俺が足繁く東京に通うようになったのを、地元のハニーたちはけらけらと笑って受け入れた。ろっちーったら、向こうに本命の子でもできた? なんて軽口で俺をからかって、俺はその軽口に曖昧に笑って何も言わない。ハニーたちには嘘をつかないのが俺の信条だ。だって本当のことを言わないのは別に、嘘にはならないだろう。
「やっほー」
「・・・・・六条さんって、もしかして暇人だったりするんですか?」
人込みの中でも目立つ来良の制服を着た帝人に挨拶をしたら、開口一番がこれだ。しかしまあ、辛辣なお言葉はハニーたちで慣れているので俺のハートはちっとも傷つかない。帝人は口ではこういうけれど、別に嫌がっているようなそぶりは見せないのでまあこれも帝人なりの挨拶の類なのだろうと、前向きに考えることにした。
連れ添って歩く帝人の顔を盗み見た俺は、まだ中学生と言っても納得されるようなその顔に大きく伴象港が貼られているのに気がついた。よく見れば唇の端には小さなかさぶたができている。なにそれ、と指で示すと帝人は自分の頬のそれに手を当てて、色々あったんです、と小さく答えた。
「喧嘩か?」
「一方的な殴り合いを喧嘩と称するのなら」
ぼくは弱いですし、と帝人は目線を俺からそらす。同学年と比べても小柄な部類に入るその身体じゃ、例え反撃で相手を殴ったって逆に自分の拳を痛めるだろう。しかし帝人がただやられっぱなしですごすご引き下がるような奴じゃないと俺は知っているので、あくまで軽口の姿勢を崩さないまま、帝人を殴った奴らのその後を訊いてみた。
「さあ? 今回は好きにさせたので、ぼくは知りません」
「・・・・帝人はほんと、自分のことには無関心だよなあ」
「周りがあれこれ構うから、ひとりくらい相手にしない人がいたほうが安らぐでしょう?」
「そんなもんかねえ」
だからってそんなに自分に無関心になれるものなのか、俺にはわからないけれど。
俺は帝人の唇の端の、まだ治りきっていなくて赤黒いかさぶたを撫でる。帝人が少しだけ肩を震わせて硬直したけれど、俺は無視をした。そんな反応、するなよ。期待しちまう。
「こーゆーことになるから、早く捨てちまえって言ったのに」
ずるずると引きずっているから、こんな風に痛い目見るんだ。馬鹿だなあ、自分で自分の首を絞めてるって気づいているのに、それでもその首に添えた手を離さないだなんて。帝人が何に未練を感じているのかうっすら気づいているけれど、俺は無視をした。いざとなったらその手首ごとぶった切って、帝人に呼吸させればいい。
「駄目ですよ。まだ帰ってきてませんから」
うっすらと帝人は微笑んだ。そんな帝人を見て、俺は可哀そうだと思った。いつ帰ってくるのか、そもそも帰ってくる気があるのかわからない親友を待つ帝人は、一途と言えば聞こえはいいが単なる馬鹿とも言う。その姿は、あまりにも滑稽で可哀そうだ。
紀田正臣。帝人の幼馴染で親友。帝人が上京した理由。帝人がここにいる理由。帝人がダラーズを手放さない理由。帝人が悲しそうに笑う理由。帝人が自分を顧みない理由。帝人が馬鹿みたいに前ばっか見ている理由。帝人が傷だらけになる理由。帝人が泣く理由。帝人が俺と平和島を拒絶する理由。帝人が平和島の髪を見て泣きそうな顔をする理由。帝人が俺と話していて死にそうな顔をする理由。
俺は帝人が待っているという奴についてそれしか知らない。知ろうとも思わない。帝人は話したがらないし、無理矢理話させても帝人の傷口を広げるだけだって俺にもわかっていた。俺が知っているそいつの情報は、大半が平和島から聞いたことだ。
「忠犬ハチ公みてーにずっと待ってるだけだと、いつか死んじまうぞ」
