臨也が彼女を見つけたのは臨也が五歳になるかならないかの、ほわほわした暖かい春の日であった。家族全員で帰省した父の実家の、もうろくに使われていないくせにやたらと大きい倉庫の中に鎮座するまるで安っぽいホラー映画に出てくる棺のような箱に、臨也は特に興味があったわけでもなかったがひょいひょい近づいて行った。がらくたでも入っているのだろうと、何のためらいもなく蓋を開けた。
そこに、自分より十は年上だろう少女が横たわっているなんて、思いもせずに。
驚愕に目を見開いて、混乱に脳を停止させて、無意味に口を開閉させて、臨也はただその少女を見つめることしかできなかった。最初は人形かと思った。精巧に作られた、悪趣味な人形。だがその少女の、蝋のように真っ白な裸の胸が上下に動いているのを見てしまったから、もうなにも、言えない。
「なに、これ・・・・・・・」
人間だ。人間の、女の子だ。だがなぜ、いったい、どうして、人間の女の子が祖父宅の倉庫の箱の中で、全裸で眠っているのだ。まさか祖父が誘拐してきたんじゃないのかと、臨也の胸に不安が溜まるが、それと同時に臨也は自分がひどく興奮していることに気がついた。
例えるのなら、絶叫系のアトラクションに乗るような、身体の奥からふつふつと湧き上がってくる高揚感。
その高揚感に囁かれるまま、臨也は眠る少女へと手を伸ばした。別に何か意味があっての行動ではない。衝動的に少女の頬に触れて、そこに人肌程度の温度と柔らかな感触があることにひどく驚いた。ふにふにと調子に乗って少女の頬をつついていた、その時。
ぴくりと少女のまぶたが震えた。あ、起きる、と臨也は思った時にはすでに、少女のふたつの瞳がぼんやりと臨也を捉えていた。さらに眠気を飛ばすかのようにぱちぱちと瞬きを繰り返すその少女は、呆然とする臨也の頬に己の手を添えた。
「ぼくを起こしたのは君、ですね」
上半身を起こした少女は異常なまでに長い髪で顔が隠れてしまった。それでもあの眼差しが臨也を見つめているのだと思うと、心臓が異常なまでに跳ねた。だからだろうか、突如背後でがらりと扉が開く音が響いた瞬間、尋常ではないくらい臨也は驚いた。
そこに立っていたのは祖父だった。もしや勝手に蔵に入ったことを怒っているのかと思ったが、逆光で祖父の表情は臨也には見えない。ただ聞いたことがないくらい冷たい声で、祖父が起きたのか、と囁いたのが聞こえた。
「歳をとりましたね、××さん」
箱の中で裸体をさらしている少女がどこか親しげな声で祖父の名を呼んだ。知り合いにしてはどこかでなにかが違った。
「あれからもう五十年だ」
「そんなに経ちますか。それで、この子はお孫さん?」
唐突に話題の矛先が自分に向いたことに怯えながら、臨也は祖父を見上げた。臨也、と自分を呼ぶその声がどこか強張っていることを不思議に思う。
ずい、と臨也に近づいてきた少女が、可愛い子、と囁いた。
「初めまして、ぼくは竜ヶ峰帝人といいます。臨也さん、であってますか?」
あなたに似ていなくてよかったと、笑う彼女の視線はすでに臨也に向けられていない。否、彼女は一度も臨也を見ていない。臨也の顔を見たついさっきだって、臨也を通して祖父を見ていた。それが無性に悔しくて、非常に惨めったらしくて、臨也は頷くことさえできなかった。
「ただいまー」
乱暴に靴を脱ぎ棄てて、臨也は高校進学と同時に自宅として移り住んだマンションの自宅の廊下を駆け抜けた。騒々しい、と溜息をつかれるかもしれないが、そんなことよりも一秒でも早く彼女の会うことのほうが臨也にとっては重要だ。それにそんな彼女の顔も決して、嫌いではないのだ。
「みーかっどくんっ!」
「わっ!?」
リビングのソファーに腰掛けてぱらぱらとぶ厚い本を捲っていた少女に背後から抱きつく。驚いた拍子に派手な音を立てて本が床に落ちたが、それを拾わせまいと臨也は強く彼女を抱きしめて首筋に頬ずりする。
はぁ、と聞えよがしな、それでいてすっかり諦めたような溜息が臨也の鼓膜を揺らした。
「おかえりなさい。臨也さん、汗くさいのでさっさとシャワー浴びてきてください」
「えー、俺帰ってきたばっかなのに。それに汗臭いのは俺のせいじゃないよ。シズちゃんが電柱投げてくるからだよ」
「どうせ臨也さんがまたなにかやらかしたのでしょう?」
