ほう、と唇から洩れる吐息は空中で白く色づいて消えていく。マフラーと手袋、それにぶ厚いコートでしっかり防寒してはいるものの、顔だけはどうしようもない。夜の冷気に身をすくませながら刹那が待ち合わせ場所まで急ぐと、すでにそこには街灯に寄りかかりながら暇そうにケータイ画面を眺めている長身痩躯の男がいた。


 「ハレルヤ!」


 振り返る男の頬は赤く、長時間冷気にさらされていたことを明らかにしていた。意外と心配性な父親をまくのに時間がかかってしまったことを考えると、いったい彼はいつからここにいたのだろう。息を整える刹那の額に、べしりとハレルヤのデコピンがヒットした。


 「遅い。お前、早くしねえと整理券なくなっちまうだろ」


 「文句、な、ら、あの親父に言えっ」


 とぎれとぎれに声を上げる。酸素を取り込むたびに一緒に吸いこんだ寒気が喉を刺し、呼吸すら苦痛に感じられた。年の最終日は例年以上に冷え込むと言われていたが、ここまでとは予想していなかった。ハレルヤは小さく「行くぞ」と囁くと、刹那の手を取って歩き始めた。


 除夜の鐘をつきに行こうと、最初に言い出したのはハレルヤだった。近所の神社でつかせてくれるということは知っていたが、今まで1度も行ったことはない。父親が無神論者だということが影響してか、そういえば初詣にも行った記憶がない。そんな刹那に何を思ったのかはしらないが、ハレルヤは唐突に神社に行くぞと言いだした。深夜徘徊は校則で禁じられているが、大学生のハレルヤがいるならおそらく大丈夫だろうと高をくくる。


 「整理券なくなっていたら、どうする?」


 「甘酒配ってるらしいし、とりあえずそれ飲むぞ。あとなんか食いもんもあるんじゃねえの?」


 「いい加減だな」


 「たまにはいいだろ、こんな年越し」


 ハレルヤの大きな手がぐしゃぐしゃと刹那の髪をかき乱す。彼と出会った3年前はきっとすぐに追い越すと思っていた身長の差は相変わらずで、なにかにつけてすぐにハレルヤは刹那の髪をいじくる。しかしこの感触が嫌いなわけではないから、少しだけ、背が伸びなくてもいいかもしれないと思った。


 少しの間だけお互い何を話すでもなく黙って歩いたのち、ぽつりと何かがこぼれるように、ハレルヤが勉強のほうはどうだ、と囁いた。


 「センター試験まで、もう、時間ないんだろ」


 「やばかったらこんなふうにお前と出かけていない」


 なんとなく繋いだままになっていた手を、強く握る。そうは言ったけれど、刹那はきっと、どんな状態であろうとハレルヤの誘いを断らなかっただろうと思う。付き合い始めて3年目の、初めてふたりで出かける夜を父親の目を盗んで成し遂げる程度には、楽しみにしていたのだから。


 ぼぉーんとどこから、腹の底に響くような重低音が聞こえてきた。これが鐘の音かと、思った瞬間手を強く引かれる。焦った顔のハレルヤが早い足取りで神社への道を歩いていく。そこまで除夜の鐘に興味のなかった刹那は、すでに鐘つきが始まったことも整理券が配り終わってしまっただろうことも、どうでもよかった。


 慌てて駆けこんだ神社はそれほど有名なものではないが、それでもやはり大勢の人でにぎわっていた。除夜の鐘をつくのに必要な整理券もすでに配り終わり、列をなして人々が除夜の鐘をついている。それを眺めていると、ふいに頬に暖かいものが当たった。


 「ほら、飲めよ」


 差し出されたそれは甘酒で、いつのまに取りに行ったのかハレルヤはさっそく紙コップに入った甘酒をちびちび飲んで身体を温めている。刹那もそっとそれに口をつけて、温かい液体を嚥下した。ほう、と吐いた息は甘酒で暖められていつも以上に白かった。


 「ハレルヤ、あと何分だ」


 「あと10分くらいだ」


 何が、と聞かないで答えられたそれに刹那はふぅん、と呟く。あと10分程度で今年が終わると言うのに、刹那の胸には何の感慨も浮かばない。18回も繰り返していれば、気持ちも摩耗していくものなのだろう。神社の境内で人気のないところを探して歩き回り、池のあたりの大きめの石に腰を下ろした。水辺の近くは寒さが増したような気がして、しかしほかはどこも人でごったがえしているのでまだマシだと自分に言い聞かせた。


