実を言えば扉をノックするまでここであっているのか半信半疑だった。苦学生とは聞いていたけれど、目の前にそびえたつ、地震がきたらあっという間にぺしゃんこになってしまいそうなボロアパートに住むほどだとは思いもしなかった。色々苦労しているらしい、とため息交じりに呟いていた兄の姿を思い出しながら、幽は出てきて早々ぽかんと口を開けてまじまじとこちらを見つめる竜ヶ峰帝人にどうぞ、と花束とケーキの箱を手渡した。
「今度誕生日だって、兄さんからきいたので」
「・・・・・・どうもありがとうございます」
勝手が良く分からなかったので花屋の店員にとにかく豪華なもの、と注文をつけたためやたらめったら大きなものになった花束は、幽の手にも余るものだからより小柄な帝人にとっては両腕でやっと抱えられるほどだ。疑問と戸惑いと喜びが複雑にまじりあった表情を浮かべながら、それでも礼儀正しく帝人は頭を下げた。
兄の知り合いだと言うこの少年に幽が会った回数など片手で数えあげられるほどしかない。しかしそれでも幽がわざわざ激務の合間を縫ってこうしてはせ参じたのは、ひとえに人付き合いが苦手で友人が少ない兄と鍋パーティーで知り合ったらしいこの少年が良好な関係を築いているのだと、言葉少なく語る兄から幽が悟ったからだ。
幽は兄が自身の力のせいで様々なものを失う場面を最も近くで見てきた。それらは平穏だとか友人だとか安全だとかいった、普通の人は持っていることを当然だと思いがちな、けれど兄には遠く手の届かないものばかりだった。それを再び兄が掴みかけているのなら、幽は協力を惜しまない。だから今日、ここへ、来たのだ。
本音は言えば少しだけ、興味があったのだ。
平凡な少年だと、見て思う。幽だってそう大柄なほうではないが、年の差を考えても目の前に立つ少年は小柄だと思う。小さくて弱そうで、兄が苦手とする第一のものだ。そして兄を避ける第一のものだ。
「君はどうして、兄さんを避けないんですか?」
疑問はそのままさらりと唇から出た。幽自身もそれは確かに心の隅にあったものだけれど、形にして問おうとは思ってはいなかった。まるで蛇口から水が出るかのように淀みなく流れ出たので幽自身が驚いたくらいだ。
表情を凍らせた帝人を見て、幽は自身の無表情さを少しだけ恨んだ。怖いくらいの無表情でそんな質問をしたのだから、きっと詰問されているのだと彼は思ったのだろう。そんな勘違いは幽の周りではよくあることだった。
帝人のような人間が一番に兄を避ける。目を合わせれば逸らすし、顔を合わせればそっと回れ右をする。だからずっと、幽には兄の隣に彼がいることが不思議だったのだ。
「・・・・・・やっぱりいいです、答えなくても。これからも兄をよろしくお願いします」
なんとなく聞いてはいけないような気がして、幽はきっぱりそう言うと回れ右をした。そのままその場を立ち去ろうとしたのだが、それは幽の袖口を掴む手が許さなかった。
「あ、すいません。このまま帰ってしまいそうだったから、つい」
なんとか片手で花束を抱えた帝人が幽の袖口を掴んで引き留めている。申し訳なさそうにこちらを見やる帝人は少しだけためらうようなそぶりを見せた後、口を開いた。
「幽さんと静雄さんって仲がいいんですね。ぼくには兄弟がいないので羨ましいです」
てっきり先ほどの質問に対する答えのために口を開いたのかと思ったが、彼はただ穏やかに笑ってそんなことを言うだけだった。回れ右していた足を元に戻して、そうですねと相槌を打ちながら幽は先ほどのように帝人の正面に向く。
「いいお兄さんですね、静雄さんは」
「喧嘩とかはしょっちゅうしましたけど、仲は良いですし、そうですね、良い兄ですよ」
「だからですよ」
柔らかく微笑んだ帝人がそっと幽の袖口を引いた。
「幽さんが良い兄だと胸を張って言える人を避ける理由なんて、どこにもないからですよ」
それが幽の質問に対する答えなのだと理解するのに少しだけ時間がかかった。それは幽が求めていたものと少し違ったかもしれないが、それでもすとんと真っ直ぐに幽の心に落ちてきた。これが『納得した』という状態なのだろうと、頭のどこかで考える。
黙っている幽に慌てて「え、ぼく何か変なこと言っちゃいました?」と騒ぎ始めた帝人を片手で制して、幽はうろたえる帝人に「変じゃないです」と言った。
「それが君の答えなら、それは全く、変なことじゃないです」
「・・・・・・そうですか?」
「そうです」
きっぱりと断言する幽を何とも言えない微妙な顔をした帝人が眺めていたが、ふと、そこで何かを思い出したかのように帝人が「そういえば」と口を開いて、自分が抱きかかえている花束とケーキの箱を、そっと視線で示す。
「プレゼントはありがたいんですけど・・・・なんで花束とケーキなんですか? いや、これでも一応男子高校生なんで、男性から花束を貰うってのがちょっとなんともいえない感じがして・・・・・」
甘いものと辛いものと苦いものと酸っぱいものをいっぺんに飲み込んだような、喜びとも怒りとも悲しみとも虚しさともつかない顔をした帝人が、これまたなんとも形容しにくい生温かい視線で幽が持ってきたプレゼントを見る。
「花はいつか枯れるし、ケーキは君が食べてなくなります」
自分が渡したそれらを眺めながら幽は静かに口を開いた。
「そうして消えてしまったほうがきっと、君は覚えていてくれると思ったからです」
え、と目を瞬かせる帝人の頬にそっと指を這わして、まだ子供特有の柔らかさが残るそこをゆっくり撫でた。ここに触れる人がたくさんいることを幽は知っている。このプレゼントが、その他大勢の人からもらった何かの中に埋もれてしまうことはわかっている。
それならばいっそ、消えてしまうような物のほうが、彼はずっと覚えていてくれるだろうと、思ったのだ。現実の世界で手元に残る方よりも、幽は記憶の中に留まる方を選んだのだ。
「誕生日おめでとう」
ぐっと近づいた距離と変化していく展開についていけずに呆ける彼の額にそっと自分の唇を押しつけて、幽はまだ言っていなかったその台詞を舌先に乗せた。こうして毎年残らない贈り物を用意すれば、彼の記憶の中で生きてけるかもしれないと、考えながら。
せめてあなたの記憶の中で生きていたいだけ、だからどうか、わたしを忘れないで
写真はForestbouquet様よりお借りしました