エコという名の経費削減のために質が悪いプリント用紙をカリカリとシャーペンが引っ掻いていく。出席番号と名前を記入したところで、頭上から蛙の鳴き声に似た悲鳴のような声が聞こえた。誰かはわかっていたので、帝人には顔を上げるなんて愚行を犯すつもりはなかった。


 「不法侵入でそろそろ訴えられるんじゃないかな」


 「隣のクラスに来ただけで裁判沙汰!?」


 「一生太陽が拝めない刑と人生が強制リセットされる刑、どっちがいい?」


 「終身刑と死刑の二択しかないの!?」


 「あーもう、うるさいなあ」


 顔を上げれば拗ねたように唇を尖らせている親友の姿がある。放課後で誰もいないことをいいことに正臣は帝人のひとつ前の席に勝手に腰をおろすと、背もたれに胸板をつけながらでろんとだべり始めた。暑い暑いと愚痴る正臣の声と窓の外の蝉の求愛の叫びだけが、がらんとした教室にこだまする。


 「まさか帝人、それ、受ける気なのか?」


 正臣が指差す、朝イチで配布されたプリントには大きく夏季補講のお知らせと印刷されている。毎年この学校では学年ごとに夏季補講なるものを開催していた。人気のある(というか数学、英語、現代文などの基本的な)教科は参加者が多くてまるで大学の講義のような有様だが、参加人数が少ない教科だとほとんどワンツーマンの授業に近い。当たり前のように受講の旨を伝えると、正臣は地球外生命体を見るような目つきになった。


 「アホかお前。アホなのか」


 「アホって自覚あったら余計受けなくちゃいけないよね」


 「帝人、お前は今人生で最も罪深いことをしている」


 ダンッ! と正臣の握りこぶしが机を震わせ、反動でボールペンが床に落ちた。


 「高校生活始めての夏休みだぞ!? 一番アツい夏が始まったんだぞ!?」


 始まる前に終わってしまえ、と声に出さずに帝人は囁く。熱くなっている正臣に踏まれないうちに、床に落ちているボールペンを回収した。


 「それを夏季補講なんかで潰そうだなんて・・・・・こんな夏に失礼な夏休みの過ごし方があるか!?」


 「正臣の主張のほうが失礼だよ」


 学生としてそれはどうなのかとつっこみたくなる自論をまくしたてる正臣に冷めた視線を送りながら、帝人はテキパキと参加の欄に丸をつけた。正臣も喋るだけ喋って満足したのか、興味ありげにプリントを覗き込む。


 「え、お前古文受けるの?」


 「だって一応文系だし」


 「じゃなくて。だってお前、古文の担当って」


 平和島だろ、と正臣が声を低く落とした。この学園で関わってはいけない(もしくは逆らってはいけない)教師のひとりである彼の担当教科を欄に書き込みながら、帝人は平然とそうだねと受け流した。


 「別にとって喰われるわけないし」


 「ばっか、お前、教卓を片手でブン投げるんだぞ!? そんなやつの授業受けるだなんて、暑さで頭のネジがすっ飛んだか?」


 「いちいち失礼だよね、正臣って」


 ホームルームナンバー、記入。出席番号、確認。参加、丸。受講教科、古文。受講料、無料。一通り記入し終わったプリントを確認すると、帝人は胸ポケットにボールペンを差し込んでから席を立った。視線で行き先を尋ねる正臣に鞄のお守りを頼み、帝人は一言。


 「ちょっと戦争してくるね」


 「・・・・・いってらっしゃーい」


 扉を閉める直前の、正臣のなんともいえない、疲れたような苦虫を噛み千切ったような顔だけがやけに鮮烈だった。

















 夏季補講の参加登録は担任ではなく受講する教科の担当へと提出することになっている。自分が受講する教科の担当が居場所にしているのは職員室ではないことを熟知している帝人は、まだ通い始めて半年しか経っていない校舎の地図を脳裏に浮かべた。目的地までの最短距離を確認してから一歩踏み出した帝人を遮るかのように、どこからともなく漆黒がするりと出現して、哂った。


 「やあ、いいとこで会えたね、帝人くん」


 夏場にも関わらずファーがついたコートを羽織るという、頭のネジがぶっ飛ぶどころか全て熔解してついでに脳みそもとろけてしまったんじゃないかと疑うような男を視界に確認した瞬間、予想していたとはいえ帝人のまだ幼さが残る顔にこれ以上はないくらい露骨に嫌悪が浮かんだ。


 「ちょうど君に会いに行こうとしていたとこなんだ。君のほうから会いに来てくれるなんて、やっぱり俺たちは運命の糸で小指が繋がっているんだね」


 「あははは。暑さで脳みそが沸騰してるんですね、折原先生。すぐさまその糸断ち切って差し上げますよ。もちろん、小指ごと」


 「知っているかい? 昔、遊女は恋い慕う男に愛の証として自分の小指を切り落として差し出したんだよ? 帝人くんが切ってくれた俺の小指も大切に保管してくれると嬉しいな」


