幼い子供が泣いている。両手で溢れる涙を拭い、しかし次から次へと溢れ出てくるのであまり意味のない行動をひたすら続けながら泣いている。着ている服はぼろぼろで、よく見れば濃い紫の髪も乱れ白い肌にはあちこち痣や傷が出来ている。
『愛して。ぼくを愛して』
幼子特有の高い声でひたすら愛して、と泣いている。ただそれだけを繰り返しているその行為のどこかに、子供らしかぬ必死さがあった。
『愛して』
俯いていた子供が顔を上げる。涙で潤んだ瞳は鮮血を連想させる真紅。
『ぼくを愛して』
こちらに両手を伸ばす、その手のひらにはひとつの黄色いキャンディ。
『愛して』
一滴、真紅の瞳から透明な涙が零れた。
重い。身体が鉛になったかのように、ひどく重い。風邪でもひいたのだろうかと思うが、それにしては寒気はないしだるくもない。ゆるゆると瞼を開けた刹那の視界一杯に、一緒に住んでいる従兄妹の顔が映った。
「・・・・・・・・・・・・なにをしてるんだ、ネーナ」
「刹那の寝顔を観察してたの。うんうんうなされてておもしろかった! おはよー」
「・・・おはよう」
自分と同じくらいの背丈の人間が腹部に馬乗りに乗っかっていたらそれは重いはずだ。どうりでうなされるはずだ、と考えて、そういえば何か夢をみていたはずだと気付いた。鮮血、涙、安っぽい包装紙にくるまれたキャンディ、愛。
「・・・・・レモンキャンディ」
無意識のうちに唇から零れ出た単語を耳ざとく聞きつけたネーナが眉をしかめた。
「朝ごはんよりも先にお菓子? 刹那って本当にあのキャンディ好きよね。男の子の部屋にお菓子が常備してあるなんて」
軽やかに刹那の上から床へと着地したネーナが、刹那の机の上に置いてある缶を開ける。中にぎっしり詰まっているレモンキャンディをひとつ取ると、黄色の安っぽい包装紙を開けて口に入れた。
「ん、甘いしすっぱい! こんなの食べてないで早く下においで。ヨハ兄が朝ごはん作って待ってるよ」
乱暴にドアを開けてネーナは嵐のように去っていった。いまだベッドから降りてもいなかった刹那は欠伸をかみ殺すと着替えるためにボタンに指をかけた。この家の決まりごとのひとつに、朝食を食べる時は着替えてから、とあるためだ。
両親が交通事故で亡くなってもう片手では数え切れないほどの年月が過ぎた。そしてそれはイコール刹那が従兄妹である三兄妹と暮らしてきた年月である。上の従兄たちは末妹と刹那に甘いから、刹那は何ひとつ不自由することなく愛されて育った。
「じゃあまた放課後ねー」
「ああ、また」
一緒に家を出る刹那とネーナだが、ネーナは隣の市の女子高校、刹那は市内の一般高校へ通っているから、いつも駅で別れる。ばいばい、と大きく手を振るネーナは途中で何か思い出したかのように声を上げた。
「今夜はヨハ兄もミハ兄もいないし明日から連休だから、私友達の家に泊まってくるの。ってことで刹那夕飯は自分で何とかしてね」
「わかった。ネーナはいつ帰ってくるんだ?」
「んーと、とりあえず連休が終わる頃には」
要するに全く考えていないらしい。定期テストも終わったばかりで開放感に溢れている今のネーナに何を言っても無駄なのだと重々承知しているから、刹那は小言代わりにため息をひとつ洩らして駅を後にした。
刹那を追い抜いていく社会人や学生、皆年齢も性別もバラバラだったけれどたったひとつ共通点があった。邪魔そうにしながらも決して手放すことなく傘を持って歩いている。
首をかしげて昇口に入った刹那は、傘立てを目にしてうめき声を上げた。色とりどりの傘で傘立てがお花畑のようになっている。
