静雄は自分の頭がそれほど良くないことは自認している。ごちゃごちゃ考えるよりさっさと行動に移すほうが好みで、例え物事が好転しなくとも、いつまでも悩み続けているよりはマシだと思っていた。


 「静雄、お皿取ってきて。上の棚の、青い小皿」


 腹立たしいことにしっかり血の繋がっている兄弟である臨也はそんな静雄とは正反対に、考えて考えて考えて行動することを好んだ。彼の場合、そこに私情やら感情やらを上乗せさせるので、たいていの行動が静雄の癇に障る、静雄でなくとも誰かしらの反感を買うものであった。


 「ん、ありがとう。もうちょっとでできるから、テーブル、片付けておいて」


 行動力がありあまっている静雄と思慮深すぎる臨也。正反対な自分たちを足して二で割ればちょうどいいと言ったのは、幼い頃から犬猿の仲である義兄の親友だ。けらけら笑うその顔にベンチを投げつけながら、しかし心の中で頷いたのは事実。


 「静雄、ご飯食べよう」


 大好きな義兄が笑う。ぼけっと言われるがままテーブルを濡れ布巾で拭いていた静雄は、帝人が運んできた鍋を受け取りながら鍋敷きを探す。魚の形をしたそれの上に鍋を置いて、ふたり分の箸を用意した。臨也は所用で帰りが遅くなると連絡が入っている。いつもなら喜ばしいことであるその知らせは、けれど静雄の心にじわじと傷を作るだけ。


 静雄は生まれて初めて、最愛の義兄とふたりきりというこの空間を苦痛に感じていた。


 「ロールキャベツ作ったけど、ちょっと水っぽくなっちゃったから、不味かったら残してもいいよ」


 まるで先日の一件が嘘のように自然に、帝人は静雄に微笑みかけ、話しかける。臨也も変わらない。変わったのは、上手く誤魔化せていないのは静雄だけだ。まだ心の整理がついていなくて、無様にもうろたえて、みっともない。


 静雄と臨也が協力して帝人を押し倒す、という残念ながら未遂に終わった事件から一週間と少し。壊滅的に家事が出来ない静雄と臨也のせいで、自宅が崩壊するかと思われたある日の朝。


 『おはよう』


 慣れない自炊に嫌気が差し、朝食をどうやりすごそうかと考えながらリビングへ出てきた静雄を迎えたのは、出来立ての朝食と優しく微笑む義兄だった。


 いつ帰ってきてくれるのだろうか、と心待ちにしていたくせに、心のどこかでもう帰ってきてくれないのではないかという猜疑心と、顔をあわせた瞬間に湧き上がるだろう気まずさがせめぎあって、静雄はその再会を喜べずにいた。


 帝人はそんな静雄の心境を見透かしたように、何も言わず何も責めず何も語らず何も説明せず、たった一言。


 『ここはぼくの帰る場所だからね』


 それがこの家を指しているのか、それとも自分たちの隣を意味しているのか。静雄は怖くて尋ねることが出来なかった。帝人の唇から自分たちを否定するような言葉が出るはずないとわかっているけれど、その『もしも』を想像するだけで静雄は悲しくて発狂してしまいそうになる。


 (このままでも良かった、なんて)


 そんなのはただの言い訳、だ。


 このままぬるま湯に浸っているような、家族愛とも恋愛ともつかない空間は心地良いけれど。しかし臨也が限界を迎えたように、静雄もまた、徐々に自制できなくなりつつあった。いつか激情のままこの大きすぎる力で帝人を壊すくらいなら、自分が壊れたほうがマシだ。


 そう考えて、臨也の誘いに乗ったのに。


 「どう? 食べれそう?」


 帝人に促されて、やや不恰好なロールキャベツを口に運ぶ。確かにそれは水っぽかったが、食べられないほどではない。その旨を伝えると、帝人は安心したように笑った。


 その笑顔が大好きで。


 ((バケモノ)に笑いかけてくれるのは、帝人だけだから)


 その瞳が大好きで。


 ((バケモノ)を真っ直ぐ見てくれるのは、帝人だけだから)


 その唇が大好きで。


 ((バケモノ)をちゃんと叱ってくれるのは、帝人だけだから)


 彼が本当に大好きで。


 (あの時、手を伸ばしてくれたのも、帝人だった)


 だから、もうどうでもよかった。家族愛でも恋愛でも、彼が自分を愛していてもいなくても。自分以外に大切な物があっても、静雄が欲しいものを彼が与えてくれなくても。


 臨也も大切だという、その台詞だけは少し気に入らなかったけれど。


 帝人の隣にいられるのなら、もう、なんだって構わないのだ。


 本音を言えば、静雄だって帝人に触れたい。有体に言えば、手を繋いで、笑い合って、キスして、セックスしたい。家族としてではなく義理の弟としてではなく、ただの静雄を愛して欲しい。


 そんなふうに、ぐるぐる悩んだ時期もあったけれど。


 (もう全部、どうでもいい)


 諦めるわけではない。何が一番大切かと問われれば、それは間違いなく帝人のそばにいることで、先日のようなやんちゃを静雄がしなければ、帝人は静雄の隣にいてくれるのだ。


 帝人の帰る場所がここならば。


 静雄の行き着く場所もまた、ここなのだ。


 「ねえ、静雄」


 取り留めのない話をしながら、帝人がなにかを思い出したかのように顔を上げて、一冊のパンフレットを取り出す。明るい色彩のそれはどうやら不動産のもののようだ。


 「そろそろ静雄も臨也も、自分の部屋、欲しいよね」


 引っ越そうか、と帝人は言った。


 「この部屋も手狭になってきたからね」


 ぱらぱらとめくるそれにはいくつか付箋が貼ってある。どうやら引っ越す、ということだけはすでに決定事項らしい。確かに三人兄弟が住むには、この2LDKの部屋は少々狭い。ただでさえ臨也と静雄の喧嘩であちこちぼろぼろなのだ。


 「金、大丈夫なのか?」


 「心配しないで。副収入でがっちり稼いでるから」


 「そうか」


 同年代の男性と比べて体力に劣る帝人は普通のアルバイトをせず、パソコンを使って生活費やらなにやら全て稼いでいる。一応両親からの仕送りもあるのだが、育ち盛りの男子高校生の生活費としては、雀の涙ほどしかない。


 「静雄はどこか希望がある? 駅に近いほうがいいとか、コンビニがあるとか。あ、君たちが大学に行く可能性も考えておいた方がいいか」


 ふーむ、と幼さが残るその童顔に似つかない仕草で、帝人はパンフレットをめくる。臨也はともかく勉強が苦手な静雄は大学に進むつもりはなかったから、これと言って希望はない。


 ただ、絶対に当てはめて欲しい条件が、ひとつ。


 「帝人がいるなら、どこでもいい」


 味の薄いロールキャベルを咀嚼して。優しくそうだね、と微笑んだ帝人を眺めながら、失敗作でもいいからまたこのロールキャベツが食べたいと、静雄は強く思った。





   











 お題は選択式御題さんよりお借りしました。