東京都豊島区、池袋駅、東武東上線・中央改札前。そこから少し離れた柱に背中を預けて、今年から高校一年生になる平和島静雄は夕方の帰宅ラッシュがピークになる直前の人ごみを眺めていた。
「相変わらずすっげぇ人……」
高校入学を機に上京した静雄だが、地元では賑わう商店街の中に突入してもこのような人ごみなどお目にかかれない。こりゃ気を付けねぇとぶつかった奴に怪我させちまいそうだと、己の他人より少々――否、かなり――頑丈に出来ている身体を思って、胸中で一人ごちた。
静雄は別に地元が嫌いだとか都会で暮らしたいだとか思った事はない。むしろ人の多い所へ行けば、己の制御できない力に触れて怪我をさせてしまうかもしれない。そんな恐怖が静雄の中にはある。だがそれを押さえつけてでもこの街、池袋で暮らしたいという気持ちが強かったのだ。
その強い気持ちの理由というのは―――
「静雄君!!」
「! 帝人、さん……!」
「遅れてごめんね」
「いえ、全然。今来たばっかっすから」
「そう?」
なら良かった、と笑う青年。
金髪の静雄と違って染めた事など全くないような黒髪、短めの前髪から下に視線をずらせば大きな黒い瞳が優しい光を湛えている。静雄もそれなりに細身だが、青年の方は更に細く、加えて童顔。大学を卒業して働き始めているというのに、どこからどう見ても二十歳に届いていないだろう顔付きだった。
そして、彼こそが静雄の上京の理由。
元々は近所に住んでいた年の離れたお兄さんなのだが、今の静雄と同じように高校進学に合わせてこちらに移り住んでしまい、以後そのまま。帝人と親しかった静雄は彼と離れるのを大層嫌がったが、残念ながら当時の静雄はまだ小学校の低学年で、帝人を引き止める事も帝人について行く事もできなかった。
幸いだったのは長期休みの度に帝人が帰郷して、その間ずっと静雄の相手をしてくれた事や、時には静雄自身が池袋の帝人の住まいを訪れる機会があった事だろう。しかしそれで満足できるほど静雄の想いは弱くなく、ついにはこうして自分もこの街に住まう結果と相成った。
「じゃあ行こうか」
「っす」
外を目指す帝人の隣を半歩下がってついて行く。真横に並ばなかったのはこの雑踏の中で人を避けるためでもあったが、何よりこれからの事を考えて緩んだ己の表情を帝人に見られたくなかったからだ。
(今日からこの人と一緒に暮らすのか)
じわりと握った掌に汗が滲む。
この度の上京に際して、静雄は帝人が借りているマンションで共に住む事になったのだ。それは――いくら他人様より頑丈な身体を持っているとは言え――ようよう高校生になる息子を大都会の真ん中で一人暮らしさせるのを両親が若干渋ったため、そしてそんな静雄の両親の話を聞いて帝人本人の口から一緒に住まないかという誘いがあったためである。
もう十年以上慕って慕って慕い続け、仕舞いには恋情を抱くほどになった人と一緒に暮らせる。これでにやけないはずがない。帝人の顔を見た瞬間臨界点を突破した静雄は時間と共に着々と増していく頬の緩み加減を抑える事ができず、せめてもの対応策としてこの半歩下がった場所を選んだのだった。
この街に慣れきった帝人はすいすいと足を進め、地上へ向かうエスカレーターへ。上昇するステップに乗ると片側に寄り、急ぐ人々が反対側をすり抜けて行くのを尻目に、後ろをついて来ていた静雄の方に振り返った。
「あー、そうだ」
「? 帝人さん?」
「それだよ、それ。いつから『さん』になっちゃったのさ。この間までは『ミカ兄』だっただろ?」
「いやでも俺、今年から高校生で……」
流石に昔からの擬似兄弟関係は解消したい――もっと別の、弟ではない存在として見て欲しい――という想いまでは語れず、咄嗟に当たり障りの無い言い訳を口にする。すると帝人は「ふぅん?」と何かを考えるように片方の眉を上げて、しかしながらすぐ何も気にしていないかのようにパッと笑みを浮かべた。
「まぁそれもそうだね。……ああ、もう地上だ」
大分傾いた夕陽が帝人と静雄の顔を照らす。地下の蛍光灯とは違う眩しさに静雄は目を細めつつ、深く追求されない事に大きな安堵とほんの僅かな失望を覚えた。
(いやいやガッカリしてどうすんだよ。ここはホッとしとけって、俺)
この想いを帝人に伝えるつもりはない。少なくとも今のところは。だから深く追求されずに済んで喜ぶべきなのだ。
自分自身にそう言い聞かせ、静雄は久々に訪れた池袋の街並みを軽く見渡した。
「静雄君、こっちだよ」
「あ、はい」
声を掛けられ、街並みから帝人へと視線を移す。ちょうど逆光になっており、光の加減で静雄には口元の笑みしか判らない。それがなんとなく不思議な感じを与えた。
