いつもなら携帯の開閉に意味なんて持たせないけれど、今回ばかりは理由がある。ぱかぱかと手のひらで携帯をもてあそんで時間を潰すという意味と理由。数秒程度じゃ携帯の画面に表示されている数字は欠片も変わらないと分かっているけれど、俺はその行為を止められない。誰かを待つことは多々あるけれど、時間がこんなにゆっくりに感じるのは先輩を待っている時だけだ。
ちりん、と扉の上についた小さな鈴の音が店内に控えめに響く。客が入ってきたらわかるようにつけてあるのだろうけれど、自己主張しなさすぎて意味がないと思うのは俺だけだろうか。店内の喧騒に上書きされてここみたいな出入り口付近の席しか聞こえないのだから、本当に無駄な労力を使わされているなあ、と鈴に同情してみる。先輩かもしれない、と一時間前からの癖で出入り口を見た俺は一瞬だけ眼科に行こうかと考えてしまった。見間違いなら良かったのにって、少しだけ思った。
動揺しなかったと言えば嘘になるけれど、それを表情に出すような真似だけは絶対にしたくなかった。休日を過ごす人たちで込み合った店内できょろきょろと俺を探す先輩と目があうまでに作り上げた笑顔で先輩を迎えたはずなのに、俺の向かいの席に着くなり先輩は小さく笑って「やっぱり気になるんだ?」と俺に言った。なにもかも、お見通しだよって顔で。
先輩を見たことがある人なら一目でわかる変化。誰もが簡単に口にするだろうその指摘をするのに、俺はなんだか躊躇ってしまった。
「髪、切ったんですね」
先輩の背中まであった黒い、毛先はてんでばらばらの方向をむいていたり枝毛があったりで決して綺麗とは言えない髪が、耳の少し下のあたりでばっさりと、潔いくらいばっさりと切られていた。自分で切ったのかやはり毛先は不ぞろいで、杏里先輩と同じくらいの長さなのに印象がかなり違う。
先輩はその髪を指先でつまんで、笑った。
「似合わない、かな? これでも子供のころは男の子みたいに短くしてたんだよ」
「それはちょっと・・・・・想像できないです」
俺が見たことがある先輩は背中までの髪をそのままにしていたり、邪魔だからと後ろでくくっていたりする姿だけだ。その姿だって可愛くて、俺は嫌いじゃなかったんだけど。つい昨日まで髪を切るなんてそんなそぶり、欠片も見せてはいなかったからよけい俺は驚いた。
「なんで髪を切ったんですか?」
俺が尋ねると、先輩は笑った。俺が一番嫌いな笑い方で笑った。紀田正臣の話をする時と同じ顔で笑った。その笑い方に吐き気がした。
「だってもう、切らない理由はいなくなっちゃったからね」
その言葉で、俺は先輩が髪を切った理由も髪を伸ばしていた理由も悟った。苛々して、おれは唇を噛む。結局いつだって、先輩をかえるのはあいつであって俺ではない。唇から脳に届く鉄錆の味さえなんだか気に入らなくて、俺は注文したカフェオレで全てを胃に押し込んだ。
切らない理由をいなくなったと話した、その意味がわからないほど、俺は馬鹿じゃない。
「それに前みたいにマスクかぶるときに長い髪は邪魔だから。いちいちくくるのも面倒だし」
「それくらいなら俺がしましたよ」
「青葉くんって女の子の髪くくれるの? 男の子って、そーゆーのできなさそう」
先輩のためでしたらいくらでもできますよ、とはさすがに言わないで曖昧に笑っておいた。たぶん引かれるだろうし。何事においても自重は大切だと心に刻んでおく。
マスクに関しては俺に責任がある。なにせメンバー全員が男で、今までそんなことに配慮する理由なんて塵ほどもなかったからすっかり心から抜けていた。結局あの時先輩は髪をゆるく結んで極力目立たないようにしたのだけれど、後ろから見れば髪の部分だけぽっこりと生地が盛り上がっていて、言葉に表せないくらいマヌケだった。
近々改良しようと思っていたのだけれど、行動に移す前に先輩のほうがなんとかしてしまったのでゴミ箱に投げ入れたあのマスクをあとで救出しておかないと。汚れていたら先輩に申し訳ないから今度はゴミ箱じゃなくて洗濯機に投げ入れておこう。
俺がつらつらとそんなことを考えていると、先輩は少しだけ目を伏せて、それに、と言葉を続けた。
「もう今までと同じってわけには、いかないからね」
先輩の言うとおり、ここ数週間で先輩を取り巻く環境はリフォームの匠が好き勝手に自慢の腕をふるった家くらいに激変した。その中で最も変わったのは先輩自身だ。あと、俺の中の先輩に対する評価。ただの発育途上の女の子だと砂糖で漬け込んだ果物の漬物よりも甘く見ていた過去の自分を樽に漬け込みたい。
いらなくなったモノを切り捨てて、害をまき散らすモノを排除して、そうして前だけ見つめていくその姿勢は世間一般から見たら正しいのだろう。過去ばかり見つめるよりは、たぶん心の健康にもいい。
でも知ってますか先輩。それって現実逃避っていうんですよ?
先輩は前ばかり見てる。過去も現在も見ちゃいない。いつだって馬鹿みたいに前ばかり見て、だから石に躓いて転んで、怪我をして血が出て痛い思いをしても、それでも前だけ見て。
後ろなんか、過去なんか絶対に見ないと歯を食いしばるその姿は逆に、過去に縛り付けられてもがいているようにも見えた。昔の、何も知らずにのんきに笑って、いざとなったらなにもできなかった弱い自分を見たくない、認めたくないって目をそむけている。
「・・・・・先輩」
「? なに?」
「・・・・・・・いえ、なんでもないです」
俺が中途半端に言葉を濁してそのまま残り少なくなったカフェオレをすすると、先輩は「変な青葉くん」と笑った。その笑みにまた飲み込んだはずの言葉が食道を通って口からリターンしそうになったけれど、思いっきり噛み砕いて再び飲み込んだ。言えるはずないもんなあ。俺を見て、なんて。
俺を見るくらいなら先輩は両目を潰す。真っ暗なそこに記憶の中の紀田正臣を映して、それで満足して幸せだと豪語するだろう。そんな人だ。なんで俺、こんな酷い人に惚れたんだろ。
「そろそろ行こうか、青葉くん」
立ち上がった先輩に頷いて俺もテーブルの隅に置いてあった伝票を手に立ちあがった。先輩はなにも注文していないので、代金は俺のカフェオレだけ。俺の会計に先輩が付き合うわけもなく、俺は会計を澄ませながら一足先に往来を歩き始めている先輩の小さな背中をただぼんやりと眺めた。
あんたは過去に縛られ続けたまま己の弱さを認められないんですね
お題は選択式御題さんよりお借りしました。