「おはよう、刹那」
びくりと身体が震えたのはきっと唐突に声をかけられたせいだと、誰に言うでもないのに刹那の心にはそんな言い訳が浮かび上がった。
「・・・・おはよう、アレルヤ」
刹那より遥かに身長の高い学友は、頬を緩ませてへにゃりと笑った。自分はこの抜けた笑顔に弱いのだと彼は知っているのだろうかと考えて、言うつもりもないので考えることをやめた。そのかわりアレルヤの左手に握られているオレンジ色の蝙蝠傘を指差しながら尋ねる。
「今日って雨降るのか?」
「降るみたいだよ。天気予報でも言ってたし。刹那傘持ってないみたいだけど、大丈夫?」
「置き傘がある・・・・・・・・・・・・・たぶん」
そういえばうっかり朝天気予報も新聞の天気欄も見ていなかった。いつからかロッカーに入れっぱなしにしてあるはずの折りたたみ傘の存在を願いながら、刹那とアレルヤは自分の教室へ入った。
まだショートルームの時間までには余裕がある。そのせいか教室に人影はまばらで、希少なその生徒も提出課題を仕上げるのに忙しいらしいのでよけいに静かに感じられた。
「刹那・F・セイエイ」
静かな教室に無機質な声が響く。振り向くとこのクラスの学級委員である男子生徒がなにやらプリント片手に立っている。会話したことはないが同じクラスだ、確か名前は。
「ティエリア・アーデ・・・・」
「今日放課後残ってもらいたい。君は文化委員だろう? 来月の合唱コンクールについて話がある」
そう言って渡されたプリントには『合唱コンクールについて』と大きくプリントされてある。曲の選択やら伴奏者、指揮者の選出など記入されている仕事はめいっぱいありそうだ。
「帰りが何時ぐらいになるかわからないが、大丈夫か?」
「問題ない。プリント、ありがとう」
どうせどれだけ遅くなろうとも家には誰もいないのだ。咎められる心配もないし夕食に遅れる恐れもない。刹那は礼を述べると自分の席についてもらったプリントを眺め始めた。
(音楽の先生にいくつか曲をリストアップしてもらって・・・・あ、ポスターも自分たちで描くのか。確か美術部員がいたはずだが、任せても大丈夫か・・・・? なんならクラス内の絵が得意な生徒を何人かに頼んで、それでダメなら俺が描くしかないんだろうな)
忙しくなりそうだな、と唇からこぼれた吐息がひとつ、地面に落ちた。
「・・・・・・・・降ってる」
真っ暗な空から降りそそぐ豪雨は止む気配を全く見せない。何のイジメか風まで吹いて、外は非常に寒そうだ。
「・・・・・・・・ない」
頼みの綱である折りたたみ傘はロッカーになかった。どこへやったのかと記憶を漁って、そういえば隣のクラスのディランディに貸したのだと思い出した。取り立てに行こうにも午後七時を過ぎたこの時間に校舎内に残っている生徒なんているはずがない。
ざあざあと大粒の雨粒が容赦なく地面に降りそそいでいる。どうせこのまま待っていても止みそうにないのだから、と刹那は強行突破することにした。鞄の中から教科書など濡れ手は困るものだけ抜き取り、財布とケータイはビニール袋に厳重にくるんだ。鞄を傘代わりに使えばそれほど濡れないだろうと、刹那は意を決して一歩踏み出した。
「っ!」
全身に容赦なく大自然のシャワーが降りそそぐ。風が吹くたびに体温が奪われて手先が痛いくらいに冷える。下手したら凍死するかもしれないくらい寒い。何度か屋根のある場所で休憩して、少しずつ家との距離を縮めていった。
(あと、もう、半分・・・!)
