静雄とのキスは嫌いだな、というのが帝人の意見である。帝人は目と鼻の先にある静雄の顔を眺めながら、意外と長いまつげだとか日に透けてキラキラ輝く金髪を綺麗だな羨ましいなちくしょー云々どうでもいいことを考えた。
そっと帝人の唇に静雄のそれが触れる。期待と嬉しさでほんのり目元を染めながら、帝人はその触れ合いを楽しんだ。おずおずと、まるで壊れ物でも扱うかのように触れてくる静雄の唇は、けれど決して深いところまでやってくることはない。帝人はまたか、と失望をその瞳に映した。
「静雄さん」
名を呼ぶと、静雄の身体が跳ねた。同時に帝人を抱きしめる腕の力が強まる。帝人は仕方ない、と目を伏せて、やや強引に静雄の唇へ喰らいついた。呼吸のために薄く開いていた、静雄の唇へ。
「っ!?」
カチ、と互いの歯が軽く当たる。舌先で触れた熱い塊が静雄の舌だと理解した瞬間、帝人は自分から仕掛けたことも忘れて急激に頬を染めた。だが、帝人のその反応も静雄に比べれば可愛い物だ。
動かない。
静雄は動かない。
時が止まったかのように、氷付けの彫刻のように動かない。否、動きたくても動けないのだと帝人は知っていた。おそらく、あまりの事態に思考回路がショートしているのだろう。
(ああ、もう!)
「静雄さん!」
激情のままに名を呼ぶ。その瞬間、身動ぎした静雄の歯が帝人の唇の端をかすめた、ただそれだけのことなのに。
感じるのは微かな鉄錆の味。そっと指を這わすと、付着した紅に帝人は少しだけ瞠目した。まるで刃物のようだ、と感想を抱く。舌先でなぞった傷口は浅く、舐めているうちに血も止まった。
帝人が大したことないと判断したそれは、しかし静雄にとってはとんでもないものだったらしい。
突如静雄の大きな腕で抱き上げられる。膝の裏に腕を差し入れられ、俗に言うお姫様抱っこという形で静雄の首筋に抱きつくことを余儀なくされた帝人は制止の声を上げた。だが、無言のまま却下される。いぶかしんで間近にある彼の顔を覗き込めば、まるで世界の終わりがやってきたような表情をしている。
「し、静雄さん・・・・?」
「新羅のとこ行くぞ」
静雄の口から飛び出した闇医者の名に帝人はへ? と間抜けな声を洩らす。まさかとは思うが、こんなかすり傷程度で彼の診察を受けようと言うのか。残念ながら静雄の顔を見る限り彼は本気なようで、帝人は羞恥とかその他モロモロのものでさぁぁと顔色を悪くさせた。ストップ、と帝人が叫んだ瞬間に静雄が玄関の扉をぶっ飛ばしながら駆け出したので、帝人は舌を噛んだ。
「はい、ちょっとしみるけど我慢してね」
消毒液を染み込ませた脱脂綿がちょいちょいと唇の端を撫でる。ピリ、とした痛みに顔をしかめたけれど、耐え切れないわけがない。ものの数秒で診察は完了し、新羅は白衣の裾をはためかせながら「終わったよ」と囁いた。
「静雄の歯で切ったなんて。昔っからなにかしら噛み千切ってたけど、ほんと、動物みたいなヤツだなあ」
「お手数おかけしてしまってすいません」
「いいよいいよ。むしろ静雄の面倒みてもらって感謝してるくらいだしね。っていうことで代金はナシでいよ」
そんな、と悲鳴じみた抗議はセルティの登場でうやむやになってしまった。消毒液やらガーゼやらが入ったビニール袋を掲げて、一同の視線が自分に集中している事にセルティは首をかしげた。
『邪魔をしたか?』
「い、いえ。お帰りなさい、セルティさん」
「お帰りセルティ!」
「ただいま、帝人」
ルパンもびっくりな跳躍でセルティのもとへと駆けた新羅を足蹴にしながら、セルティが『そういえば』とPDAになにやら打ち込む。
『部屋の外で静雄が今にも死にそうな顔して正座していたが?』
「・・・・・・・なんか、すいません、色々と」
現在進行形で扉の前で頭たれてどっぷり自己嫌悪の海に沈んでいるだろう静雄を思い、同時にそんな負のオーラ生産機に自宅を突撃されたふたりにとてつもない罪悪感が生まれる。
「いい加減、静雄さんも慣れてくれればいいのに」
『無理だろ』
「無理だね」