 「刹那」


 名を呼ばれて振り向く、とたんにハレルヤの金色の右目と目が合って心臓が跳ねた。


 「お前、高校卒業したら家を出るだろ」


 「・・・・どうだろう。一応あの家から通えるところを選んだから」


 値段と距離を基準に志望大学を決めた。刹那の母はすでに他界し、男手ひとつで育ててもらったから本当は高校を卒業したら働こうかと思っていたのだが、それに父親が酷く反対した。せめて大学は出て欲しいという父親の意思を酌んで進学を選んだが、なるべくなら経済的負担を減らしたいのが刹那の希望だ。1人暮らしにあこがれがないわけではないが、家を出たらその分家賃だの光熱費だの金がかかる。それは刹那の望むところではない。


 「それでも電車賃がかかるだろ。定期代だって馬鹿にならねえし」


 痛いところを突かれて刹那は押し黙った。刹那が志望した大学まで電車に乗って約50分、その定期代は軽んじていいものではない。バイトを増やしたところで、スズメの涙程度にしかならないことはわかっていた。


 「家賃と食費と光熱費、あと水道代も俺と割り勘。お前の大学まで徒歩10分」


 一瞬ハレルヤが何を言っているのかわからなかった。ぶっきらぼうに、けれどどこか照れているような早口でまくしたてるその言葉の意味が少しだけわかって、刹那は寒さ以外の理由で頬を染めた。


 「この歳で恋人と同棲しろと? 天国の母さんになんて言われるか・・・」


 「同棲って言うな。アレだ、今流行りのルームシェアぐらいに思っておけ」


 「だいたいお前、アレルヤはどうするんだ。ヤってるところを見られるなんて絶対に嫌だからな」


 「あいつは親父んとこ行くってさ。そっちのほうが就職場所に近いから」


 「・・・・・・お前この計画、いつから考えてた」


 「お前が進学するって俺に言った時から」


 「2年前からか! 馬鹿のくせにどうしてそういうとこだけ知恵が働くんだ・・・・」


 なかなか返事をよこさない刹那に業を煮やしたのか、苛立たしげにハレルヤが刹那の首を己の腕で絞めた。ギブアップ、と叫ぶものの一向に腕は離れない。訝しんでいたところにがぶりと耳朶を軽く噛まれて、悲鳴は噛み殺したものの紙コップごと甘酒を地面にこぼした。


 「さっさと返事を言いやがれ。はいとイエス、どっちだ?」


 「断らせる気がないのか」


 お返しにハレルヤの両頬を引っ張ってみょ〜んと伸ばす。喧嘩ではどうしたって刹那に勝ち目なんてないから、この方法が最もスッキリするのだ。さんざんもてあそんでから手を離す。


 どこかでごぉーんと、鐘の音が聞こえた。あれは何回目の鐘だろうか。


 「今までだって頻繁に会っていたのに、それでは足りないのか?」


 「足りねえな。だいたい、頻繁ってほどじゃねえだろ」


 確かに大学生と高校生ではスケジュールが違いすぎて、会うのはいつも週末だけだった。3年間もそんな状態だったから、ハレルヤが不満に思うのも仕方がないのかもしれない。


 「黙って頷けよ、刹那」


 ぐいと襟首を掴まれて引っ張られる。噛みつかれるかと思った、それくらいの距離にハレルヤの顔があった。唇が触れ合いそうな距離を恥じる関係でもないが、それでもこうして視線がからみあうとどうも気恥ずかしい。


 「お前は365日、俺の隣にいればいいんだよ!」


 言ったあと、まるで爆発したかのように急激にハレルヤが顔を赤らめた。「言わせんじゃねえよ馬鹿!」と怒鳴られたが、それが照れ隠しだと他人の感情に疎い刹那でもわかった。馬鹿はどっちだと、ハレルヤに聞こえないように小さく呟く。


 素直に言えばいいのに、と思う。こうやって色んな口実をくっつけてなければ、彼は会えなくてさびしいと伝えることすらできないのだ。その愚かさと不器用さがたまらなく愛しくて、刹那は小さく笑った。


 そっと両腕をハレルヤの首元にまわして抱きつく。手袋越しなのがなんだか嫌で、寒いのを我慢しながら素手で彼に触れた。ぶ厚いコートが邪魔で体温は伝わらないけれど、それでもいい。別の物が伝わるなら、それでいい。


 「      」


 答えを言った瞬間、わぁぁぁと人々の歓声が聞こえた。年が明けたとわかったので、明けましておめでとう、と刹那は呆けているハレルヤに言った。先ほど刹那が述べた『答え』をまだ脳みそが咀嚼しきれていないのだろう。


 「聞こえなかったか? 明けましておめでとう」


 「・・・・・お前さ、もうちょいムードとか考えられねえの?」


 「そんなものを俺に期待するな」


 「それもそうか」


 これからもよろしく、と言い合う。その『これから』がずっと続くのだと思うと自然と刹那の頬はほころんだ。新しい年の始まりに、新しい生活の始まりに、これからもよろしく、とふたりは気のすむまで抱き合って、そして笑っていた。





 











お題は夜風にまたがるニルバーナさんよりお借りしました。