何度目になるかわからない雨宿り先は公園だった。子供の頃は刹那もな繰り返し遊んだ、しかしずいぶんと成長してしまった今の刹那が使うにはちょっと羞恥を覚える可愛らしい滑り台の鉄骨の下で休みながら、再び突撃するタイミングを図っていた、その時。
道路の反対側に見えるのは、今朝見たオレンジ色の蝙蝠傘をさしながら歩いている友人。
「・・・・・あ」
その隣で、仲むつまじく笑い合っている銀髪の少女。
ひとつの傘で身を寄せ合いながら、けれどとても楽しそうに幸せそうに、一組の男女は歩いていった。
(・・・・・・見たくなかった、な)
アレルヤに恋人がいることも自分の恋が一方通行なことも知っていたけれど、それでもいざ目にしてしまうとそのショックは想像していたよりもずっとずっと大きかった。錆びついて切れ味の悪くなったナイフで何回も切りつけられているような、そんな痛みがどんどん大きくなっていく。
気付いたら刹那の足は駆け出していた。もうどこを走っているのかはわからなかったけれど、とにかくあの場所から離れたくて一心不乱に足を動かした。先ほどよりも冷たくなったように感じる雨が全身を叩いたけど、それでも刹那は足を止めなかった。
止まったらその瞬間に、刹那の中の何かが決壊してしまうような気がしたから。
ずっとずっと封じ込めていた感情だとか、友達のままであり続けた決意とか、流すことすら許されなかった涙だとか。激情に身をゆだねてそれらを全て吐露してしまうようなことは刹那には出来ない。
苦しくて。
息が出来ないくらい苦しくて。
いっそこの心臓を抉り出して息の根を止めて欲しいくらい悲しくて。
だけど、好きで。
どれだけ苦しんでも悲しんでも、全部隠し続けようと思えるくらい彼が好きで。
あんな場面を見て、自分には絶対に手の届かない存在なのだと痛感しても。
それでもまだ、彼が好きで。
「刹那!」
唐突に腕を掴まれる。触れられた場所は酷く熱くて、けれどそれは相手が熱いのではなくて自分の体温が下がりきっているのだと頭のどこかでぼんやりと思った。
「ティエリア・アーデ・・・・」
「何をしている、刹那」
メガネの奥で真紅の瞳が射抜くようにこちらを見つめている。何をしているのだっけ、と自問して、けれど答えが出なかったので何も答えなかった。
「・・・・こっちだ」
強い力でむりやり歩かされる。ここはどこだとかどこにむかっているんだとか色々質問したかったけれど、頭に霞がかかってしまったかのように上手く思考回路が働かない。それになにより走りまくって疲れていたので、刹那はまるで幼子のように手を引かれるままティエリアの後ろを歩いた。
たどりついたのは見たこともないおんぼろアパートの一室で、連れ込まれるなり刹那はタオルを山のように持たされて風呂場と思わしき部屋へ突っ込まれた。
「身体を充分温めるまでは出てくるな。湯をためて、肩までじっくり浸かれ」
気付けば刹那は全身びしょ濡れで、髪からはぽたぽたと雫が滴り落ちているような状態だ。とりあえずここはお言葉に甘えることにして、刹那はもはや服としてあまり役目を果たしていない制服を脱ぐと、浴槽に湯をためながら熱いシャワーを浴びた。
ティエリアに言われたとおりに肩までお湯に浸かる。冷め切った身体には熱すぎたお湯も、じっくりと浸かっているうちにだんだんちょうど良く感じられるようになってきた。身体が温まってきた証拠だ。
(迷惑かけてしまったな・・・・・)
頭からお湯をかければ、鈍っていた脳も徐々に思考能力を取り戻しつつある。あのままではきっと風邪をひいていただろう。ティエリアに感謝しなくてはいけない。
もう大丈夫だ。ここを出てティエリアに礼を言ってから家に帰って寝て、また明日何事もなかったかのように登校できる。この激情を殺すことなんて簡単だ。刹那はいつもそうやって毎日を過ごしてきたのだ。
(これは失恋なんかじゃ、ない)
