呆然と固まったままの臨也を放置したまま、帝人はすたこらさっさとマックを後にした。携帯電話のディスプレイに目をやって、かなりの時間を費やしていたのだと知る。別に無駄な時間ではなかったが、なんだか陰鬱とさせられる、差し引きではマイナスで損をした気分だ。


 『君が欲しい』


 あの時の臨也の恍惚とした表情。兎を目の前にした狼のような瞳。肉食獣のようだ、と今更思った。触れれば蕩けそうなその台詞は、否応なしに帝人の触れたくない、しかし何よりも大切で残酷な記憶を掘り返した。


 あれがもうどれくらい昔のことなのか、帝人にもわからない。時間の流れほど帝人と無関係なものはなく、きちんと意識しないと、今、この瞬間でさえ、西暦何年の何月の何日なのか、わからなくなってしまう。


 帝人はそっと瞳を閉じた。ゆるやかに記憶が意識を侵食していく。このまま沈んでしまえたらどれだけ楽だろうかと、決して叶わない願いを想った。














 踏み込んだ足の裏で、パキッ、と何かが軽い音を立てて壊れた。足をどけてみるとそれは炭化した木材で、あちこちに散乱している家だったものの一部であった。あまりにも数が多く広範囲に散らばっているので、もはやそれを踏まずにここを通るなど不可能に近い。


 「陰気なところ・・・」


 帝人の唇から知らずのうちにため息が漏れる。見渡す限り焼かれた田畑と炭化した木材の塊、もとい民家のなれのはてが転がっているだけの場所である。もとはそこそこ栄えていた村なのだろうが、ひとっこひとりいやしない。暦の上ではもう夏になるが、ここだけ暗い淀んだ冷たい空気が漂っていた。


 「ほんと、人間ってひょいひょい死ぬよなぁ・・・・自殺志願者なのかな? あ、でもこれは他殺か」


 真っ黒に焼け焦げた土に埋もれていた、成人男性と思われる骸の頭部を救い上げる。からっぽな眼窩の少し上、額の辺りに鏃が突き刺さっている。頭蓋骨を貫通するくらいの勢いで殺されたのなら、きっと痛いと感じる暇さえなかったのだろう。


 幕府の後継者問題から勃発した戦は、当時の有力大名の不和を巻き込んで、全国へと広がる大規模な争いへ変化していた。後の世で応仁の乱と名付けられることとなるその戦のせいで、下々の村はこうして巻き込まれ、全滅するという悲惨な結末が後を絶たない。


 死にたがりだ、と帝人は思う。人間は脆くて儚くて壊れ物のくせに、いつだって自ら死を呼び込んでいる。それなのにたいていの人間は死に直面した場合、死にたくない、と懇願する。わけがわからない。人間は本当に複雑怪奇で、帝人にはちっとも理解できない。


 びゅう、と強い風が、帝人の頬を撫でた。


 「・・・え」


 目を見開き、己の耳を疑った。風に乗って、かすかに赤子の泣き声のような音が聞こえた気がしたのだ。


 興味をそそられて、帝人はかすかな音を頼りに荒廃したその場所を歩く。赤ん坊ほど気紛れな生物はいないと帝人が考えるように、泣き声は聞こえたり聞こえなかったりと安定せず、非常に探しにくい。


 そして見つけた。見つけてしまった。出会った。出会ってしまった。


 母親だろう焼け焦げた死体が隠すように抱きしめている、まだ生まれて間もない赤ん坊。


 この地に住む農民かなにかだったのだろう、近くには父親と思しき首なし死体と、兄弟と思われる子供の亡骸が転がっていた。家族の、否、自分の故郷の死を知らず、赤ん坊はきょとんとこちらを見つめている。


 『死』が充満する場所で見つけた、輝かしい『生』。


 その奇跡ともいえる正反対さに惹かれて、帝人はまるで蜜に群がる蟻のように手を伸ばした。抱き上げた身体は軽く、十代後半の身体をしている帝人でも片手で持ちあげられるような気がした。


 ざわり、と初夏の香りを含んだ風が吹く。この場所から少し離れれば、あたりは戦の気配など感じられない、緑豊かな山中だ。


 「そうだね、君の名前は青葉にしよう」


 そう名付けた子供との出会いを、後に帝人は人生で最も後悔することとなる。








 あんな場所で発見されたというのに、青葉と名付けた赤ん坊はすくすくと育った。その姿は帝人に複雑な感慨を与えたが、己の名を呼びながら後をついて来てくれる青葉と一緒にいると、このままごとのような家族ごっこが愛しく思えてくるのも確かだった。


