かつん、とコンクリートと黒いローファーの裏がぶつかり合って音を鳴らす。同じようにかつん、と背後から似たような、しかしぶつかり合っている材質が異なるため微妙に違った音が複数続く。かつん、かつん、かつん、と一定のリズムを保って奏でられる無機質な重奏を聴きながら、園原杏里は唐突に足をとめた。そのとたん、足音だけの演奏はぴたりと止み、月も隠された暗い裏路地は元通り沈黙が満ちる。その場には片手の指以上の人間が存在するにも関わらず、呼吸の音さえ抑えられその場に響くことはない。
「母さん」
すぅ、と見た目からして杏里とは十ほど年が離れていそうな中年男性が杏里を促す。杏里の視線の先にいる、まだこちらに気づいていない老いた男の素性について詳細に書かれた紙の束を差し出す『我が子』を片手で制して、杏里は右手のひらから鋭い日本刀の切っ先を露わにした。
ずずずずず、とその刀身を露わにする罪歌を改めて握りなおして、杏里は子供たちに下がっているように命じる。彼らを連れてきたのはただの事後処理のためであって、計画を実行するのは杏里ひとりだ。今回の目標は武道派ではなさそうだし、もし仮に彼が拳銃を所持していたとしても、そんなもので杏里を阻むことなどできない。
「あなたが竜ヶ峰くんの邪魔をしなければ、愛さないといけない理由なんて、どこにもないんですけれど」
そっと罪歌の刃を撫でる。杏里の脳内に響いていた愛の歌が目標を捕らえ、それを愛することができる歓喜にいっそう愛を激しく囁く。愛して、と激しく歌う。愛している、と激しく唄う。そんな罪歌に杏里は優しく微笑んで、そこでようやく無表情以外の表情を作って、人間らしいがあまりにも場違いな感情を少しだけ垣間見せて、静かに一歩を踏み出した。愛のために、罪歌のために、竜ヶ峰帝人のために、そして自分のために。
何度訪れても慣れることのない緊張感とほどよい安堵という正反対のものを感じながら、杏里は帝人に勧められるがまま柔らかいソファーに腰を下ろした。慣れた手つきで紅茶を淹れているらしい帝人を待ちながら、初めて入る帝人の新居をきょろきょろと眺める。
「お待たせ。園原さんはミルクティーで良かったんだよね?」
「ありがとうございます。気を遣わなくても良かったんですよ」
「そんな! わざわざ引っ越し祝いにこんな美味しそうなお茶菓子をもらっちゃったんだから。ぼくの紅茶が美味しいかどうかはまあわからないけど、精一杯のおもてなしくらいはさせてよ」
杏里が持ってきた洋菓子の詰め合わせを嬉しそうに開けながら帝人が言う。別格高級でも何でもない、普通の地下デパートで買ってきたものだが、それでも帝人がとても嬉しそうなので自然と杏里の頬も緩む。杏里はその場にはいない紀田正臣も含めた三人でこうしてのんびりとお茶を飲んだり食事をしたりするのが、彼らと出会った高校時代からなによりも好きなのだ。
帝人が淹れてくれた紅茶を褒めたり、杏里が買ってきた洋菓子に舌鼓を打ったり、帝人の新居の居心地を尋ねたりしながらのんびりとした時間は過ぎる。杏里はふたりのカップがからになったところで、鞄から書類の束を取り出した。
「こんな楽しい時間に仕事の話をするのは、私も遠慮したいんですけど・・・」
「ああ、それ」
杏里が何を言いたいのかすばやく察して、帝人が受け取った書類をめくる。処理済み、と書かれた書類に目を細めて、帝人はごくろうさま、と杏里をねぎらった。
「あとは粟楠の人たちに引き渡せば依頼完了。ごめんね、面倒な手間かけさせちゃって」
「いえ、生け捕りは私たちの専門分野ですから」
人を殺すのはたやすい。しかし、生け捕りとなれば話は別だ。悲鳴すら上げさせることなく昏倒させ、何十キロもある人間をすばやく人目につかぬように運ばなくてはならない。そこには大量の人員と徹底的なチームワーク、それなりの腕が必要とされる。正臣を頂点としている黄色のチームのチームワークの良さはすばらしいが、そこはやはり人間の集団。どうしても完璧とはいかない。
