朝から薄暗くどんよりとしていた外は、案の定ぽつぽつと小さな雨粒が降り始めていた。窓ガラスと叩くそれを眺めながら、帝人はまるで檻のような臨也の腕から抜け出そうとしてみたが、とたんに強まった力にあっさりと抵抗を諦めた。逃がさない、というふうに臨也がきつく帝人を抱きすくめる。この腕の暖かさは、嫌ではないのに。


 「臨也、離しなさい」


 「嫌だ」


 「臨也!」


 いつになく厳しい声は情けないことに震えていた。この程度のじゃれあいなら、昔から嫌というほど体験したはずなのに。しかし、あの頃と今では決定的に違うものがあった。あの頃は気付いていない、少なくともそういうふりをしていた真実がいまや白日の下に晒されている。


 知ってしまったから、もう二度と昔には戻れないとわかっていた。


 もう二度と、帝人が以前のようにふたりを抱きしめることも添い寝することもできない。ふたりがもつ欲望を帝人が知っている、ということをふたりが知ってしまったから。何事もないように取り繕う事は出来ても、それはなにひとつ変わっていないということではないのだ。


 ふたりがこのままだったら、帝人も変わらずにいられたのに。


 恨めしく思うけれど、彼らを責めることは出来ない。全ては、何も気付かないふりをするという最も残酷で卑怯な道へ逃げていた、臆病者の自分が悪いのだ。


 「・・・・・・臨也に何がわかるのさ」


 ぽつり、と唇から漏れた囁きはかすれ、今にも湿った空気に溶けて消えてしまいそうな雰囲気を孕んでいた。


 「ぼくの恐怖の何が、臨也にわかるのさ」


 臨也に、静雄にだってわかるはずがない。帝人が何を恐れていたのか。何から逃げてきたのか。


 いつだって帝人は、この温もりが消えることに気が狂いそうなくらい怯えていたのだ。


 「わかる? わからないよね? だって君たちはずっとぼくしか見てなかった。だから気付きもしなかったよね。世間体とか他人の目とか、そういった一番怖いモノをずっと君らは見てこなかったんだから」


 5つも歳の離れた、血の繋がらない弟たち。彼らを受け入れた場合、そして彼らが他者にばれた場合、いったいどんな騒ぎになるのか。いったいどれだけ、義弟たちが傷付くのか。それは帝人にとって耐えられるものではない。


 帝人が傷付くのは構わない。耐えられる。我慢できる。けれど、彼らが傷付けられて、傷付けて、その末に帝人の手を離すことになってしまったら。


 「君たちがぼくの恐怖を理解できる日なんて、きっと一生こないよ」


 だから離して。努めて冷静に、声が震えないように、身体が強張らないように、そっけなく帝人は臨也を突き放した。臨也だけではない。彼らの自室へ繋がっている扉から出てきた形で固まっている静雄も。


 いつだって帝人は彼らを突き放してきた。静雄は気付いていないようだが、聡い臨也ならわかっているだろう。抱きしめながら真綿でゆるかやに絞め殺すような帝人の行為もまた、汚泥のように溜まった恐怖心から。


 離れると思った腕は、けれどいつまで待っても消えることはない。臨也、と苛立ちを含んだ声で咎めても離れる気配はこれっぽっちも見えない。


 「構わないって言ったら?」


 「・・・・・え」


 振り返って臨也の顔を仰ぎ見る。腕を帝人の身体に絡ませたまま、臨也はまるでチェシャ猫のような笑みを浮かべている。長年彼の兄を務めてきた己の勘が、毒々しい赤ランプを点滅させながら警報をガンガン鳴らしている。逃げろ逃げろ音速で逃げろと訴えてくる本能に従って、帝人は臨也のわき腹に己の肘を埋めた。


 「っ!?」


 怯んだ臨也の腕から脱出した帝人は真っ直ぐ玄関へと続く扉めがけて走る。ドアノブまであと数センチまで、と帝人の手が迫ったところで、シュン、と何かが帝人のすぐ脇を通り過ぎて扉にぶっ刺さった。逃げるな、という牽制のように。


 扉を再起不能にしたそれは、ぶちりとへし折られたなにかの木片だ。見覚えがあるなぁ、と首を傾げて、それが義弟たちのベッドの柵であることを思い出した。原因と犯人などわかりきっている。あれほど、せめて引っ越すまでは家具を壊すなと言っておいたのに。


 今更咎めるようなことはしない。今一番問題なのは、とんでもない手段で潰された脱出口のことだ。どうしよう、と迷っているうちに腰になにか硬い物が巻きつき、あれ? と思ったときには身体が浮いていた。


