祖母のようだった。母のようだった。姉のようだった。
一度だってそんなふうに思ったことはないけれど、確かに彼女の振る舞いは、それらを彷彿とさせるものだった。孫のやんちゃをたしなめる厳しい祖母のようでもあり、我が子を見守る優しい母親のようでもあり、自分のわがままで弟を振り回す強気な姉のようでもあった。
「帝人くん」
ソファーでうとうとと舟を漕いでいる帝人に飛びかかるように抱きついた。当然帝人の小さな身体がその衝撃を受け止めきれるはずもなく、ふたりしてソファーに倒れ込む。ぎし、と軋むスプリングの音がソファーの抗議の声に聞こえた。
「なにするんですか、臨也さん」
「んー、なんとなく」
眠気などどこかに吹っ飛んだらしい帝人が、絶対零度の視線で臨也を見た。幼い頃からこうやって突発的に抱きつくことはあったから、別段珍しいことではない。またいつものきまぐれだろうと判断したらしく、帝人は何も言わずに黙って臨也の好きにさせている。
それをいいことに、臨也は好き勝手に帝人の短い髪をもてあそぶ。帝人の髪を撫でながら、そっと首筋に顔を寄せる。そっと香るシャンプーの香りが自分と同じものということに、少しだけ気分が高揚した。
「臨也さん、お願いがあるんですけど」
なんてことはない軽い口調に、なに、と顔を上げた臨也はその『お願い』を聞いて硬直した。
「ぼくが眠ったら、臨也さんの実家に送り返して、そのまま捨て置いてください」
それはもう、ずっと自分に関わるなと言う宣言以外の、何物でもなかった。急に今触れている温かな身体が冷たい鉛に変わったように感じて、臨也の背筋に嫌な汗が流れる。
「帝人くん、なに、言って・・・・」
「あなたはもう、ぼくに付き合う理由はないでしょう? 十分すぎるくらい、そばにいたんですから」
「違う!」
突発的に帝人の肩を掴む。こんな大声を彼女に対して出したことなど一度もなかった。こんな風に取り乱すなんてことだって、一度も。
「違いませんよ」
その時の、帝人の視線を。氷よりも冷たい視線を。死人のように陰のある視線を。臨也は今まで一度だって見たことがなかった。
「だってこのままじゃ、臨也さん、ずっとぼくが起きるのを待つつもりなんでしょう? 駄目ですよ、そんなの。あなたは人間らしく生きていくべきなんです。いくら歪んで曲がりくねった人生を生きるのだとしても、そこにぼくを含ませてはいけないんです」
諭すような、しかし今までの柔らかさなどが一切排除された、硬質で厳しい、現実を突き付ける声。呆然とする臨也を帝人は淡々と感情のこもらない声で抉っていった。
「駄目なんですよ。ぼくは――――あなたと同じ時間を、生きられない」
時間というものの意味が、帝人と臨也ではあまりにも違いすぎた。臨也の一瞬は帝人の一瞬と等しくはないのだ。一秒の意味に、価値に、存在に、二人の間では大きな差があるのだ。
「だからもう、ぼくなんて」
置いていってと続くのか、捨ててと囁くのか、放っておいてと突き放すのか。どれにせよその先が臨也にとって聞きたくない言葉であるのは確かだったので、臨也は帝人の唇が動くより先に、自分の唇で帝人のそれを封じた。
目を見開いて固まる、その顔を間抜けだと思った。こんなに至近距離で見つめるのは久しぶりだなと頭のどこかでのんびりと考えながら、始まりと同じように唐突に身体を離した。
「帝人くん」
名前を呼んだ瞬間、呆けていた帝人の顔が爆発したように赤くなった。その変化に臨也がぎょっと彼女の上からどいた瞬間、帝人が大声で「&Σ×α□Ω£◎*%#@!$☆Ψ§θ?」と叫びながら暴れてソファーから落っこちた。
「え、ちょ、帝人くん、大丈夫?」
かなり痛そうな音がしたので慌てて見れば、後頭部と尻を強打したらしい帝人が真っ赤な顔でぷるぷるとうずくまって震えていた。かと思えば、ものすごい勢いで壁際までへと下がって涙目でこちらを見つめてくる。
「な、な、なにを、いま、なにして・・・・」
「なにって、まあ、キスだね」
