いったい月いくら稼げばこんな生活をすることができるのか持ち主に尋ねてみようかと思ったが、今の帝人は口を開いて声帯から音を発するだけで全気力を使い果たて目覚めることのない眠りについてしまいそうな体調だ。ふかふかのソファーに全身を横たわらせながら、自分のボロさと家賃の低さだけが目立つアパートとは比べ物にならない、やたらと高い天井を見上げてため息をついた。
「・・・・・・今なら心肺停止になれそうな気がする」
「今の君は本当に気分一つで心臓止めそうだから、そんな物騒な発言はひかえようね。逆に俺の心臓が止まりそうだよ」
ひょっこりとソファーの後ろから臨也が顔を出す。苦笑交じりの笑みを唇の端に浮かべた彼は、帝人の腕の中にすっぽり納まる程度の大きさのひよこのぬいぐるみを手渡してきた。中身が綿にしてはやけに重いそれは、なぜかぽかぽかと温かい。
「レンジであっためる湯たんぽ。これを抱きしめていれば、少しは楽になるんじゃない?」
「臨也さんに似合わず可愛いもの持ってるんですね」
「だって君用に買ってきたやつだからね」
少しの間だけ、帝人の大きな瞳がさらに大きく見開かれた。自分には不必要なものをわざわざ買いに行く、そんな行為を目の前の人間がやってみせたことに帝人は純粋に驚いていた。人の心があったのか、この人。心の中だけで呟いたはずのその台詞はどうやら臨也に筒抜けだったらしく、彼の端正な眉が少し不機嫌そうにひそめられる。
「心外だな。実に心外だよ、帝人ちゃん。俺だって恋人が青白い顔さらしてうんうん唸っているのを無視するほど、駄目人間やってないつもりなんだよ。これでも、ね」
「じっくりねっとり観察されるのかと思ってました」
「うんまあ、ぶっちゃけるとそこそこ興味深いんだけどさ」
その痛みは天地がひっくり返ったって俺には理解できないし経験できないモノだし、とソファーの背もたれによりかかって、臨也がどこかつまらなさそうに囁いた。この下腹部にヒルでも吸いついて盛大に血吸いパーティーでもやっているのかと思うような鈍痛は、よっぽどのことがない限りこの世の女性全てが長年お付き合いせざるを得ないモノだが、男性である臨也には一生無縁のモノだ。帝人だって好き好んで青白い顔をさらしているわけではない。
そっと臨也の大きな、ともすれば女の帝人よりも綺麗なのではと思う手が、まるで壊れ物にでも触れるかのように帝人の下腹部を撫でた。
「想像以上に君が死にそうな顔してるからさ、観察する気も失せちゃった。女の子って大変なんだね」
あの折原臨也が観察する気すら失せるなんて。そんなに酷い顔をしているのかと気になったが、鏡を探すほどの気力はなかった。人によって差が生じる生理痛だが、帝人のは痛みのピークは二日目までと標準並みで出血そのものも四日程度で収まるのだが、とにかく痛い。痛すぎる。動けないほどではないが、気力と根性と思考を全て根こそぎ持っていかれるくらい痛い。しかし中には痛みと出血に加えて微熱まで出す人もいるというのだから、帝人はまだマシな部類だと、頭では理解しているのだけれど。
腹部を温めたからか臨也との会話で気が紛れたのか、少しだけ痛みが引いた気がする。
「ねえ帝人ちゃん、俺、今けっこう嬉しいんだよ?」
楽しそうに帝人の腹を撫でながら、くすくすと臨也は綺麗に笑った。
「君が毎月苦しんでいるのを見るたびにすごく嬉しいんだよ」
「臨也さんはサドなんですね・・・・・」
じろりと睨みつけると、違うよと臨也は否定する。しかしその口元はやはり、愉しそうに歪んでいた。
「だってさ、今君が心肺停止になれそうなくらい痛いから、君はいつか俺の子供を産めるんだよ? 嬉しくてたまらないよ、帝人ちゃん!」