だからこそ、杏里が親として君臨する罪歌たちではないといけないのだ。その依頼を受けたのは帝人で、仕事を割り振ったのも帝人。赤、青、黄をまとめる無色として、彼は有能すぎるほど有能だ。
本当は、と杏里は昨夜の仕事を振り返って視線を落とす。目標が複数ならともかく、たったひとりの男にあそこまで人員を割く必要などどこにもなかった。杏里ひとりが行けば事後処理など関係ない。罪歌の切っ先を男の肌に一ミリでも埋めれば、あとは命じるだけで男は自ら捕虜となってくれる。罪歌となった『我が子』にとって、親である杏里は絶対的な存在なのだから。
けれど、杏里はそれをしなかった。音もなく男の背後に立って峰打ちで気絶させた。子供たちに運ばせ、目が覚めないように薬物を投与した。杏里ひとりで行く場合に比べ、その手間は何倍にも膨れ上がっている。けれど、杏里にはそれができなかった。
わざわざ殺すために、罪歌に子供を作らせるなんて。
きっと罪歌は許すだろう。帝人も、正臣も、その行いを許してくれる。けれどこの世の誰が許そうとも、杏里だけは絶対に、それを許すことができなかった。親殺しの罪を背負っている身の上としては意味もないことかもしれないが、子殺しだけは、絶対にしたくなかった。
(間違っているのかも、しれないけれど)
帝人のために、と杏里はすでに手を汚している。自分で行ったり罪歌の子供たちにやらせたりと手段は様々だが、幾度となくこの手の依頼をこなしてきている。何をいまさら、と頭の中で何かが叫ぶが、杏里はそれを黙殺した。杏里が作り上げた沈黙は、唐突に帝人によって破られる。
「間違ってないと、ぼくは思うよ」
でもきっと、正解でもないんだろうね、と帝人は優しく続けた。
「そのやり方もひとつの手段だと思うから。園原さんらしいと思うよ。前にも話したけど、いくらぼくからの仕事でもやりたくないなら蹴っていいよ。こんな職業だからね、園原さんが嫌がる仕事なんてごろごろしてる」
でも、と杏里は声を上げる。まるで杏里の頭の中を盗み見たような発言をする帝人に臆することなく、杏里は声を上げる。
「効率的に見たら間違っています。ダラーズはもう、以前のような組織ではありません。ひとつの会社として組織するのなら、私のような非効率的な手段を選択する人間は間違っています」
少し前、粟楠の幹部から頼まれた依頼を達成するために六条千景とコンタクトを取った、その会談から帰ってきた帝人が楽しそうに話してくれた自分たちの未来を前提に杏里は会話を続ける。ダラーズをきちんとした会社として自立させるという話は、杏里にとって反対すべき要素などどこにもない、実に帝人に似合っている未来の形だ。正臣の黄布賊、杏里の罪歌、青葉のブルースクウェアを掌握している帝人なら、実現できる将来。
その将来に、はたして自分は必要だろうか。
そう考えれば考えるほど、杏里は自己嫌悪の沼にずぶずぶと埋まっていく。昔から様々なものが足りない欠陥品として罪歌と共存し、寄生虫として帝人に寄りかかっていると感じ、自分を責め続けている杏里だ。鬱の波に襲われればその精神はあまりにもか弱い。
(だって私は、彼のためと言いながら結局人斬りしかできない人間だから)
一見して儚い女性としか見えない杏里は正臣のように威嚇としては役に立たない。機械に疎い杏里は黒沼青葉のように情報を操作することができない。杏里ができるのは、人を愛して罪歌の子を儲けることだけだ。しかしそれすら、先日のようにできない日がある。
(私は結局、寄生虫でしかないから)
そんな自分が会社として自立するダラーズにとって害にならないと、断言できる要素などどこにもない。