叶わない恋だと知って、いつか今日のような日が来る事を覚悟で想い続けでて、勝手に刹那が傷ついているだけ。
だから涙など流さない。頬を伝うのは無意味なお湯だけだ、と刹那は浴槽に頭から沈んだ。
他人の家の風呂を長々と占拠しているわけにはいかないから、刹那は身体が温まったのを確認すると浴室から出た。積んであるタオルの山のすぐ脇に、コンビニの袋に入った下着とティエリアのものと思われる着替えが一式置いてある。
袖を通した服は刹那の身体には少し大きくて、シャツもズボンも裾を折りたたむという屈辱の格好で刹那は部屋を出た。
「温まったか?」
ティエリアはイスに腰掛けてコーヒーを飲んでいた。1LDKの狭い部屋だが、それなりに片付けられている。一人暮らしなのだろうか、ときょろきょろとあたりを見回している刹那の手に水色のカップが手渡れた。仲にはたっぷりとコーヒーが注がれている。
「イスはないからそれのへんに座ってくれ」
促されるままその場に座り込み、コーヒーを一口すすった。苦味を覚悟したそれには砂糖がたっぷり加えられていたようで、刹那は少々拍子抜けしながらも温かいコーヒーを味わった。
「刹那」
顔を上げれば何か小さな物が飛んできた。思わず受け取ったそれは黄色い包装紙が目立つレモンキャンディ。なぜ、と首を傾げると投げて寄越した張本人が「嫌いだったか?」と不思議そうな顔をした。特に断わる理由もなかったので安っぽい包装紙を開けて現れた黄色い一粒を口に入れた。
からころ、と口の中で転がす。キャンディの甘酸っぱさとコーヒーの苦味が重なって、口内に何ともいえない奇妙な味が広がる。それはなんだか上手くいかない現実のようで、刹那は自嘲気味に小さく笑った。
「これだけの豪雨に傘も差さないなど、万死に値する」
「傘を忘れただけだ。迎えに来てくれる人はいないから、むちゃでも歩いて帰るしかないだろう?」
ティエリアの視線の先は、窓の外の暗闇。音から察するにまだ盛大に降っているのだろう。気まずい沈黙に戸惑った刹那は差し障りのない話題をふった。
「ティエリア、一人暮らしみたいだが家族はどうしているんだ?」
「父親は知らない。母親は刑務所で服役中。いつ帰ってくるかはわからない」
「・・・・・・・・・」
差し障りのないどころか地雷を踏んでしまったようだ。下手に何か言ったらまた地雷を踏みそうで、刹那は無意味に口を開いたり閉じたりするしかなかった。一気に顔色を悪くした刹那を眺めていたティエリアが楽しそうに唇の端をつり上げた。
「今は親戚が後見人を勤めていてくれているから、さして問題もなく生きている。両親に関してはなんに感慨も抱いていないから君が気にする必要はない」
気にするな、と言われてもはいそうですかと簡単にいくわけがない。何か話題を探すも、先ほどの二の舞になりそうで刹那は黙ってコーヒーをすすった。
たっぷりあったコーヒーも空になって、家に帰るべく傘を貸してくれないか、と言いかけた刹那を遮るように、ティエリアが言う。
「なにかあったのか?」
その一言に一瞬だけ表情を凍らせた刹那は、けれど次の瞬間には何気ないそぶりで「なんのことだ?」と返した。ティエリアは意味ありげに刹那を見下ろす。
「フラれたような顔をしている」
「っ!」
「自分では上手く感情を抑えているつもりでも聡い者にはすぐにわかる程度にしか隠せていないということに気付いた方がいい」
ほっといてくれ、と言いかけて刹那は瞳を見開いた。
頬に触れる白い指はティエリアのもの。いつのまにか、ティエリアの端整なかんばせがすぐそこにあった。にぃ、とティエリアが笑う。唇から覗いた赤い舌先が鮮烈に刹那の瞳に映った。
「なに、を・・・・んっ!」
唇に感じる熱が誰のものなのかなど考えたくもない。刹那が硬直したその隙を狙って、ぬめる舌が口内で暴れまわった。どちらともつかない唾液が唇の端から流れ、ぽたりと刹那の手の甲へと落ちた。