本日二度目の溜息。臨也の腕を振り払って振り向いた少女の顔には呆れの色は滲んでいたものの、臨也の悪ふざけを責める雰囲気は欠片も見られない。昔からそうだった。彼女は老婆のように教訓じみた昔話をすることはあっても、臨也を叱ることはない。
十年前に祖父の倉庫で出会った少女。臨也の祖父が若い頃に出会ったという少女。当時祖父よりも年上だったという彼女は、単純計算しても八十年は生きているはずなのに外見は十代後半の少女にしか見えない。その理由を、臨也は知らない。彼女――――帝人もわからないという。ただ数十年間の活動期と数十年間の休眠期を繰り返す。それ以外は怪我だってするし風邪にもかかる、普通の人間と変わらない。
自分を通して祖父ばかり見る帝人に苛立って、からかうように彼女を「帝人くん」と呼び、手のかかる双子の妹たちの面倒をみる彼女を高校進学の世話係を理由に連れ出した。当初は多少の不安もあった二人暮らしも、数か月経った今ではすっかり慣れた。
臨也にシャワーを浴びるよう再度促した帝人が床に落ちた本を拾う、がその指先が本の表紙に触れるより早く、帝人の身体がソファーに横倒れになった。
「帝人、くん?」
慌てて近寄れば、彼女はだるそうに目をしょぼつかせていた。そして盛大にあくび。帝人くん、と呼べばうっすらと反応を返すが、頭をわずかに動かすのが精一杯といった様子だ。ここ最近、しょっちゅう帝人はこんな状態になる。酷くだるそうな―――――酷く眠そうな。
「眠いの、帝人くん?」
訊くまでもないことなのだけれど、少しでも会話を続けたくて、彼女から眠気を飛ばしたくて、臨也は意味のない問いかけをする。帝人の頭がわずかに、けれど確かに動いたことに安心して、「寝るならベッドに行く?」と尋ねる。再び帝人の頭が縦に振られたことを確認して、臨也は小さな帝人の身体を抱き上げた。
「うわ、軽っ」
決して食が細いわけではないのに、帝人は昔から体重が増えることもなければ背が伸びることもない。十代後半の外見のまま少しも成長しない帝人を抱き上げたまま部屋の扉を開けるのは、ぐんぐん成長した臨也にとって難しいことではない。
パソコンとそれが置かれた机、それからやたらとぶ厚い本ばかりが詰まった本棚と臨也が押し付けた衣服が詰まったクローゼット、部屋の隅に取り付けられたベッド。それが帝人の部屋に置いてある物の全てだ。その中で帝人が望んだ物は本とパソコンだけで、全て臨也の趣味で構成されているクローゼットとその中身などは露骨に嫌がられている。
実は年寄り臭い趣味を持つ帝人の敷布団が良いという主張にフローリングの部屋に合わせるためと断固拒否して設置したベッドに帝人を寝かせる。抱き上げるまではかろうじて意識のあった帝人だが、今やすっかり規則正しい寝息を立てている状態だ。
「おやすみ、帝人くん」
きっちりと瞼が閉じられもはや返事を返すことのない帝人の額に軽く唇を落として、そのまま枕元に腰掛けてじっとその寝顔を見つめた。老衰という言葉と絶縁している以外は全く普通の生活を送る彼女がこんなふうに急激な睡魔に襲われる理由を、臨也はひとつしか知らない。
何十年間にも渡る眠りの期間が近づいている、その兆候に臨也は震えるほど恐怖を覚えた。
帝人の休眠期が何年に渡るのか、正確な期間は本人にもはっきりしない。ただ十年単位であることと、一度眠ればなにをしようとも休眠期が終わるまで決して目覚めることはないということを、臨也は祖父から聞いていた。
再び帝人が目覚めるまで祖父は五十年待ったのだという。当然今回だって同じくらい、否それ以上の時間を覚悟しなくてはいない。最悪、二度と目覚めた帝人と会えないことだってあり得る。
その苦痛と絶望に顔をゆがめて、臨也は縋りつくように帝人の手を握った。柔らかくて温かい、昔は臨也のよりも大きかったくせに今では片手で包む込めるそれに触れて、臨也は無性に泣きたくなった。泣いて喚いて暴れて、そうして帝人にみっともなく泣きついてしまいたくなった。けれどいくら臨也が癇癪を起したって事実は、残された時間は、これっぽっちも変わってはくれないのだ。その事実に余計、臨也は泣きたくなった。
あとどれくらいの時間を共に過ごせるのか、臨也はもちろん帝人にだって、見当さえつかないのだ。
二酸化炭素を抱きしめた
お題はカカリアさんよりお借りしました。