「私は・・・・・・・・・・ダラーズに、必要ですか」
小さな音量で囁かれるそれは、独り言の皮をかぶった詰問。ずるい、と杏里自身も思う。独り言と断言できないそれを、無視できる帝人ではない。彼は必ず答えを述べるだろう。彼自身、あまり触れたくない話題だと痛感しているにも関わらず。
「園原さんは、自分に出来ることだけに注目しすぎだよ」
ふぅ、と軽く帝人が息を吐く。少し目を伏せた彼はどこか、自分の考えをまとめ切れていないようにも見えた。
「なにかができるから園原さんがここにいるんじゃないよ。なにかを絶対にしないから、園原さんはここにいるんだ」
「なに、か・・・・?」
「考えてみて。ぼくからの小さな宿題」
宿題なんて懐かしいね、高校生の頃を思い出すよ、と帝人はくすくす笑った。杏里も帝人と正臣三人で共に過ごした、まだダラーズも罪歌も黄布賊もブルースクウェアも帝人の破天荒なふたりの弟も関係なく、だたの高校生として過ごしていた短い時間を思い出して、陰鬱とした気分が少しだけ晴れたような気がして、女性らしい微笑を唇の端に浮かべた。
帝人の宿題を真剣に考えてみる。杏里には出来ないことがたくさんあるが、必ず犯さないミスがある。帝人のデメリットだけは作らないという、絶対な信条を胸に抱えている。それを指しているのだろうか、と杏里は首を傾げる。確かに度々小さなミスを犯して帝人に怒られている正臣や青葉にはない、杏里だけがしないこと。
(でも、私はやっぱり寄生虫だ)
杏里にしかしないことはある。メリットを作らないからといってその存在がデメリットというわけではないという、帝人の言葉も理解できる。けれど杏里はどこまでいっても寄生虫でしかなくて、やはりメリットを作れない存在なのだと痛感する。杏里はきつく目を瞑ってその痛みを受け入れる。何かを許容することには慣れていた。足りないからなんでも受け入れてきた。その生き方は一生、どうやっても、それこそ帝人が何を言おうとも、変わらない。変われない。園原杏里は寄生虫なのだから。
「難しい話はこれでお終い! 園原さん、このお菓子って日持ちするかな?」
「どう・・・・でしょう? 手作りのお菓子ですから、あまり期待しないほうがいいと思います」
「そっか。じゃあ早く静雄と臨也に食べさせないと」
いそいそと菓子箱を棚へしまう帝人の表情は、どことなく菓子をもらって喜んでいた時よりも嬉しそうだ。否、嬉しそうというよりは楽しそう、といった雰囲気である。杏里はその雰囲気の理由に気付いて、思わず口元に手を当ててくすくすと笑い声を洩らした。突然の微笑みに、帝人がきょとん、と目を瞬かせる。
「竜ヶ峰くんは昔から、弟さんたちを甘やかすのが大好きなんですね」
何気なく呟いて、杏里は驚いて目を見張る。先ほどまで楽しそうに菓子箱を抱えていた帝人が、え? と腑に落ちない顔をしてこちらを見ている。こんなに隙だらけの彼は何年ぶりだろうか。そのうち「あ」とか「う」など意味不明の単語を呟きだした帝人を見て、ようかく杏里は彼が混乱しているのだと悟る。
「ぼく、そんなにあのふたりを甘やかしてる?」
「私はそう思ってましたけど・・・・・竜ヶ峰くん?」
ぼふん、と一気に頬を紅潮させてうずくまってしまった帝人は、杏里からは聞こえにくいが頭を抱えてなにやらぶつぶつと呟いている。わかりやすい羞恥心の吐露に杏里は少しだけ驚いて、帝人の人間らしさが露になる場面を何年ぶりかに目撃して、彼が色褪せることのない思い出の高校時代からなにひとつ変わっていないことを知って、杏里は嬉しそうに目を細めて可愛いなあと微笑んで、気の済むまで恥じ入る帝人の姿を眺めた。
その胸にすがりついて涙を流すことさえ赦されないように思えてならなかったのです
お題は風雅さんよりお借りしました。