扉を開けた瞬間、全身に叩きつけるように通り過ぎていった冷風に静雄はサングラスの奥で目を瞬かせた。先ほどまでいた外のと冷房がきいたリビング内の温度差に驚きを覚えながらも、そのリビングの床に寝そべっている少年にあきれを含んだ視線をやる。
「腹冷やすぞ。寝るならベッド行け」
「おかえりなさいー」
ハーフパンツにタンクトップという露出のまま、冷やされた床でさらに涼をとっている少年はひどくだるそうで、手近にあったクッションを腹に乗せて、うぁーと呻いた。
「だって冷たくて気持ちいいんですよ」
「気持ちはわかるけどな、帝人」
ほれ、と帝人の冷えた頬に己の手を添える。ひゃあ、と帝人が身をよじって静雄の手を避けた。異常気象と声高々に騒がれるほどの熱を持つ日光を全身に浴びてきたせいで、静雄は立っているだけで額や顎から汗が滴り落ちる有様だ。黒いバーテン服も体温上昇に一役買っているが、暑さでやる気がそがれ着替える気にもなれない。
「静雄さん、熱いです」
「仕方ねえだろ。昼飯の材料買いに行ってたんだから」
示すように左手にさげたビニール袋を掲げる。なかにはトマトや豚肉など、ネットで調べた夏バテ料理の材料が入っている。それを見て、帝人が申し訳なさそうに眉を下げた。
静雄が夏バテでへばっている帝人を発見したのは、つい一昨日彼の自宅でのことだ。節約のためクーラーはおろか扇風機すらない部屋で、せめて気分だけでも涼しくなろうと設置した風鈴の音を聞きながら汗だくでまどろんでいた帝人は、慌てて連れて行った岸谷宅で新羅も笑うくらい見事な夏バテという診断を下された。
猛暑日が何日も続いたため大量に発汗し、なんとか水分だけは取っていたものの食事は栄養ゼリーかカロリーメイト、しかもついつい朝寝て夜遅くまで起きるという不健康の見本として本に載りそうな生活を送っていたらしい。それを聞いたときは帝人に甘くなりがちな静雄も青筋を立てて説教をしようとしたが、静雄が口を開くよりも先に猛り立ったセルティがPDAを使ってのお説教タイムに突入したため、その勢いに気圧されてのと一時間以上怒られ続けようやく解放された帝人がみたことないくらいやつれていたのとで、さすがにかわいそうに思った静雄は何も言うことなく夏の間帝人を自宅で預かることにした。
どうせこのまま帝人を家に帰したところで、染み付いた生活習慣が変わるとは考えにくい。こうなれば本人以外の手で徹底管理を施して無理矢理矯正させた方がいい、というのが医者と過保護な妖精と喧嘩人形の意見であった。ちょうど夏休みに入っているため、帝人が静雄宅に泊り込んでもなんの問題もない。本人が口を挟む暇もなくとんとん拍子に話が進み、目指せ健康な生活をスローガンに帝人の奇妙な夏休みが始まった。
「帝人、腹減っただろ? もう昼過ぎちまったからな」
壁にかけてある時計を見ればもう正午を三十分も過ぎている。朝食をとったのがだいたい七時頃だから、いくら外出していないので消費カロリーが少ないとはいえ、胃に食べ物は残っていないはずだ。
「さあ? 別にお昼ご飯抜くくらいなんでもないですけどね。なんかもう面倒なのでカロリーメイトでいいです。食欲ないですし」
「カロリーメイトは禁止だっつってんだろ」
厳命したはずなのに、手軽さと慣れからか帝人は普通の食事よりそういった食品を好む。静雄も忙しい社会人としてはわからないでもないが、きちんと栄養を取ってもらわねば治るものも治らない。それと帝人には秘密だが、セルティからこれを機に主食をカロリーメイトやゼリー飲料にしたがる帝人の癖を治すよう言われている。とりあえず静雄宅にいる間はそういった食品から遠ざけようと決めていた。
床に寝そべっている帝人にソファーに座るよう言い渡してから台所に立つ。料理は得意分野と豪語するほどではないが、男一人で生きていける程度には作れる。慣れないパソコンと睨めっこしながら獲得したレシピもある。お手本を見ながらなら、初めて作るものであっても静雄にとっては難しいものではない。
