ぐだぐだぐるぐる悩みまくっていた兄弟の、なにか吹っ切れたような吹っ飛んだような悟りきったような顔は、臨也から見れば腹立たしいことこのうえない。義理の兄について、まるで青春真っ盛りの思春期のようにうだうだ考えていたくせに。
臨也は腰掛けていたイスを回転させて、二段ベッドの下に仰向けに寝転がっている静雄を見た。引越しが決まってから24時間しか経っていないが、気が早い静雄はすでに荷造りを始めているため、ふたりにあてがわれた部屋は驚くほど物が少なくなっている。
「俺はこのままでいい」
こちらの目を見てはっきり言い切る静雄。昨夜臨也がいない間になにかあったのだろうな、と簡単に推測する。しかしきっと、義兄は何も言わなかったのだろう。彼はそういう人だ。
臆病者、と臨也は小さく罵った。
「今更怖気ついたの?」
「ちげぇ。お前の言うとおり、俺だって色々と限界だ」
苦虫を噛み潰したような、静雄の顔。確かに計画を練って彼を共犯にしたのは臨也だったけれど、それは静雄もまた限界が近いのだと、口に出されなくとも聡い臨也が気付いていたからだ。
顔も性格も全く違う、けれどしっかり血の繋がった兄弟。自分たちは同じ穴の狢だと、認めたくないが知っていた。
「だけど、俺たちがこのままでいるんだったら、帝人もこのままでいてくれる。俺は帝人が隣にいるなら、それでいい」
余計な感情をいっさい取り払った、酷く透明で憎たらしいくらい純粋な、十年も昔から自分たちの根本にある願い。そう、いつだって物事は単純なのだ。
たったひとりの隣にいたいと、願った十年前から何も変わっていない。
「帝人は優しいから、こんな俺たちでも突き放したりしねぇ」
他人に突き放され続けてきた静雄の声は、まるでこの場にいない義兄に縋りつくような響がある。滑稽だ、と臨也は心の中で嘲笑った。しかしそれは自嘲も含んでいた。
「シズちゃんはさ」
殴られるかな、と臨也は考える。痛いのは嫌だけれど、なんだかひどく虚しくて、今なら殴られてもいいかな、と血迷ったことを思う。
「帝人くんが優しいなんて、本気で思ってるの?」
あの人は、と臨也は脳裏に義兄の姿を思い浮かべる。捻じ曲がっていて歪んでいて残酷で最低で自己中心的な性格の臨也も、片手で鉄の塊をぐしゃりと握りつぶしてしまう文字通りバケモノである静雄も、全てまとめて抱きとめてくれた義兄を。
「帝人くんは優しくなんかない」
臨也は帝人以上に残酷な人間を見たことがない。
抱き上げて、突き放して、触れて、突き落として、撫でて、切り裂いて、微笑んで、縊り殺す。何度も何度も。それが帝人だ。確かに彼は臨也に幸福を与えてくれたが、おなじくらい絶望をもたらした。
いっそ彼の手によって殺されたほうが、いくらかマシだと思えるくらい。
「帝人くんはシズちゃんと同じ臆病者だよ」
愛していると囁くくせに触れてこない。大好きだよと笑うくせに拒絶する。それでお互い傷だらけになろうとも。そのどっちつかずの態度が、ずっと、臨也は大嫌いなのだ。
「だから帝人くんが怖がっているものを壊しちゃえば、あともう、全部うまくいくと思ったのに」
彼が何を怖がっているのか臨也にはわからないし、知っていたとしても関係ない。既成事実さえ作ってしまえば良かったと、臨也にしては珍しい、短絡的な発想であった。今思えば、それくらい臨也は焦っていたのだろう。
キィ、と臨也が座るイスが音を立てる。悲鳴のようだ、と詮無いことを考えた。それは臨也の悲鳴かもしれないし、静雄かもしれない。そして帝人である可能性もあった。
「俺は間違えたのかな?」
だとしたら、いったい正解はなんだったのだろうか。
「ま、シズちゃんにわかるはずないか」
