最初に彼を意識したのはいつだったかと考えて、刹那は愕然とした。高校の同級生という何の変哲もない出会いから七年、些細なことだって覚えている自信があったけれど、どうしてかその場面が浮かんでこない。
気を落ち着けるためにマグカップに手を伸ばす。安いと有名な、そして値段と比例して不味いコーヒーを一気に飲み干した瞬間、刹那はその苦さに思いっきり眉をしかめた。学食の安さがこの大学の自慢のひとつでもあったはずだが、これでは最もにぎわうはずの昼食時に閑古鳥が鳴いているのも頷ける。
「砂糖いれる? それともガムシロ?」
「両方いらない。下手に何か入れると余計不味くなる・・・・」
「あ、そう。私は手伝わないから、がんばってね〜」
向かい側の席に座ったネーナがにやにやと笑いながらこっちを見つめている。ちなみに彼女は何も注文せず、自動販売機で購入したカプチーノを美味しそうに飲み干したところだ。賢明な判断だなと思う。
「で、思い出せた?」
「・・・・・・全く」
渋い顔をする刹那を、ネーナは指差して盛大に笑った。嘲笑っているわけではないと知っていたから、いい気分はしなかったけれどそれを咎めるようなことはしなかった。
「ふつー忘れるかなぁ? じゃあ意識云々はいいから、第一印象とかは? 」
「・・・・なぜそんなことを訊く?」
「興味あるから」
にっこりと笑うネーナに、刹那は唇だけ動かして悪魔、と囁いた。今まで誰にも語ったことのない己の恋を話すことに抵抗がないわけではなかったが、興味本位で訊くくせにネーナはちゃんと真剣に受け止めてくれる。
「だいたい、私をふったんだし。私よりいい男じゃないと許さないわ」
「・・・・・・・いい男といわれても」
苦い思い出から目をそらすように、刹那が視線を宙にさまよわせる。確かに刹那はネーナをふった。ネーナとは大学入学時からの付き合いで、人が苦手な刹那とは全く正反対の社交的な性格で、それなのになぜか付きまとわれるのは嫌ではなかった。刹那なりに友情を感じてはいたが、まさかネーナのほうでは恋愛感情にまで発展しているなんて思ってもいなかった。
軽口のようにあっさりと『付き合わない?』と囁かれた時は、思わず冗談だろ、と口走ってしまった。ネーナなりに、一世一代の勝負だっただろうに。最低な反応だな、と振り返った今でも思う。
『だめ、付き合わない。俺、好きな奴いるから』
『いいよ、知ってるもん。刹那、たまに恋する乙女みたいな顔するし』
『乙女・・・・』
『刹那は思いだったら行動するだろうし、してないってことは、なんか障害ありなんでしょ? 話、訊くよ? そーゆーのはね、吐き出しちゃったほうがすっきりするの』
誰にも話さないまま、ずっと心の中に閉じ込めておくつもりだった想いを唇に乗せてしまったのは、触れたネーナの優しさがあまりにも温かかったからだ。
男に懸想している、と告白した時でさえ、ネーナはなんでもないように「それで? 告白は?」と訊いたのだ。恋愛に性別なんて障害でもなんでもない、と豪快に言ってのけたネーナに、刹那のほうが面食らったくらいだ。
優しさとは違うそれに、何度刹那は救われたことだろうか。恋人にはなれないけれど、きっと彼女となら、親友という関係を築けるのではないかと思う。
苦味しか感じないコーヒーの雫がマグカップから滴るのをぼんやり眺めながら、刹那は小さく図書室、と呟いた。彼との思い出をさかのぼると、記憶の底に沈殿している景色が色あせることなく鮮明によみがえる。
「俺が好きな本をあいつが読んでいた」
「本?」
「あいつはよく図書室にいたから。教室、人がたくさんいるのは苦手だって」
「へえ、刹那とおんなじね」
その指摘に、刹那はわずかに頬を緩ませた。彼と初めて会ったのも、新入生同士にぎわう教室をこっそり抜け出して行った図書室で、だ。刹那が密かに好んでいた著者の本を読んでいる彼に、友人にするならあいつみたいのがいい、と思ったのも確かその時だ。
窓の外から風に乗ってくる桜の花びらと、光を反射して光る眼鏡と。
こちらに気付いて目線を向けた、やけに鮮烈な瞳。