 帝人が徹底した教育を施したためか、青葉は歳の割にはとても聡明な子となった。帝人が自分の素性も青葉の生い立ちも包み隠さず全て語ったからか、帝人を父とも兄とも呼ばず、ひたすら「帝人さん」と敬語を使い、全身全霊で慕っていた。帝人もそんな青葉が愛しく、可愛く思っていた。


 そうして、十数年が経過した頃。


 唐突に、青葉は帝人の目の前から姿を消した。


 不思議と涙は零れなかった。帝人の特異な体質のため、永住などせずに各地をふらふらしていた、その生活が嫌になったのかと思った。書き置きなどなにもない。ただ、青葉が、愛しい子が消えていた。


 帝人は涙の代わりにため息をこぼして、また青葉を拾う前と同じ、ひとりぼっちで放浪の旅を続けた。全国を歩いて、青葉の村と同じような村々を見つけた。けれど、誰かの手を取ろうなどとは思わなかった。


 結局のところ、帝人はひとりで生きていくしかないのだ。以前も何度か他人と暮らしたことはあったけれど、皆帝人の正体を知って逃げるか、寿命で死んでいった。何度も何度も別れを繰り返して、最後に青葉と別れて、もう誰の手も取らないようにしようと、帝人はぼんやり決めた。


 町を訪れ、村を見て、道を歩き、海を渡り、山を越え、谷を下った。誰かの記憶に残らないように、ひっそり訪れてそっと立ち去った。そんな生活を何年か続けた、ある日。


 彼はやって来た。


 いなくなった時と同じように、唐突にやって来た。


 「お久しぶりです、帝人さん」


 まだ幼さが色濃く残る青年が誰なのか、帝人にわからないわけがなかった。呆然としている帝人の前で、少数ながら部下を連れた青葉は肉食獣のように笑った。


 「迎えに来ました」


 こちらに伸ばされる青葉の手。記憶に残るそれよりもだいぶ大きくなったそれを、帝人は戸惑いながらも受け入れた。それは過ちだったのかもしれないが、だとしても手遅れだった。あの焼き滅ぼされた集落で青葉を拾った、その時から始まっていたのだから。


 青葉が連れ去ってくれる気がしたのだ。


 どこかに行きたいわけでも、ここが嫌なわけでもなかった。帝人が疎んでいたのは『死ねない』という現実と己で、それらからはどうやっても逃げ切れないと知っていたけれど、それでも淡い期待を見つけて青葉の手を取った。


 なにをどうやったのかは知らないが、失踪している間に青葉はとある大名お抱えになっていた。頭の回転が異常に早く、目敏く耳聡い子であったから、様々な手練手管を浸かったのだろう。


 帝人は青葉の屋敷の離れを与えられ、そこで現世から切り離されたような生活を送った。


 不満はなかった。あるはずもなかった。衣食住に不自由はなく、青葉は時間の許す限り帝人の隣にいた。他愛のない話をして、時たま青葉が持ってくる、おそらく主に言いつけられただろう仕事を共に片付ける。


 「ねえ、帝人さん」


 離れに来ると必ず青葉が言う言葉があった。そよそよと爽やかな風が吹きぬける離れの縁側に座って、青葉は小さく微笑みながらまるで戯れのように言う。


 「いつか必ず、あなたが大手を振って歩ける世の中にしてみせますよ」


 自分が仕えている主君でさえ、その為の駒にすぎないのだと彼は言った。


 「あなたがこそこそ隠れて暮らさないといけない理由なんてないでしょう」


 「あるよ。ぼくはどうやっても人並みに生きていけない。青葉君だって知ってるくせに」


 知らしめるように小刀で己の腕を切りつける。薄い刃が肌を切り裂いて、筋繊維へと沈んでいく。まるで電流が走ったような痛みが駆け抜け、帝人の身体が跳ねた。何度も経験した痛みだが、きっと慣れることはないのだろうと帝人は思う。


 つぅ、と鮮烈な赤が帝人の白い肌を伝い、青葉が用意した浅木色の着物を汚した。失敗したな、と少しだけ後悔した。彼が見立ててくれた着物は気に入っていたのに、汚して駄目にしてしまった。