 「ちょ、静雄! いい子だからおろしなさい! 義弟に担ぎ上げられるってものすごく屈辱的なんだよ!? わかる!?」


 「わかんねーし。つか、いい加減子ども扱いはやめろよな。そっちのほうが屈辱的だ」


 静雄の肩の上で最後の抵抗とばかりに帝人は喚きたてる。ゆうに頭ひとつ分は高い静雄に担がれて、帝人は羞恥心と屈辱でなんだかとっても死にたい気分だ。


 「わからねぇよ。帝人、何も言わなかっただろ」


 ぼそり、と低く静雄が囁いた。それは帝人のずるいところを的確に突いた発言で、帝人は反論することもできなかった。


 「怖かったなら言えよ。俺は馬鹿だから言われねぇとわかんねぇんだ。帝人がどうして欲しいのか、言ってくれねえとわかんねぇんだ」


 「シズちゃん馬鹿だもんねー」


 真剣な場面に臨也が茶々を入れる。青筋を立てた静雄が臨也に飛び掛るそぶりを見せたが、肩に帝人を担いでいることを思い出したのか、寸前でなんとか止まった。


 「ね、帝人くん。俺たちだって同じなんだよ」


 そっと帝人の頬に臨也の手が伸びる。そっと壊れ物でも扱うかのように触れられて、ああ彼も怖がっているのだと、ようやく帝人は気付いた。


 「俺たちはね、傷付くことなんて怖くないんだ。帝人くんだってそうでしょ? 俺たちは同じものを怖がってて、そのくせやせ我慢して黙ってたからこんなふうにこんがらがっちゃって」


 馬鹿みたいだね、と臨也は綺麗に笑った。


 その顔があまりにも綺麗で哀しそうだったから、つられて帝人もそうだね、と微笑んだ。


 自分たちはみな、臆病者なのだ。大切な物を大切にしすぎて、触れられたら壊れてしまいそうになって、自分の気持ちを伝えることさえ怖がって。


 「・・・・ほんと、馬鹿みたい」


 触れなければわからないのに。言わなければ伝わらないのに。


 そんなことさえ、わからなくなっていたなんて。


 「臨也、静雄」


 震える唇で名を呼ぶ。左手を静雄の頬に、右手を臨也の黒髪に添えて。


 「     」


 そのたった五文字を囁いて。まだ実感がわかない義弟たちを、帝人は優しく撫でる。いつのまにか窓を叩く雨は止んでいて、雲の切れ間からうっすらと日光が煌いていた。























 呆れたような、それでいてどこか安心したような親友の顔に帝人は首をかしげた。最後の講義が終わった教室には帝人と正臣以外人の姿はなく、数分前までは人間でごった返していただけに、その変化が少し寂しい。


 「なんつーか、はた迷惑な兄弟だよなぁ、お前らって」


 「はいはい、正臣を巻き込んだことについては反省しているよ。だからノート貸してあげてるし、今度のレポートだって手伝ってあげてるじゃないか」


 正臣が猛スピードで写しているノートは帝人のものだ。普段なら自業自得と鼻で笑うのだが、今回の騒動で彼には色々と迷惑をかけたという自覚があるので、帝人もどうも強く出れない。


 正臣が最後の一行を写し終わったのを確認してから席を立つ。授業中は切っておいた携帯の電源を入れると、新着メールが一件届いていた。


 「あ、臨也が迎えに来てくれたみたい」


 「げ」


 途端、隣を歩いていた正臣が心底嫌そうな顔をする。仲悪いもんなぁ、と帝人は親友の眉間に浮かんだ皺を見て苦笑した。


 「・・・・帝人、俺」


 「わかってるよ。臨也も正臣に会うと機嫌悪くなるし。じゃ、また明日」


 「おう、また明日な」


 裏口から帰るのであろう親友を見送って、帝人は正門へと向かう。予想通りというかなんというか、通りかかる女性の視線を一身に受けながらもそよ風が頬を撫でるのと同じくらい自然だといわんばかりに平然とした顔の臨也がそこに立っていた。


 「お帰り、帝人くん」


 帝人に気付くと、嬉しそうに駆け寄ってくる。そんな彼を、いつも帝人は可愛いなと思うのだ。


 「ただいま、臨也」


 風が身を切るその場所で、帝人は小さく微笑みながら言った。帰る場所はもう、あの家ではない。





  











 お題は選択式御題さんよりお借りしました。