第一印象なんてそんなものだ。その後も何度か図書室に通い、僅かながらも言葉を交わし、お互いようやく同じクラスだったということに気付き、それからまた少しだけ時間をかけて、ふと見てみればいつのまにか友人という立ち位置に立っていた。
だから、その友情が、いつ恋愛感情に変わったかなんて、刹那自身が知りたいくらいだ。
「・・・・恋はもっと、爆弾を落とされたくらい衝撃のあるものかと思っていた」
でも実際は、自分でも気付かないうちに胸に溜まっていて。気付いたら気付いたらで、原爆以上の破壊力で刹那を苦しめて。
恋というのはもっと、綺麗で甘くてキラキラ輝いているものだとばかり思っていた。
「バカね。そんなの人それぞれよ。私だって刹那を好きになる前は、そんなものだって思ってたけど」
頬杖をついて、ため息をひとつ、ネーナが落とす。ネーナが動くたびに、両耳の上で結われた赤毛がゆらゆらと揺れた。
「雪みたいに、ひっそりと積もる恋だってあるのよ。私たちがたまたま、そんな恋をしただけ」
「・・・・・そうか」
自分たちの恋は、積もりゆく爆弾だ。導火線も何もないけれど、じわじわと苦しめて、たまに自分の役割に気付いたかのように爆発して、そしてまた積もる。
それでも、そんな恋も、きっと悪くない。
腕時計に目線を向けた刹那は、小さく息を吐いて席を立った。コーヒー一杯で居座るには、一時間が限度だろう。
「じゃあ、また明日」
「うん、じゃあね」
先ほどの会話の余韻など微塵も感じさせない笑顔でネーナが手を振る。その笑顔の下に爆弾を積もらせているのかと思うと、少しだけ刹那の胸が痛んだ。ネーナが抱えている爆弾の発火装置は自分なのだから。
大学を出て、通学に使っている電車に乗る。しかしいつも降りる駅ではなく、それのひとつ手前で降りた。時計を確認すれば昼に近かったから、刹那は目に付いたコンビニに入った。
出入り口付近にでかでかと設置してあるコーナーには目もくれず、直行した菓子売り場で手に取ったのは安価なナッツチョコ。少しだけそのナッツチョコと出入り口付近に山と積んであるチョコレートの山を見比べて、けれどやっぱりかごに放り込んだのはそのナッツチョコだった。
適当におにぎりやサンドウィッチをかごに放り込んでレジに向かう。レジの脇に置いてあるチロルチョコ、季節限定という文字にひかれてふたつだけかごに入れた。大きくハートマークが印刷されているパッケージは、男の刹那が買うには少し恥ずかしかった。
(たぶんあいつは、知らないだろうけれど)
それでいい。自分の行動に意味を見つけないで。どうか、そのままこの胸の爆弾に気付かないで。
ひっそりと積もる爆弾に苦しむのは、自分だけでいい。
コンビニを出て、また人が少ない道を歩いた。二月の冷たい風が叩きつけるように刹那の頬を刺す。もはや寒さではなく痛みに近いその感触に耐えながら、刹那はおんぼろアパートの一階にある戸を叩いた。
返事はない。おまけに鍵もかかっていない。男の一人暮らしとはいえ用心しろといつも言っているのに。刹那は疲れたようにため息を吐くと、お邪魔しますと断りをいれてから室内に上がりこんだ。
奥の部屋で、家主がパソコンの画面と睨めっこしていた。周囲にはなにやら分厚い本が大量に積んである。
「・・・・・鍵、無用心すぎる」
「来るのは君ぐらいだから、必要ない」
「そういう問題じゃない。最近物騒になってきたのに」
「この部屋に価値のあるものなんてない。古めかしい本があるだけだ」
そこでようやくパソコンの画面から視線をこちらに向けた男は「久しぶり、刹那」と囁いた。
「久しぶり、ティエリア」
刹那が七年も片想いをしている男は、刹那が好きな顔をすこしだけ緩ませて笑った。
積んである本を崩さないように慎重に荷物を置く。台所を見れば、どれだけ使っていないのか、薄く埃が積もっていた。どうせまたレポートにかまけて食事をするのを忘れていたのだろう。
「ティエリア、休憩だ。休まないと死にそうな顔しているぞ。最後に食事を取った日だって覚えていないくらい前なんだろ」
「・・・・・」
図星なのか、反論せずにティエリアが大人しくノートパソコンをたたんだ。そのティエリアにコンビニで買った食糧を渡して、刹那は散らかっている部屋の片付けに取り掛かった。