 「ごめん、汚しちゃった」


 「謝らないでください。それはもうあなたの物なんですから」


 青葉は微笑むと、懐から取り出した手ぬぐいで帝人の傷を覆った。真っ白な布があっという間に赤く染まり、もったいない、と帝人は唇を尖らせた。


 「そんなことしなくてもすぐに塞がるのに」


 「だとしても痛いですから」


 「平気。我慢できるよ」


 「あなたも、ですけど」


 なによりも、と青葉はどこか泣きそうな顔で言った。


 「俺が痛いんですよ、帝人さん」


 身を切られたほうがマシだと言った、彼の言葉がわからなかった。帝人の痛みは帝人だけのもので、誰かに伝わるようなものではない。青葉の苦しみを帝人が理解できないように、帝人の痛みを青葉が理解できるはずがない。


 「昔から思ってたけど、君ってやっぱり変な子だね」


 「ひどいなぁ。育てたのは帝人さんでしょう」


 「どこで育て方間違えたのかなー」


 くすくすと笑う、この時間だけは本当に昔のまま変わらない。帝人の為に世の中を変える、それは青葉の戯言だと思っていた。事実、帝人が住まう離れは屋敷の奥深くにまるで隠れるかのように立てられ、その場所も青葉が厳選した一握りの人間しか知らない。その彼らも、帝人を見る瞳には怯えがあった。


 構わないと思った。


 誰かに恐れられても、誰かに怯えられても、誰かに疎まれても。


 この手を握る誰かがいてくれるから。ひとりぼっちではないから。


 それでも青葉が自分の命を賭すくらい真剣だったから、帝人は黙って彼の好きにさせた。青葉は相変わらず他人と情報を駆使して戦果を上げ、危ないところは帝人が補って、そうしてふたり、生きていけると信じていた。


 その未来は、あっけなく崩れ去った。


 原因はやはり、帝人であった。


 どれだけ緘口令を敷こうとも、人の口に戸は立てられない。どこからかこっそり、少しずつとはいえ確実な情報が漏れ、染み出し、溜まっていった。それは青葉の主の耳にも入り、徐々に不信となって積もっていった。


 悪いものは重なるもので、そんな折にひとつの事件が起きた。


 青葉の命を狙った刺客が帝人の離れまで侵入したのだ。しかし狙いは青葉であって、帝人はただの『青葉のお気に入り』程度の認識しかされていなかった。


 刺客の侵入はあっという間に青葉の耳に届いた。捕らえられるまで、そう時間はかからなかった。なんてことはない、ちょっとした騒ぎですむはずだった。


 青葉に向かって放たれた刺客の小刀が、帝人の首筋を切り裂かなければ。


 大勢の人が帝人を見た。頚動脈を裂かれ、壊れたスプリンクラーのように血を噴出す帝人を。血管が修復し肉が再生し皮膚が作り変わり、何事もなかったのように動き出す帝人を。


 バケモノ、と誰かが悲鳴のように叫んだのを帝人は覚えている。


 こうなってはどうしようもなかった。青葉がバケモノを自宅に住まわせているという噂はあっという間に広がった。誰にも、帝人にも青葉にも、止める手段はなかった。


 帝人を殺せと、青葉の主君は命じた。


 死んでも嫌ですと、青葉は断わった。


 主の意に沿わない者の末路など決まっている。当然青葉の屋敷は没収され、帝人を殺すための刺客も放たれた。今まで懇意にしていた者が敵へと変わる、その速さは異常としか言いようがなかった。


 ふたりは逃げた。手を取って逃げた。行くあてなどなかったけれど、生きていられればどうにかなると信じて。


 青葉はともかく、帝人は死ねないだけのただの非力な少年である。足手まといは目に見えていた。帝人も自覚はあったから、何度も青葉に捨てて行けと強く言った。青葉が首を縦に振ることはなかったけれど。


