ふんだくられそうで、ちょっと怖いんですけど」


 苦笑すると、新羅もだろうね、と笑った。彼のお気に入りであった自覚はあるから、それが消えるとなれば良い顔をしないだろう。せめて彼が仕事にプライベートを持ち込まないことを祈るばかりである。


 それからどうか万事上手くいきますようにと、帝人は誰だかわからない神に、祈った。

















 あの後本当に妊娠しているのか検査を受けて、帝人はすんなり家に帰った。妊娠検査薬はそこらへんの薬局で売っているのだろうが、下手をすればまだ中学生にも見られる帝人がそれを買うというのは抵抗があったため、確実な結果を望んで岸谷宅で検査を受けた。専用の機材がないから時間がかかるのだと新羅は言っていた。どれくらいあれば、腹の中にいるかもしれない子の存在がわかるのか、帝人には見当もつかない。


 『身重』とはよく言ったものだと、帝人は自宅の水場に寄りかかりながらひしひしとその言葉を実感していた。身体が重くて仕方がなく、まるで鉛にでもなったかのようだ。年季のはいった水場には食器用の洗剤や片付けたばかりの食器を汚すように、つい先ほど帝人が自分の胃から逆流させた嘔吐物が飛散し、胃液独特の酸っぱいにおいを漂わせている。胃液が喉を焼く不愉快な感覚を味わいながら、ずるずると帝人はその場にへたり込んだ。


 吐いたのは先ほど食べた昼食だというにも関わらず、嘔吐物のほとんどは胃液であった。先週から極端に食欲が落ち、夏バテかと思い食べやすそうな素麺を口に入れた結果がこれだ。自分の身体の変化に愕然とする。


 水で嘔吐物を洗い流し、換気扇のスイッチを入れて不快な臭いを消す。冷たい水で口内を洗ったところで、帝人は険しい表情で壁にかかっているカレンダーを睨みつけた。ひいふうみい、と指折り数えてまた一段と表情を厳しくする。そっと無意識に、自分の手がうすっぺらい己の腹を撫でる。


 正直、こうなる危険性に気付かなかったのかと問われれば、帝人は首を横に振る。気づいていた。わかっていた。けれど、気づかないふりをして、わかっていないという顔をした。それゆえの結果だとわかっていて、帝人は静かに拳を握りしめた。


 体調不良でだるい身体をひきずって布団にもぐりこむ。夕食を食べる気力すら湧かず、ひたすら睡魔が訪れることだけ願って瞳を閉じた。暗い視界に浮かぶのは、おいてきぼりにすることを決めた自分の恋人の顔。


 たった一度の情交だった。静雄から誘ったわけではない。静雄は優しすぎるくらいに優しくて、いつだって帝人を気づかい、決して口づけ以上の触れ合いをすることはなかった。その壁を壊し、一線を越えさせたのは他の誰でもない、帝人だ。


 事の顛末を知った時の彼の絶望を考えて、暗い喜びが帝人の胸をよぎる。悲しんでくれるだろうか。きっと、彼は酷く悲しんで酷く怒って、酷く絶望するだろう。すぐに忘れてくれとは思わないけれど、いつか、そんな子供がいたな、と思い出してくれれば、それだけで帝人は救われる。


 ぎり、と錐で刺されたかのように下腹部が痛んだ。それがまるで先ほどの薄暗い考えに対する罰のように思えて、帝人は布団の中で猫のように身体を丸めて痛みをやり過ごした。身体はだるいが、耐えられないほどの痛みではない。眠ってしまおうと硬く目をつぶった瞬間、金属が押しつぶされて割れるような、酷く耳に痛い音が室内に響いた。


「っ!?」


 逆光で顔が良く見えないが、部屋に入ってきたのは間違いなく静雄だった。そもそも鍵がかかっていた部屋にドアノブを破壊して侵入するなんて真似ができるのは、静雄しかいない。


 「静雄さん・・・・・」


 呆然とその名を呼ぶと、まるでそれがスイッチかなにかだったかのように静雄が動き出した。みるみるうちに帝人との距離を詰めてくると、しゃがみこんで帝人と視線を合わせる。サングラス越しでは彼の瞳は見えないが、額に浮いている青筋が全てを物語っていた。