「うるせぇ、ウジ蟲」
自分の成績をちゃんと把握している静雄は、珍しく臨也にキレなかった。小学生だった頃奇跡のオール5の成績表を作り上げた臨也に、体育以外はちょっとアレな成績表だった静雄が勝てるはずもない。
「もし、正解があって」
静雄がぼそぼそと話す。臨也は珍しいな、と慎重に言葉を選んでいる静雄を眺めた。彼自身、自分の感情を掴みきれていないようだった。
「それが、俺たちにとって最悪なやつだったら、どうする?」
「だったら」
臨也は即答した。
「正解なんていらない」
間違いでもいいと、臨也は思う。たとえ間違っていても、愚かな行為でも。世の中正しいことだけが全てではないと、臨也は知っているから。
静雄を見れば、呆れたような、心底馬鹿にしたような目でこちらを見ている。自分だって同じ答えを口にするくせに、と臨也は唇を尖らせる。
「なにその目? 馬鹿にしてんの? シズちゃんだって同じくせに」
「そこまで堂々と言い切ったテメェに呆れてんだ」
アホだろ、と言われたので、黙れ単細胞、と返した。途端に部屋中に広がる殺気。バキャと破壊音がして、静雄が寝そべっているベッドの柵が一部折れていた。どこまで単細胞なのだろうか、こいつは。
引っ越すまでは物を壊すな、と帝人に厳命されていたことを思い出して、臨也は渋々懐のナイフに伸ばしていた手を引っ込めた。とはいえ、このままこの場にいては戦争が起こることは必須なので、仕方なく部屋を出る。
リビングではソファーに腰掛けて、帝人が難しい顔をしながら何冊かの賃貸雑誌を見比べている。時折「あー」とか「うー」などの唸り声が聞こえることから、どうやら新住居探しは難航しているようだ。
背後からこっそり忍び寄る。帝人のつむじを見下ろしながら、昔は見上げていた彼を見下すようになったのはいつだったのか、ぼんやりと考えた。目線を合わせるためにいちいちしゃがんでいた帝人が寂しそうに、成長期だもんね、と笑っていた。それはどこか、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
(俺たちが変わらなければ、ずっとこのままだった)
それはそれで、幸せなことなのだろうけれど。帝人と一緒にいて、臨也は幸せだった。今でも幸せだ。ただ、満足できないだけで。
「帝人くん」
帝人の肩口からひょっこり顔を出す。うわ、と驚いたように帝人が顔をのけぞらせた。唇が触れ合いそうなくらい縮まったその距離が離れていったことを、臨也は残念に思う。
「びっくりした・・・・驚かすのはやめなさい、臨也」
「んー」
気のない返事を返して、臨也は帝人の手元の雑誌に目を落とした。赤丸で印がつけられていたり付箋が貼られていたりするそれは、何度も繰り返し読まれているのかふちがぼろぼろになっている。どうやら提案したのは昨日だが、何日も前から考えていたらしい。
おもむろに、臨也は腕を伸ばして後ろから帝人を抱きしめた。顔は帝人の肩口に伏せて隠す。なんだか、彼に顔を見られたくなかったのだ。
「臨也?」
様子のおかしい臨也に、帝人が心配そうな声をかける。その優しくてあたたかい仕草が大好きで、でも大嫌いなのだ。
「帝人くん」
名を呼ぶ。臨也はいつだって彼の名を呼んできた。一度も義兄さんと呼んだことはない。きっと、これからも。
「君は何を怖がっているの?」
囁いたそれに帝人が身体を震わせた。逃げられないようにきつく帝人を抱きしめて、このまま時が止まっても構わないと、臨也は鼓膜を貫くような沈黙の中、小さなその歪んだ願望を心の奥深くに埋め込んだ。
この想いを貴方の血に混ぜて飲み下してしまいたい衝動
お題は風雅さんよりお借りしました。