まるで遠足前の子供のようにはしゃぐ臨也を、帝人はぽかんと大きな口を開けて見つめた。彼の子供を産む、なんて。そんなの想像したことすらない。それは相手が臨也だからというわけではなく、帝人はこれまで女性ならば一度は夢見るお嫁さん、というものに、全く関心を持たないで生きてきたのだ。自分が子供を産むなんてのは、ブラウン管越しに知るアイドルのゴシップよりも遠い存在に思えていた。
そういえば生理とはそのための現象だったなと、帝人はぼんやりと思った。子供を産むための、子孫を残すための、痛み。女だけが味わう痛み。自分が女なのだと知らしめる、痛み。
「・・・・・・臨也さんは欲張りなんです、ね。ぼく以外にも欲しいものがあるなんて」
そばにいられればそれでいいなんて、思えないんですか。帝人がそう尋ねると、臨也はまぶしい笑顔で「全然」と即全否定した。その笑顔がまぶしすぎて、綺麗過ぎて、帝人は握りこぶしひとつ作ってその顔面に埋めることができたらそれこそこの痛み全てがぶっ飛ぶくらいスッキリできるんじゃないかと思った。
「俺は汚い大人だからね。そばにいるだけなんて耐えられない。俺だけを見て、俺だけに話しかけて、俺だけに触れてほしいって思うし、そのためならなんでもする。子供だって産ませる。君は自分の子供を見捨てられるような子じゃないだろう?」
「わかってましたけど、サイテーな人、ですね・・・」
はぁ、とこれみよがしな溜息をひとつ、唇から落とす。
子は鎹、とはよく言ったものだ。それこそ女性らしい感情とは無縁の帝人だが、腹を痛めて産んだ子を捨てるほどではない。臨也ひとりに子育てができるとは思えないし。
こうやって、どんどん自分は逃げ道を潰されていくんだろうなと、帝人は自覚している。臨也が楽しそうな顔で、手練手管の限りを尽くして、帝人を縛る鎖を作りあげているのを知っている。それをぼんやりと眺めながら、これといった解決策を考えようともしていない自分を、知っている。
縛るのなら好きなだけ縛ればいいと、思う。
その代わり帝人も少しずつ、臨也を縛っている。この湯たんぽも、臨也がこうやって帝人のために割く時間も、そのひとつひとつが後々ゆっくりと臨也を縛っていくだろうから。臨也がどこにも行かないように、誰にも心を向けないように。
(そばにいられればそれでいい、なんて、思えるわけないじゃないですか)
そんな綺麗事など、フィクションの世界だけで十分だ。帝人はいらない。汚くてもいい。醜くてもいい。だって帝人は人間で、女なのだから。
ずん、と下腹部に見えない重しでも乗せられたかのような感覚と錆びついたナイフで斬られたような痛みに、知らずのうちに唇からうめき声が漏れる。気持ち悪い。痛い。辛い。苦しい。そんなどろどろとした感情で心が溺れそうになる。そんな帝人の様子に気づいたらしい臨也が、飄々とした笑みを消して帝人の顔を覗き込んできた。もう、目を開けているものしんどい。
ゆるゆると手を動かして見えないそれを探す。瞼は閉じてしまったから、あとはもう勘しかない。帝人はゆっくりとした動きで自分の手と己の腹を撫でていた臨也の手を重ね合わせた。
「帝人ちゃん?」
「そばにいるだけ、なんて嫌なんですよ・・・・。寝るまでの間、手、お借りします」
目をきつく閉じていたから、臨也の顔は見えない。それでも気配で彼が微笑んだのがわかった。それが嘲笑か、苦笑か、それともそれら以外の何かかもしれないが、そこまではわからないし、どれでもいい。帝人は縋るように救いを求めるように臨也の手を握り締めて、意識を手放した。だから知らない。臨也はものすごく驚いた顔をしていたことを。そしてものすごく、愛おしそうな顔をしていたことも。
そばにいられればそれでいいだなんて美しい台詞は言えないよ
お題はテオさんよりお借りしました。