さらりと答えると、帝人は再度爆発した。顔を真っ赤にさせて奇声を上げる帝人がおもしろくて、臨也は小さく噴き出した。ここまで我を忘れて混乱している帝人なんて見たことがない。
笑いながら、臨也はまだ頭を抱えてうずくまっている帝人のそばまで移動すると、そのままそっと帝人を抱きしめた。
「理由、あるよ。俺まだ君と一緒にいたいし、またキスしたいし、それ以上もしたいから。十年なんて全然足りない」
硬直した帝人を、ぎゅうぎゅうと全力で抱きしめる。キスをしたからなのか、驚くくらい自分でも冷静な声が出た。
「同じ時間を生きられなくても、隣にいることはできるよ。今までだってそうだったじゃん」
「でも、臨也さん、待てないでしょう・・・・。ぼく、いつ起きるかわからないんですよ。何十年もずっと、待てないでしょう」
「待てるよ。知らないの? 好きな子を待つ時間って、全然苦にならないんだよ」
そこまで言って、そういえばまだ正式に伝えていなかったなと、思いついて臨也は即口に出した。
「好きだよ、帝人くん」
キスが先になっちゃたけど、と言うと、再び顔を赤くした帝人がさらに縮こまった。塩をかけられたなめくじのようだと、臨也は小さく笑った。
言うだけ言って、臨也の中で何かが吹っ切れた。もっと早く言えばよかった。帝人には雰囲気で察するなんてこと、できないのだとずいぶん前から知っていたのに。伝えることに怯えて、震えて、馬鹿みたい、と臨也は心の中で呟いた。
「だからね、俺をこの先ずっと、君の隣にいさせてほしいんだ」
帝人からの答えはない。けれども帝人の背に回している腕と二度目のキスを拒まなかったことが、なによりも雄弁の帝人の感情を伝えていたから、もう言葉など、必要なかった。
「ただいまー」
乱暴に靴を脱ぎ棄てて、臨也は十年も昔に高校進学と同時に自宅として移り住んだマンションの自宅の廊下を駆け抜けた。騒々しい、と溜息をつく同居人が眠る部屋まで、一気に走る。
あのバカみたいなやり取りから三日後に、帝人は眠った。予兆はあったのだから臨也が驚くはずもなく、黙って帝人が起きるのを待っている。たまには空気を入れ替えたり、積もる埃を拭ったり、昏々と眠り続ける帝人の世話をし続けた。
臨也の動きに合わせて黒いコートの裾が舞う。埃まみれになったそれを眺めながら、臨也はその埃の原因である天敵を思い浮かべた。彼と同じ地区に住むなんて虫唾が走るし、色々いい機会だから引っ越すべきかもしれない。それでも帝人が起きるまで、臨也にはここを離れるつもりはなかった。
ここで待っていると、彼女に約束したのだ。
恋人としていちゃいちゃできたのは三日間だけ。結局帝人が恥ずかしがったためにキス以上もできなかったのだから、せいぜい約束を守ってそれを建前に帝人にキス以上をねだるくらい、したってバチはあたるまい。
そんなことを考えながら、臨也は帝人の私室の扉を開けて、
ベッドの上に、長い髪をうっとおしそうに払いのける少女を見つけて、硬直した。
扉が開く音に気付いたのだろう、こちらを振り返った少女の瞳が見開かれ、次の瞬間にはその頬を涙が伝う。
「おはようございます、臨也さん」
十年ぶりに聞く、帝人の声。鼓膜を揺らす懐かしい音に身体の硬直が解け、臨也は大股でベッドに近づくとそのまま帝人を押し倒してベッドにダイブした。
「え、ちょっと、臨也さん!」
慌てた帝人が叫ぶが、臨也は構わずぎゅうぎゅうと帝人を抱きしめた。唇を寄せた首筋にかすかなシャンプーの残り香を発見して、いっそう彼女を抱きしめる腕の力を強くする。
「帝人くん」
「はい」
「帝人くん、帝人くん、帝人くん、帝人くん、帝人くん、みかど、くん・・・」
「なんですか、臨也さん」
至近距離で見つめる帝人は瞳からぼろぼろと涙をこぼしながらも笑っていた。きっと今の臨也も、同じような顔をしているのだろう。だから彼女の顔がどれだけくしゃくしゃになっていようとも、それを臨也は笑えない。
「おはよう、帝人くん」
二酸化炭素を抱きしめた
お題はカカリアさんよりお借りしました。