清潔なシーツは毎日取り替え洗濯されているゆえか、顔をうずめても何のにおいもしなかった。不快なにおいもしない反面、ぬくもりも太陽の香りも何も感じない。
「セイエイさん、昼食の時間ですよ」
「はい」
淡い水色のナース服に身を包んだ看護士がワゴンからひとり分の食事を運んできた。病院食というのはどうしてか、みな栄養はあるもののどこか味気ない。
看護士は仕度だけ終えると次の部屋へ行ってしまった。先日婦人が退院してしまったため、広いふたり部屋には今は刹那しかいない。寂しさを紛らわすかのように、刹那は病院食を口に運び、そしてその味に少し眉を寄せた。
病院食を食べ終えたけれど、刹那の胃は軽く不満を訴えた。何か、もう一品欲しい。軽めのスイーツとか。
「お、食後か。いいタイミングに来れたみたいだ」
「ライル」
ノックもせずに入ってきた男に刹那は笑顔を見せた。ライルは「おみやげ」と刹那に白い箱を手渡すと、部屋の隅からパイプ椅子を取り出してベッドの隣に腰掛けた。
「刹那が食べたいって言ってた、アンデンテのフルーツタルト。なんとか売り切れる前に買ってこれたぜ」
「でかした、ライル」
刹那はいそいそとフォークを取り出すと、ライルがさらに取り出したタルトにかぶりついた。隣ではライルが苦笑しながら少しタルトを消費していく。
「食後だっていうのにすごいスピードだな」
「ちょうどデザートが欲しかったところなんだ。病院食はもう飽きた」
唇の端にカスタードクリームを付着させながら言う刹那に、ライルは「我慢しろ」と頭を撫でる。なんだか子ども扱いされているようでむっとしたが、振り払うことはしなかった。
「来週にもう一回精密検査して。それで異常なかったら退院だろ? あともう少しじゃないか」
「そもそも病気でも怪我でもないんだからさっさと退院させてくれっていいはずだ。この点滴だって気に入らない」
刹那じろりと自分の左腕に繋がれている点滴を睨みつけた。中身は栄養剤だというビニール袋から透明な液体が静かにチューブを通って流れ込んでくる。
「知っているか、ライル? 点滴をされている腕を心臓より上にあげると、血液がチューブの中を逆流するんだ。俺、そんなこと全く知らなかった」
「聞いたことはあるけど。へぇ、そんなことあるんだな」
「ああ。おかげでとても驚いた」
刹那は入院して間もない頃を思い出して顔をしかめた。担当の看護士に挨拶をしようと手を上げて、それで透明なはずのチューブが真っ赤に染まっているのに気がついたのだ。あの時のショックは体験した者にしかわからないだろう。
「これ、引っ張ったら案外簡単に取れるんじゃないか?」
「はいはい、考えてもいいけど実行するなよ。これはまだお前には必要なんだから」
「なぜ?」
刹那は自分の診断結果を思い、唇を尖らせた。
「記憶喪失に、薬は必要ないだろ」
ライルが微かに眉根を寄せたけれど、刹那は気にせず言葉を続けた。
「記憶を思い出す薬、あればいいのに。そうすれば、お前の事も簡単に思い出せる」
そんな薬が、もしあれば。
何も分からない恐怖に怯える事もなく。何も知らない不安に襲われる事もなく。何も思い出せない己のふがいなさに夜な夜な枕を濡らすこともなかったはずだ。
「早く思い出せればいいのに」
役目を終えたフォークがかちゃり、とさらに落ちた。物に当たらないのが刹那の主義であったけれど、今回ばかりは何もかもにぶち当たって喚き散らしたかった。
なぜ記憶が消えたのか。それすらもわからないなんて。医者は精神的に何か大きなダメージを受け、その痛みを消すために全てを忘れる、一種の防衛行動だと言っていた。
そんなことでしか、痛みを消せない自分なんて。
刹那が二週間に及ぶ入院生活で思い出せたのは自分の名前と、己を知るには断片的すぎる記憶の欠片、それから。
「お前の事も、少ししか思い出せていない。恋人なのに」
優しく頭を撫でてくれる感触。刹那、と自分を呼ぶ低い声。翠玉の瞳を細めて笑う、嬉しそうな顔。
たったこれっぽっちしか、彼のことは分からない。
「刹那」
優しく呼ぶ、その声に刹那は申し訳ない思いで一杯になる。何も分からない自分に病院の手配をして、こうして毎日のように見舞いに来てくれる彼に。
「あんまり自分を責めるな。こればっかりは仕方ないさ。気楽に待つしかない」
それに、と彼は笑った。
「記憶がなくてもあっても、俺は刹那を愛してる」
ちゅっ、と柔らかな口付けが額に落とされる。くすぐったい、と抗議の声を上げるが無視され、目じり、鼻先、頬へと唇が降ってくる。
一瞬だけ、赤褐色と翠の視線が絡み合った。未だになれない刹那は少しうつむいて頬を染め。
「愛してる、ライル」
唇に感じた違和感を消すように、そう、囁いた。
あなたを愛している、アイシテイル、その事実に、目を背けたくなるのは何故?
お題はイデアさんよりお借りしました。