 「なんで俺に黙っていやがった」


 静かな、静雄にしては珍しい感情を押し殺した声が、冷静さ故ではなく気が狂わんばかりの怒りからだとわかってしまったから、帝人はそっと目を伏せて、帰ってくださいと静雄に告げた。彼がここに来たとういうことは、全てを理解しているのだろう。新羅がほいほい喋るような性格ではないとが、最愛のセルティに迫られた時の彼はひどくあっけない。


 「お願いです。何も聞かなかったことにして、何も見なかったことにして、帰ってください。駄目なんです。静雄さんが良くても、ぼくが耐えられないんです。静雄さんのことは好きですけど、それでも、いえ、それだから、駄目なんです」


 自分が今どんな醜態をさらしているのか、さぞ醜かろうと帝人は思う。やつれた顔をさらして、情けない声を漏らして。この姿に幻滅して帰ってくれないかと、帝人は半ば本気で思った。


 逃げることが、捨てることが、置き去りにすることが、今の帝人にできる精一杯の『静雄のため』だった。


 「ふざけんな」


 街中で臨也相手に標識をふるっている時とは違う、爆発した怒りではなく押し殺した怒りを動力源にしたその声は、聞くだけで帝人の小さな心臓がショックで止まってしまうんではないかと思う。だから帝人も、その小さな身体に宿るあらん限りの力を振り絞って、叫ぶ。


 「あなたに、あなたにぼくの何がわかりますかっ!? ぼくの恐怖のどれくらいを、共有できますか!? どれくらい、ぼくが、それを恐れていたかわかりますか!?」


 テレビの中にしか存在できないと思っていた超人がすぐ隣にいて、憧れて、慕って、無我夢中でそれに手を伸ばして、こちらを見てほしくて彼の名を叫んで、


 そうすることの結果が、超人をただの凡人に変えてしまうことだと気づいた時の帝人の絶望を、恐怖を、誰が理解できるだろうか。


 「あなたに、なにが、わかるんですかっ!?」


 理解されてたまるかと、帝人の脳みその奥で、本能が叫んだ。


 「わからねえよっ!」


 しかしその叫ぶも、静雄の咆哮にはかなわない。あっという間に押しつぶされ、圧倒され、霧散して消えた。叫んだ静雄の拳がぶるぶると震えているのは、怒りか、はたまた別の感情からなのか。


 「俺はお前のこと少ししか知らねえ。俺の名前をずっと呼んで、あぶねえから下がってろっつったってちょこまか俺の後くっついてくる酔狂な奴としか、知らねえ。でもそれはお前も同じだろうがっ!」


 その台詞があまりにも濡れていたから、叫ぶ静雄の言葉は、怒りではなく哀しみなのだと、その瞬間帝人は理解した。


 彼の唇から洩れるのは怒りではなく哀しみで、彼の頬を濡らすのは血ではなく涙なのだ。


 「俺を見縊るな」


 帝人の瞳を真っ向から見据えて、いつもは視線が合うだけで赤面して逸らすくせに、こんな時だけじっと見つめて、静雄の手が帝人の肩に触れる。触れれば爆ぜそうな雰囲気とは裏腹に、その手つきは酷く優しくて、だからこそずるいと帝人は思う。こんな風に優しくされたら、忘れることさえ、できなくなってしまうではないか。


 「俺の限界を、お前が勝手に決めるんじゃねえよ。もっと俺を信用しろ。お前くらい背負って行けるんだよ」


 その言葉があまりにもまっすぐでなんの飾り気がないものだったから―――――帝人は揺れる。夢を見てしまう。明日を期待してしまう。将来を考えてします。静雄の隣で笑っている未来を、望んでします。


 (ぼく、は)


 望んでもいいのだろうか。期待してもいいのだろうか。考えてもいいのだろうか。静雄が、帝人ごときでは変わらないと。ずっとこのまま、帝人が憧れて恋慕い続けた、超人のままでいてくれるのだと。


 (あなた、と)


 童話のお姫様みたいに、なんて言ったら似合わなすぎて笑うしかないのだが、彼の手を取ってもいいのだろうか。軽やかに、速やかに、迷いなく、躊躇いなく、選んでもいいのだろうか。