 山を逃げ、谷を逃げ、川を逃げ、林を逃げた。何度も何度も刺客に襲われた。その度に青葉は傷付いて、ぼろぼろになって、それでも帝人の手を離そうとしなかった。


 「ねぇ・・・・みかどさ、ん」


 唇の端から血を流して、青葉はこんな時だというのにまるで戯れのようにいつもの台詞を繰り返した。内蔵を酷くやられていて、息をすることさえ苦しいはずなのに。


 「俺は、本当に・・・あな、たが生きられる世界を、作るつ・・・もりだったんです・・・よ」


 「そんなのいらないから。ていうか喋んないで」


 昔は抱えられるほどだった青葉の身体は、もはや帝人には持ち上げることさえ出来ない。それが悔しくて悲しくて、しかし涙は出なかった。


 「あなた・・・・が、欲し、い」


 「っ!」


 「だか、ら・・・・・もらっていきます」


 初めての接吻は鉄錆の味がした。


 幸せそうに微笑んで、ことり、とまるで糸の切れた人形のように、青葉は動かなくなった。置いていかれた、その言葉だけが帝人の頭を駆け巡った。喪失感に胸が切り裂かれて、帝人は青葉の遺体を抱きしめて叫んだ。


 「                                      」


 叫ぶうちに喉が裂け、血が溢れ、同時に再生してまた叫ぶ。また裂ける。再生する。裂ける。再生する。そんなことばかり繰り返していた。


 この瞬間ほど、共に逝けない己を呪ったことはない。


 帝人は衝動的に、持っていた小刀で己の胸を突き刺した。刃が肉に埋まり、骨に当たってごり、と鈍い音を立てた。ごぷ、と唇から大量の血液が溢れ、胸を中心に神経が焼かれるような痛みが走ったが、それでも死ねなかった。


 「                                      」


 激情のまま己の身体を何度も傷付ける。眼球をくり抜けば激痛と共に視界が暗闇に包まれたが、すぐに眼球が再生して眼窩にごろりと収まった。心臓を貫けば一瞬だけ鼓動が止まり酸素の提供も途絶えたが、すぐにまた鼓動を始めた。


 肌という肌を切り裂いて、肉という肉を貫いた。それでも帝人は死ねなかった。


 どれだけの時間が経ったのかわからない。もはや追っ手も来なくなった深い山の中で、帝人は青葉の遺体を傷付けないように慎重に、暗闇の中へと消えた。もう二度と、人の世に出ようとは思わなかった。














 「帝人?」


 名を呼ばれ、弾かれたように帝人はそちらを向く。制服姿の正臣が、ぽかんと間抜けに口を開けて、驚いたようにこちらを見つめていた。


 「え、なに? なんか俺悪いことしちゃった?」


 「まさお、み?」


 「お前の親友の紀田正臣様、華麗に登場!」


 びし、と往来だというのに恥じ入りもせずにポーズを決める。その阿保っぽさに、帝人はかすかに頬を緩ませた。


 「正臣、課題忘れたから居残りじゃなかったっけ?」


 「ふふん、この俺様が居残りなんてすると思うか? 時間がもったいなくてもったいないお化けが出るぞ!」


 「いや、少なくとも正臣のナンパよりは有意義な時間だと思うよ。ゼロよりも価値がないものってこの世にないし」


 「ゼロなの!? 俺のナンパをゼロだと言いたいのか!?」


 「自分の胸に手を当てて思い出してみようね」


 ガッデム! と叫ぶ親友を尻目に、帝人は大きく息を吐いた。手のひらはじっとりと嫌な汗で湿り、鼓動もまるで全力疾走してきた後のようにうるさい。情けないな、と帝人は自嘲の笑みを浮かべた。


 (もう二度と、誰かと過ごすことなんてしないと思っていたのに)


 帝人は性懲りもなく誰かの手を取っている。しかも複数。学習しない生き物なのかもしれないと、帝人はふと思った。


 帝人に生きていて欲しいと願っている人がいる。帝人をまたこちら側へと連れ出した人がいる。それは小さな小さな男の子で、帝人に差し出された手はまるで紅葉のようだった。


 「どうした、帝人?」


 もはや帝人と同じくらいの伸長になってしまった正臣が、怪訝そうにこちらを見つめる。正臣は成長している。彼と同じように、生きて、老いて、いつか死ぬ。生きてるのだから、きっと死ぬ。


 でもそれまでは。


 「・・・・・いや、臨也さんに上着返し損ねちゃったなぁと思って」


 「ゴミ箱に捨てなさい、そんなの」


 彼の隣で生きていこう。最後の日が来るその日まで。





   











 お題は選択式御題さんよりお借りしました。