「……、」
「静雄君?」
「や、なんでもない、から。そういや家、引っ越したんでしたっけ」
「うん。君と住む事になったからさー、やっぱりもうちょっと広い方がいいなって。住所はそんなに変わってないけどね」
「はあ」
(そんなに軽くできるもんだっけか。引越しって)
そう言えばこの人がどんな仕事でどれだけ稼いでるのか知らないなぁ、と気付く。普通の会社員ならば、この時間帯に待ち合わせをするのは難しいだろう。しかもこうも簡単に引越し――ようは金が掛かる事――ができるとあっては、稼ぎもそれ相応に違いない。
(まあ、一緒に暮らしてれば判るか)
と思い、今この場で訊く事は諦める。それよりも何か他の話題で盛り上がれないだろうか――― 一緒に暮らす事に対する緊張を紛らわすためにも静雄がそう思っていると、
「あー! 帝人君だ!!」
まるで青空を思わせる爽やかな声が。
その声を聞いた途端、帝人がこれ見よがしに大きく溜息を吐いた。
「何も今日ここに来なくたって……」
呟き、声のした方に振り向く。静雄も倣ってそちらを向くと、縁石の上に立つ黒い影―――黒の上下に、更に黒いコートを羽織った青年が視界に入った。相手の視線がこちら(帝人)に向いている事からも、人違いではないだろう。彼が帝人に声をかけた人物だ。
そう判断すると同時に、静雄は己の勘が警戒音を発している事に気付いた。だが初対面の相手で、しかも実際は言葉すら交わしていない人間にいきなり警戒心を抱くのはどうかと理性が訴える。
「久しぶり。元気してた?」
静雄が考え事をしている間に黒衣の青年はこちらとの距離を縮め、帝人の正面、彼から1メートルも離れていない場所に辿り着いた。
「久しぶりって、一昨日会ったじゃないか」
上機嫌(若干テンションが高い)な青年とは対照的に、帝人は疲れたように返す。
「昨日会えなかったんだから俺的には“久しぶり”で合ってるよ。いやぁ昨日は仕事でこっちに来る暇なくってさあ。もうあの会社、潰してもいいんじゃないかと思うね。俺と帝人君の逢瀬を邪魔したんだから。ところで君の後ろにいる彼は……」
ひょい、と身体を逸らして青年の赤っぽい双眸が静雄を見た。
ただし静雄が何かを言う前に帝人がその細い身体で青年の視線を遮る。
「臨也」
どうやらそれが青年の名前らしい。
「変な事考えたら、ただじゃ済まないからね」
「それはどうかなあ? どうやらだいぶ帝人君に気に掛けてもらってる人間みたいだし? だったら俺は―――ああ、冗談だよ、冗談」
青年に向けられた帝人の表情が一体どんなものだったのか。位置的に静雄からは見る事が叶わず、首を傾げる。だが相手を狼狽させるには充分な威力を宿していたようだ。
臨也は両手を挙げて降参の意を示す。
「流石に『池袋のリュウガミネ』を敵に回すつもりはないから。その辺は俺も弁えてる」
「『新宿のオリハラ』が何を……。でもまぁここで退いてくれるなら、それに越した事はないよ。今日はまだ用事があるんだ。君に付き合ってる暇はない」
「辛辣だなぁ」
「そうさせてるのは臨也だからね」
「はいはいっと。じゃあ、俺はこの辺で。またね、帝人君」
「仕事でならいつでも会うよ。仕事でなら、ね」
「あははー」
帝人が強調した言葉には笑い声だけを返し、臨也は背を向けて人ごみの中へ混ざっていった。その背を見送る事すらせず、帝人が静雄を振り返る。
「ごめんね、いきなり変な人と出くわして」
「え、いや……あの人、一体……。つか大丈夫なんすか」
「? ああ、うん。一応、同業者……かな。あいつは変人だけど、嫌な事に付き合いも長くて対処の仕方は解ってるから。今日はもう大丈夫。早く家に帰って静雄君の荷物を解かなきゃ」
「はい」
納得できない部分は残るものの、帝人が大丈夫だと言うのだからそれに従うしかない。
歩みを再開した帝人の横に並んで――さっきの出来事の所為で今は頬が緩む気配もない――静雄も池袋の街を進む。ただし彼らの会話の内容の事もあり気はそぞろで、だからこそ口の中だけで呟かれた帝人の台詞には気付けなかった。
「傷一つでも付けたら絶対に後悔させてやる。……静雄は僕の大事な大事な人なんだから」
たとえ臨也が自分に向ける想いを利用してでも、と。
帝人の黒い瞳が夕陽の中で怪しく青の光を宿した。
BLUE BLACK in the RED
クォーター・クォーターの華糸タスク様より相互記念として頂きました。年齢逆転&幼馴染なんて凝った設定を強請ってしまってすみません。情報屋設定大好物です! 同棲とか、ほんと、もだもだする設定です。
華糸タスク様、ありがとうございました。