作るのは食欲増進のためにトマトと卵と豚肉のスープ、夏風防止のためにほたてとにんにくの芽のとうがらしいため。デザートとして市販のグレープフルーツゼリーを買ってきた。果物を食べさせたほうがいいと言う、主治医の言葉を思い出したからだ。
静雄は知らなかったのだが、トマトは『トマトが赤くなると医者が青くなる』と言われているほど栄養価の高い野菜らしい。今まで帝人ほどではないが口に入ればなんでもいい、という生活をしていた静雄は新発見に驚きながらもトマトなどの材料を切る。スープなら口にしやすいかと思ってメニューを決めたが、これで帝人がトマト嫌いだったらどうするか、と今更なことを思った。
作った料理を持っていくと、幸いなことに食べれない食材は使われていなかったらしく帝人が眉を寄せることはなかった。
「食べれる分だけでいいから腹にいれとけ」
そう言うと、帝人はゆっくりながらも少しづつ料理を口に運ぶ。途中で美味しいと洩らしているから、味の心配は杞憂に終わったようだ。もそもそと食事を続ける帝人の前に座って、静雄も食事を開始する。
「体調はどうだ?」
「前よりはいいです。やっぱり静雄さん家に来てから良くなってるみたいですね。生活のリズムを変わってきてますし」
「それが目的だからな。夏休みだからって朝と夜がひっくり返った生活してると、学校始まってから大変だろ」
「え、でも休みの日とか夜更かししません? 夏休みなんて朝ずっと寝てられる最高の期間じゃないですか」
「わからねえでもねえけどな、それは」
とは言え、静雄が最後の夏休みを体験したのはもう何年も昔のこと。しかも思い出したくもない同級生のせいでろくな思い出が残っていない。毎日毎日ガードレールか標識を片手に街を駆け回っていた記憶がおぼろげに脳の底に沈殿している程度だ。今とたいして違わないような気がしたが、静雄は頭を振って忌々しい学生時代を払拭した。
静雄が朝に炊いておいた白米のおかわりを茶碗によそったとろこで、ようやく帝人がスープを飲みきった。ここへきた当初はどの料理も必ず残していたから、それと比べれば量を減らしていたはいえたいした進歩だ。この調子ならば、夏休みが終わる前に乱れきった生活リズムを元に戻すことも夢ではない。
(だけど)
夏休みが終わったら、帝人が元気になったなら。
(このへやにひとりきり)
それが正しい姿だ。帝人には帰る家があり、生活がある。帝人と出会う前からずっと、ひとりで食事してひとりで寝て、ただいまもおかえりも言わない生活を送っていた。慣れっこなはずなのに、なぜだか静雄はその生活が耐え難いほど苦しいものに感じた。
火の暖かさを知った獣がもう野生には戻れないように、ふたりでいることに慣れてしまった静雄はもう、ひとりで迎える夜に耐え切れない。
「お前が夏のたびに倒れるんだったらいっそ」
そうなればいいのに、と静雄は口を開く。
「ここに住んで、俺が面倒見てやらないといけないな」
朝起きて最初におはようを交わして、夜は相手の顔を見ておやすみを言う。そんな幸せな仮定を思い描いた静雄は、自分の台詞が遠まわしなプロポーズだということにも、帝人が爆発したように頬を赤らめたことにも気がつかない。
「新羅もセルティも心配してたしな。ここからでも学校、通えるっけ? 今はもう名前変わってんだよなあ、たしか」
「あ、あの静雄さん!」
顎に手をやって考え込んでいた静雄に、わたわたとどこか慌てた帝人が右手を差し出す。疑問をこめた視線で帝人をみると、俯いているものの彼の耳は真っ赤になっている。
「これからもよろしくお願いします・・・・・・」
その言葉の意味を理解して、静雄は満足そうに笑うとその手をしっかり握った。自分のそれと比べると酷く小さくて頼りないその手を、静雄はしっかりと握り締めた。
この熱は確かになにかを溶かしたのだ