園原杏里には買い物の経験がない。否、食料や肌着などの生活必需品などを買いに出かけることは多々あるが、いわゆる友人同士のウィンドウショッピングなるものにとんと縁がなかった。唯一の女友達の張間美香が度々誘ってくれるのだが、きらびやかなそこに足を踏み入れることに躊躇して、結局自ら断るのが常だった。
意気地のない自分を象徴する、思い出すだけで頬が羞恥で赤く染まる過去。それなのに、隣に立つ友人はそれを聞いて良かった、と頬を緩ませた。自分だけではなかった、と。
「行ってみたいっていう気持ちはあったんだけどね、どうにも入りづらいと言うか」
「直視しづらい?」
「当たり」
ふたり顔を見合わせてくすりと微笑んだ。まぶしすぎる店内の電球も、鼻を刺激するこじゃれたアロマオイルの香りも、鼓膜を揺らすBGMも、全てが杏里を落ち着かなくさせる。犯されているようだ、と思う。視覚、嗅覚、聴覚が店に犯され、飲み込まれている。だからきっと、こんなにも落ちつかなくて不安になるのだ。
広い店内のあちこちに各自スペースを確保して店を出している。壁代わりのガラスはあっても出入り口の扉はないそのスペースには、女性の靴下を専門に売る店、割引の札を張り付けた鞄を売る店、化粧品から小さな電化製品までとりあえず雑貨を売る店など、統一性がないがそれゆえに老若男女入り乱れて活気にあふれている。放課後という時間帯と相まってか、杏里たちと同じ制服を着た男女の姿もそこにはあった。
「岩塩だっけ? 園原さんが買いに来たの」
「はい。セルティさんに、あげようと思うんです」
このフロアの一角にある、主に輸入の食品を取り扱っているストアで販売している岩塩が目的なのだと、帝人には話してある。張間美香からもらった岩塩が美味しかったのでセルティにもおすそ分けしたいのだが、あげられるほど残っていないので買いに行きたい。一応それは嘘ではないが、所詮彼をここに連れてくる建前というやつで、本当の目的は別にある。
張間美香から教えてもらったストアはすぐに見つかった。棚には見慣れない食品がずらりと並んでいて、それだけで圧倒される。英語表記のシリアルやジャムの棚をすり抜けて、帝人がこれじゃない? と杏里に差し出したのは、張間美香からもらったのと同じ薄いピンク色の岩塩。
「あ、これです」
「ピンク色なんだ。へえ、これ、食べれるの?」
「はい。そのまま食塩としても使えるんですけど、中には入浴剤みたいなのもあるんですよ。セルティさんは食事ができないので、両方買ってみようと」
「え、両方買うの?」
「はい。食塩のほうは新羅さんに使ってもらえればと」
手ごろな値段と大きさの袋をふたつ、掴みあげてレジへと向かう。会計を済ませて店から出れば、先に行っているね、と言葉を残して消えた帝人は近くの店の棚を眺めていた。お待たせしました、と喉から出そうになった音を呑みこむ。彼が手にしている、まるで一冊の古めかしい書籍のような形をした、小さなメモ帳。かつてそれを見たことがある。ここではない場所で、ここにはいない人を加えて。
『お、なに帝人。それ欲しいのか? つーかメモ帳って。お前ん家、メモ帳以外に必要なもんたくさんあるだろー?』
思わず一歩後ずさった杏里の肩に、店のショーウィンドウが触れる。店内の光を反射するそこに、一瞬だけ、ここにはいないはずの金色の髪の少年が映る。否、そんなものは幻だ。
『しょーがねえな。来年の帝人の誕生日に、俺サマがプレゼントしてやるよ』
おおげさな身ぶり手ぶりを交えてそう言った少年は、もう、彼の隣にはいない。いつも太陽みたいに笑っていた少年は、もう、彼の隣にはいない。辛辣な言葉を浴びせられながらも屈託なく笑い飛ばしていた少年は、もう、彼の隣にはいない。いつだって大切な幼馴染をかばうように歩いていた少年は、もう、彼の隣にはいない。
―――――――ただ、消えない過去だけが、残酷なまでに美しい。
「そんなこと、わかっていますよ」
誰に言うでもなく呟くと、きっ、と杏里は正面を睨みつける。確固たる足取りで帝人の隣へ行き、その手にメモ帳を取り上げるように奪って――――呆ける帝人を無視して、レジへと並んだ。
「プレゼント用に包装してください」
会計時にそう言えば、店員は慣れた手つきで華やかな緑色の包装紙で包み紙でできた花をつけてくれた。袋はいらないと断って、杏里はそれを、まだ呆けたままの帝人の前に突き出した。
「お誕生日、おめでとうございます」
それは傍から見たら決して祝っているようには見えないだろうという自覚はあった。叩きつけるように発した言葉も、祝辞というよりはまるで手合わせを願い出るかのようだ。用意していた手作りクッキーの袋と共に、むりやりプレゼントを帝人の鞄の中に押し込んだ。彼の誕生日まではあと五日あるが、それでも今日渡すと決めていた。
「えっと・・・・園原さん?」
「本当はさりげなく、ここで竜ヶ峰くんの欲しいものを尋ねるつもりでした」
でも、私、だめですね、と杏里は唇を噛む。ふいに彼ならば、こんな小細工をしなくてもいいのだと思った。長年帝人の隣にいた彼ならば、帝人が欲しいものなどすぐに思いつくに違いない。帝人が最も喜ぶものを、最も喜ぶタイミングで、渡せるに違いない。
(でも私は、こんなことしか、できない)
杏里には帝人の欲しいものなどわからない。帝人を喜ばせる術など知らない。帝人にあんな顔をさせなくてすむ方法など考えつかない。杏里は―――――――彼には、なれない。
「帰りましょう、竜ヶ峰くん。もう、帰りましょう」
美しい過去は遠く、自分たちが帰るべきなのは醜い現在なのだ。過去は懐かしむものであって、陶酔するものではない。振り返るものであって、向かい合うものではない。血がにじむほど唇を噛みしめたって、過去には帰れないのだ。
呆けるように杏里を見ていた帝人が、ふっ、と表情を崩した。まるで杏里を労わるかのように微笑んで、彼はありがとうと囁いた。
「そうだね。帰ろうか、園原さん」
ぼくたちの場所へ。歩きだした帝人はその先を口にはしなかったけれど、杏里にはそう聞こえた。ふと背を向けたショーウィンドウに何かが煌めいた気がして振り向いたが、そこにはただスプットライトの光が反射するだけで、もうなにも映ってはいなかった。
さよなら、呼び慣れた名前すらも遠くきみは、大切な思い出
写真はプリザーブドフラワー屋が作ったフリー写真素材集様よりお借りしました