だからほら、俺の手を取れよ。俺じゃなくてもいい。同じことを言ったのだろう平和島の手でもいい。帰ってこない奴ばっか見てないで、後ろを振り返ってお前のことを見ている奴を見ろよ。楽になれるほうの道を選べよ。賢い選択をしろよ。一途なんて、現代じゃはやんねぇぞ。
帝人は俺の顔を見て、六条さんも静雄さんと似たようなこと言うんですねと笑った。それはたぶん俺と平和島が同じ奴を見ているからで、俺と平和島が少しだけ、ほんの少しだけ似ているからだ。俺は好きなやつの手も握れないほど、不器用じゃないけど。
「死んだ犬はそれでも、幸せだったんじゃないですか?」
主人を待ち続けて死んだ犬の気持ちなんて俺たちにはわからない。だからこれは全て想像だ。好き勝手に俺たちが捏造しているだけだ。
「待ち続けたまま死ねるくらいの想いを、成し遂げたひとを、幸福と言わないで、なんて言うんですか」
そんなの、俺のほうが聞きてぇよ。
その言葉は暗に帝人が俺たちの手を取らずに死ぬのだという意思を示していた。何回も繰り返し突きつけられてきた拒絶の痛みをゆっくり味わいながら、俺は心の中で可哀そうを連発する。帝人に言っても否定するだけだから、心の中だけで呟く。
いくら自分で幸福だと思っていても、誰かから見たらそれは憐れだということにもなる。帝人は自分のことを可哀そうだと思っていないけれど、だからよりいっそう、俺は帝人が可哀そうだと思う。そのことに気づけない帝人を、可哀そうだと思う。
昔、帝人が俺に言った言葉がある。あなたと静雄さんを足して二で割りたいと、帝人は俺に言った。それは独り言なのかもしれなかったけど、それに反応した俺は俺と平和島はそれでも構わねえぞと答えた。帝人は笑って、ぼくが構うんですと答えた。
『あなたがそんなにも優しくなければいいのに。静雄さんがあんなにも臆病じゃなければいいのに』
『あなたがそんなにも正臣に似てなければいいのに。静雄さんの髪が正臣に似てなければいいのに』
『あなたが正臣ならいいのに。静雄さんが正臣ならいいのに』
それでも俺も平和島も紀田正臣ではないから、帝人は俺の手を取ったりしないのだ。もちろん、平和島の手も。
帝人が完全に俺たちを拒絶すればまだ諦めもついたのに、帝人は普通に俺と遊ぶし平和島と会話する。そのことで帝人自身だけじゃなくて俺たちも苦しいのだと、わかっているくせにどうしても俺たちとの縁を切れないでいる。
希望なんて欠片もないって事実を突き付けているくせに、どこかでぽろっと期待させるから、こいつはタチが悪い。
「いつか」
そんな日はきっと、来ないのだろうけれど。
「いつかお前が疲れ果てたら、俺がかっさらってもいいか?」
そしてそのまま埼玉にお持ち帰りしちまえばいい。ダラーズもなにもないところまで帝人を連れていけば、こいつは俺のほうを見てくれるだろうか。
でもそんなことをしたら、帝人は自分の両目をえぐって、その暗闇に紀田正臣の姿を浮かべるのだろう。思い出の中でしか会えない親友だけを見続けて、決して俺の姿などその瞳に映さないのだろう。
きょとんとした顔をした帝人に冗談だ、と嘘をついて俺はさっきの発言をなかったことにした。帝人が何か言いたそうな顔をしたけれど、どうせ俺を拒む言葉しか出てこない唇なのだから聞く意味もない。ふとそんな意地の悪い唇は塞いでしまえばいいと思ったが、俺にはどうしてもこいつに触れることはできそうになかった。だからきっと、いつになったって俺が帝人をさらえる日なんて来ないのだろう。
埋まらない距離、もどかしさに噛みしめた唇は今もあなたの温もりを待ってるの
お題は風雅さんよりお借りしました。