独り言に近いそれに、すぐさま同じ答えが返される。がっくりとうなだれたが、帝人自身、静雄のそんな性格を知り尽くしているので今更なじる気にもなれない。
『で、今回はどうしたんだ?』
「ぼくがむりやりキスしたら、静雄さんの歯で怪我しちゃったんです」
事のあらましを説明すると、セルティはご丁寧にPDAに『・・・・・・・』と打ち込んで己の感情を表現した。帝人もやりすぎたか、と自分の行動を反省し、同時に自宅からここまでお姫様抱っこという健全な男子高校生が受けるにしては屈辱と羞恥にまみれたその記憶にそっと蓋をした。
帝人が青ざめた静雄に抱えられて新羅邸に運ばれる、それももう何度繰り返したかわからない。半分は臨也と静雄の戦争が原因だが、残りの半分は今回のような、静雄との触れ合いが原因だ。その度に焦った静雄に扉を壊されている新羅には悪いが、帝人はこの急いた触れ合いを自重しようとは思わない。
静雄が帝人との触れ合いを拒む、とまではいかないものの快く思っていないことは百も承知だ。しかしそれは決して、静雄が帝人を嫌っているわけではない。
「静雄さんは臆病ですから」
新羅もセルティも何も言わない。何も言えない。帝人はきっちりと閉じられた扉に視線を向け、その向こうでうなだれているであろう静雄を思ってうっそりと微笑んだ。それは普段の帝人のそれとは違う、夢見る乙女のような、しかしどこか退廃的な雰囲気を孕んだ笑みであった。
優しいことが悪だと決め付けるわけではないけれど、行き過ぎた優しさは拒絶と同意義だ。
静雄は誰よりも優しくて、そして臆病だ。自分の力が簡単に人を殺しえるものだと知っているから、こうして帝人に触れることも怖がる。優しいから人を傷つけることを怖れ、臆病だから人に触れられなくなる。帝人がそれを嫌い、無理矢理触れて怪我をする。そしてまた静雄は自分の力を忌み、ますます他人に触れたがらなくなる。
なんて悪循環、と帝人は哂った。
「ちょっと荒療治かなって、思わないでもないんですけどね」
『ちょっと・・・・・・か?』
「静雄相手じゃ普通の恋愛マニュアル本も他人のアドバイスも参考にならないからね」
仕方ないんじゃないのかな、と新羅が肩をすくめた。この中で最も静雄との付き合いが長い分、帝人やセルティよりも接し方は心得ている。そんな彼が言うのだ、おそらくこの荒療治は間違っては、いない。
「ま、何年かかるかわからないけどね」
「せめてぼくが成人するまでには、往来で手を繋いでも緊張しないくらいにはなりたいですね」
『・・・・・長い道のりだな』
セルティがカタカタと『静雄みたいな男をヘタレって言うんだろう? この前テレビで見たぞ』と得意げに打ち込んだ。否定しようとして、しかし否定しようもない事実を悪気なしに言われたことに帝人はがっくり肩を落とした。ヘタレ、と口の中で呟く。優しいと言い表せば聞こえはいいが、実際ヘタレも優しいも臆病もそれほど変わらないのだ。
はぁ、と疲れたようなため息をひとつ落として。帝人はふたりに礼を言うと、いつまでも扉の前から動こうとしない静雄を回収するために席を立った。扉を開けてすぐ目に入ってくる正座姿の静雄に驚きながら、静雄さん、と優しく聞こえるように気をつけながら声をかける。今の彼はガラス細工よりも壊れやすい。
「帰りましょう、静雄さん。もうすぐお昼ですから、ぼく、何か作りますよ。何がいいですか?」
静雄の前にしゃがみこんで、俯く静雄の顔を下から仰ぎ見る。虚ろな彼の瞳が帝人を写した瞬間、びくりと彼の肩が揺れた。
「みか、ど」
「大丈夫ですよ。ぼくはここにいます」
膝の上に乗せられていた静雄の両手を自分のそれでそっと包む。子供な自分とは違う、大きくて硬い手は大人の男性のそれだ。
「静雄さんのそばにいますよ」
離れたりしません、と囁けば、静雄の手が帝人のそれを握り締めた。おずおずと、まるで怯える子供のようなそれに帝人は愛しさが胸ついて、知らずに笑みがこぼれた。静雄が握るのと同じくらいの力で、帝人も静雄の手を握り返す。触れ合った場所から伝わる温度が幻ではないことを確かめるように、強く強く握り締めた。
親愛なる弱き者へ
お題は歌舞伎さんよりお借りしました。