「・・・・・こんなに酷いのは久しぶりだな。レポート、そんなに大変なのか」
「いや、そこまでじゃない。ひとつは完成したしな。ただ、もうひとつ追加で書かされることになった」
「へえ、なんで?」
「大学に残ることになったから」
ぼとりと刹那の手から箒が落ちた。
「・・・・・・・留年?」
「馬鹿か。このぼくが留年なんてするはずないだろう」
どこからそんな自信が溢れてくるのか。安堵した刹那は「じゃあなんで」と首をかしげた。ティエリアはサンドウィッチにかぶりつきながら、なんてことないようにさらりと言った
「大学院にいくことになった」
「・・・・え」
さらりと言うが、ティエリアの通う大学は都内でも文学の権威として名高いところだ。そこでさらに上の大学院にいくとなれば、とんでもないくらいすごい話である。
「なら、ゆくゆくは文系の教授か」
「時間はかかるだろうけれど」
「じゃあ、お祝いしないといけないな」
ケーキを作って、料理を作って、と指折り数える刹那を、大げさなだとティエリアは笑う。料理が壊滅的に下手なティエリアと正反対に、数少ない刹那の特技を生かす機会なのだから、どうしても張り切ってしまう。
「差し入れ、いつもすまないな」
「コンビニのだけじゃ栄養が偏るから、夕飯用にいくつか作っておく。冷蔵庫、勝手に使うぞ」
掃除片手に横目でティエリアを確認すれば、彼はサンドウィッチもおにぎりもたいらげて、以前好きだと洩らしていたナッツチョコのパッケージを乱暴に破いている最中だった。
刹那の心臓がドクリと一回、大きく動いた。
慌てて集めたゴミをちりとりで回収して、調度品の埃を雑巾で軽く拭う。一通り片がついたところで、刹那はティエリアの隣に腰を下ろして昼食を捜して鞄を漁った。
「刹那、落ちたぞ」
チョコを口に放り込みながらティエリアが差し出したのは、白いリボンがつけられた水色の小さな箱だった。そんなもの、刹那は見覚えがない。首をひねりながら受け取ると、なにやら小さなメモ用紙がテープで貼り付けてある。
『あげる』
色々な想いを簡潔にまとめた、たった三文字が少し乱暴な筆跡で描かれている。差出人はないけれど、一目で誰かを察した刹那は目元をやわらげてその箱を開けた。
不恰好な、けれどたぶん美味しいのだろうチョコレートケーキがふたつ鎮座している。そのひとつを口に入れた刹那は、その甘さに眉をしかめた。虫歯菌が狂喜乱舞しそうなくらいに甘い。いくらチョコレートケーキは甘いものとはいえ、これはひどい。
「・・・レシピに自己流に手を加えたな、あいつ」
素人がしそうな失敗だ。それでも食べられるのだから、上手くいったのだろう。兄と三人暮らしをしていると言っていた彼女が料理は得意なのだという話は聞いたことがない。
「刹那、どうかしたのか?」
眉をしかめながらチョコレートケーキを頬張る刹那を不審に思ったのか、ティエリアが首を傾げる。なんでもない、と言って、ふいに刹那はティエリアがつまんでいるナッツチョコに視線を向けた。
ここのところレポートで忙しかった彼が気付いているはずがない。そう頭で理解しているし気付いて欲しくないと願っているのに、心のどこかが期待している。気付いて欲しいと叫んでいる。
「ティエリア、今日が何日か知っているか?」
空になった水色の箱に視線を落としたまま、努めて冷静に、疑問を投げかけた。
「今日・・・・二月十四日、か。何かあったか?」
壁にかけてあるカレンダーを確認して、ティエリアが答える。刹那の心臓が軋んだことになんて、これっぽっちも気付かないで。
今日だけ、差し入れにデザートと称してチョコレート菓子を入れたその意味に、気付きもしないで。
「・・・・・いや、なんでもない」
刹那は笑う、笑いながら願う。どうか、彼に向けているこの笑顔が、泣きそうな顔になっていませんように。
はらはらと積もる爆弾が、刹那の胸で爆発した。その痛みに泣き叫びたいけれど、刹那は歯を食いしばって耐えながら、笑顔の仮面をかぶる。ティエリアに微笑んでいて欲しいから。いつものように接して欲しいから。
だから胸から流れる血などに気付かないふりをして、刹那はいつものように、哂った。
誰かこの痛みを食べてくれまいか
お題は骸に花さんよりお借りしました。