気付けば床に押し倒され、上に覆いかぶさるようにしてティエリアに唇を貪られている。漏れ聞こえてくる水音が淫らに感じられて、刹那は頬に熱が溜まるのを抑え切れなかった。
「っ!」
まるで電流に触れたかのようにティエリアが刹那の上から退いた。口の中一杯に広がる鉄錆の味に刹那は顔をしかめた。舌を噛み切ってやったのだ、かなりの痛みがあるのだろうがティエリアは表情を変えずこちらを見つめている。
「俺は好きでもない奴に触られたくない!」
湧き上がる怒りに声が震える。誰にも触れさせたことのない領域を勝手に踏み荒らされた怒りと羞恥に思わず拳を振り上げそうになったが、なけなしの理性を総動員して何とか押し留まる。
「だったら」
ティエリアの声は静かで、やけに耳に残る音だった。
「ぼくを好きになればいい」
再びティエリアの指が刹那の頬へと触れる。こちらを見つめる真紅の瞳があまりにも鋭く、そして真剣な光を携えているので、刹那はその手を振り払うことができなかった。
「僕を好きになればいいんだ」
その声が、記憶の奥底の欠片と重なる。
『僕を愛して』
刹那の脳裏に遠い日の光景がフラッシュバックした。何度も通った公園。懇願する子供。渡したレモンキャンディ。愛して、という泣き声。
名前も知らない子供の、涙で潤んだ瞳は何色だった?
「・・・・・公園で泣いていたのは、お前だったのか」
それは疑問ではなく確信だった。呆然と囁いた言葉にティエリアが満足そうに目を細めた、それが答えだ。
「僕は幼児期、母親から虐待されていたんだ。顔が、自分を捨てた父親に似ているから、気に入らなかったらしい。家にいると殴られるから僕はよく近所の公園で時間を潰していた。服も満足に与えられなかった僕に声をかけてくれる物好きなんていなかったから、僕はずっとひとりだった」
そこまで語って、ティエリアは「いや、物好きがひとりだけいたな」と嬉しそうに笑った。
「空腹で泣いていた僕にキャンディをくれた物好きが、ひとり」
そうだ、と刹那は鮮明に思い出した。いつものように遊びに公園で、泣きじゃくっていたひとりの子供。泣き止ませようと思ってあげたのが、お気に入りでいつもポケットに入れていたレモンキャンディ。
あれから公園に行くたびに刹那はその子供にキャンディをあげた。ふたりで黙ってからころ口の中で転がして、一緒に遊ぶでもなくじっとしていた。
「・・・・・いきなりこなくなったから、どこかに引っ越したのかと思ってた」
「君にもらっていたキャンディを非常食として隠していたのが母親にばれて、盗みの疑惑をかけられたんだ。それで家に閉じ込められて折檻されていたんだが、とうとう近所の人たちと教育相談所の人間がやってきて僕は施設に送られ母親は裁判にかけられた。だから行きたくても行けなかったんだ」
幼い子供のことだ、当時は寂しかったが月日が立つにつれてどんどん記憶は曖昧なものへと変化していった。まさか、今頃になって出会うなんて。
「あのキャンディと君に僕がどれだけ救われたか、わからないだろうな」
刹那にはわからない。たまたま手持ちがそのキャンディしかなくて、泣きじゃくっている彼を見て見ぬふりができるほど非道な人間ではなかったから、ただそれだけのことなのだ。
「入学式で君を見つけたとき、夢なんじゃないかと思った」
ずっと君を想っていたから、とティエリアは言う。
「想い焦がれすぎて、幻覚でもみているんじゃないかと思ったが違うようだ。こうして君に触れられる」
ティエリアの指がゆっくり刹那の頬を撫でる。ひどく優しくて、刹那はなんだか泣きたくなった。
「刹那」
あの頃はお互い名前を知らなかったから、呼び合うことさえしなかった。昔と違う、成長した低い声でティエリアが刹那を呼ぶ。
「僕を愛して」
顔を首筋に埋め両腕で強く自分を抱きしめるティエリアの背中を、刹那は幼子をあやすように優しく撫でた。
例えば深い海底で見上げる哀しみに溺死させられる様な、狂おしい愛に捧ぐ
お題はロストブルーさんよりお借りしました。