 「生きたいって言っても、いいんですか・・・・・・」


 ぽろり、と帝人の瞳から涙がこぼれ、頬を伝って布団の上に落ちた。ちょうど下腹部をおおっている上掛け布団の生地に涙が吸いこまれていって―――――――とたんに、腹部に銛で突き刺されたかのような激痛が走る。


 「っ、ぁ、あ、ぁっ・・・・・!」


 「帝人っ!?」


 鋭利な刃物で内部をぐちゃぐちゃにかき乱されているような、下腹部にずぅんと重しを乗せられたような、ヒルかなにかが太ももに無数に張り付いているような、そんな感覚に鳥肌が立ち、同時に激痛で目の前が真っ赤に染まる。


 静雄にもたれかかって息を整えながら、自分の下腹部を見る。白い布団とパジャマしか存在しないはずのそこに染み出した、どす黒い赤がひどく鮮明に瞳に映って―――――ぷつりと意識が、断絶された。

















 「うん、結論から言うと、不順だった生理がやってきたんだよ」


 帝人を抱えた静雄に突然家のドアを破壊されたというのにも関わらず、いつも通りののほほんとした雰囲気で新羅は青白い顔をさらしている帝人にそう告げた。めまぐるしく変わっていく展開についていけず、できることと言ったら静雄と共に「はぁ?」と返すことだけだ。


 「うん、だからね、帝人ちゃんって前々から生理不順だったよね? 今回はこの猛暑の影響もあってそれが酷くなって――――勘違いしちゃったわけなんだよ」


 「つまり、ぼくは妊娠していないってことですか?」


 「そうだよ。検査結果も陰性だし、なにより生理が来たんだから間違いない」


 なんともお騒がせな結果に、ずるずると帝人はソファーに突っ伏す。肉体面でも精神面でも非常に疲れた。何も存在していなかった腹を撫でて、いるはずない存在にぼくの決意を返せと小声で罵ってみた。そんなことをしたって馬鹿らしいだけだとはわかっているのだけれど。


 「妊娠って、どういうことだ・・・・・」


 ひとり、帝人の隣に座った静雄だけが、納得も理解もできずにぽかんと間抜け面さらしている。その台詞に帝人は「へ?」と首を傾げた。全てを新羅から聞き及んでいたからこそ、静雄は帝人宅へ来たのだと思っていたのだが。


 「静雄さん、全部わかっててぼくん家来たんじゃないですか・・・・?」


 「・・・・いや、俺は帝人が不治の病気で、それを気にしてどっか遠くの病院に行っちまうって聞いたか、ら・・・・・」


 「あ、それ嘘だよ、嘘」


 お互いを見て首を傾げ合うふたりをよそに、あっけらんと新羅が言う。帝人は混乱しながらもとりあえず、自分以上に混乱している静雄がうっかり新羅を殺さないように、彼の服の袖をぎゅっと握った。


 「帝人ちゃんが家に来て検査をした時点で結果は出てたんだけど、それを伝えたって根本的な問題は解決しないだろう? だからちょっと一計を案じてみましたー」


 「静雄さん、死なない程度に殴ってもいいですよ」


 「よしきたまかせろ」


 「いやだなちょっとした恋のキューピトの痛い痛い痛いもげる腕もげるから本当にごめんなさい反省してます許してください」


 新羅の腕をもぎとろうとする静雄と全力で謝る新羅、という図を眺めながら、帝人ははぁ、と溜息をつく。つまり全てが戯言で、茶番で、喜劇だったわけだ。帝人の決意も、静雄の叫びも、全て。


 『俺の限界を、お前が勝手に決めるんじゃねえよ。もっと俺を信用しろ。お前くらい背負って行けるんだよ』


 彼の叫びを、嘆きを、怒りを、誓いを、思い出す。無意識のうちに帝人の唇はほころび、手はからっぽの下腹部を撫でる。本当にそこに命が宿った時、今度はきっと、違う選択肢を掴むことができるに違いないと、帝人は微笑んだ。





 











お題は選択式御題さんよりお借りしました。