 駄目だ、根本的に言葉が通じない。お互い理解できる言語で会話しているはずなのに、言っている台詞がまったく理解できない。帝人は早々に会話を終了させると、素早く彼の脇を通り過ぎた、その腕を。


 「ねえ、帝人くん」


 臨也が微笑みながら、掴む。


 「夏季補講、もう申し込んだ?」


 「折原先生は数学担当でしょう。ぼくは文系なので受ける必要はありません」


 「でも必要なくても受講は出来るだろう。帝人くんと会えない日があるなんて、俺は寂しくて死んでしまいそうだよ」


 「どうぞそのまま永眠してください。線香くらいはしてあげますよ」


 「いらないよ。妻として喪主を務めてくれればそれで充分さ」


 「ぼく男なんで無理です」


 掴まれた腕を無理矢理振り払う。にっこり笑う臨也に視線を固定したまま、帝人は胸ポケットからボールペンを取り出した。


 「折原先生、ぼくには行かないといけない場所があるのでこれで失礼させていただきます」


 「つれないなあ。お茶でも飲みながら夏季補講の申し込みをしてもらうと思ったのに。ほら、プリントだってあとは帝人くんが署名するだけだよ」


 「それ夏季補講のプリントじゃなくて婚姻届ですよね」


 嬉しそうに臨也がひらひらと見せびらかすように取り出した婚姻届にボールペンを投擲して見事穴をあける。しかしそんな帝人の行動を予想していたのか、臨也はポケットから先ほど帝人が穴をあけたのと全くかわらない、帝人の書名欄以外は全て埋められた婚姻届を取り出した。どうやらあれにサインするまでは解放する気はないようだ。


 「教師が生徒に婚姻を迫っていいんですか?」


 「さすがに式は君が卒業するまで待つよ。あ、でも安心して。同性でも大丈夫だよ。ちゃんとオランダ国籍を手配したから!」


 「首尾よすぎて涙が出そうですよ」


 「嬉し涙だね!」


 「死んでください」


 半分本気半分願望で言うと同時にボールペンを投げつける。臨也が動いた瞬間に猛ダッシュを開始。とにかく振り切ってさっさと夏期講習の申し込みを提出してしまえば、あとは正臣に連絡して鞄と共に迎えに来てもらえる。それまでの『振り切る』という仮定がとても困難なわけだけれど。


 軽やかに帝人のボールペンをかわした臨也の腕が伸びてくる。帝人は身をかがめて駆けると、廊下の端に放置されている、おそらく掃除で使ったままなのだろう汚水と雑巾が入ったバケツを盛大に蹴った。バシャァと水音と共に汚水が重力にしたがってあふれ出し、あたりに飛び散る。さすがの臨也を淀んだ汚水をかぶる趣味はないのか、顔を腕でかばいながら退いた。その隙を見逃す帝人ではない。


 ト、ト、ト。残り少ない帝人のボールペンが臨也の服と壁を仲良く縫合させた。しまった、と珍しく焦りを露にした臨也ににっこりと笑いかけて、帝人は最後のボールペンで臨也のズボンの裾と壁を縫い付ける。


 「それじゃ、さようなら。二学期まで会わないことを祈ってますよ、折原先生」


 言いたいことだけ述べると、帝人は駆け足でその場をあとにした。それほど長く足止めできるようなものではないので、いつ追いかけてくるかわからない。修行式を終えた今、さっさと用事を済ませてしまえばそれこそ二学期まで顔を合わせる機会はないはずだ。


 古びたプレートの『国語科資料室』という文字を確認すると、国語科の教師のために作られた小さな部屋の扉を帝人は控えめにノックした。電気がついているので中に人がいることも、古文担当の教師を恐れて他の国語科の教師がこの部屋を使わないことも確認済みだ。


 「平和島先生、いらっしゃいますか?」


 立て付けが悪い扉をなんとか開けて、その隙間から顔を覗かせて中を窺う。プリントの山や教材に埋もれた机の向こう側に、夕日に透ける金髪を確認して帝人は破顔した。


 「竜ヶ峰、か」


 「先生、今お時間よろしいですか?」


 「おう」


 入って来い、と促されておずおずと室内に入る。机が三つ並んだだけの狭い部屋は掃除が行き届いていないのか埃っぽく、どこか煙草の香りがした。左右の棚にはぎっしりと辞書やら資料集やらが詰まっていて、どれもこれも人ひとり殴り殺せそうなくらい分厚い。


 「どうかしたか?」


 「夏季補講の申し込みです」


 「・・・・・・・は?」


 まるで異国の言語を聞いたかのように、静雄がぽかんと大口を開けて呆ける。帝人が手渡したプリントを見ても信じられないようで、サングラス越しに彼の目が瞬くのが見えた。


 「そんなに意外ですか?」


 「や、だってお前、今回の期末テストも上々の成績だっただろ? 補講なんて受ける必要ねぇじゃねえか」


 「ぼくは進学希望ですし。いいじゃないですか、成績優秀者が受けちゃいけないなんて決まりはありませんよ」


 「でもな・・・・・」


 珍しく歯切れの悪い静雄に帝人はむぅ、と頬を膨らませる。


 「ぼくが受けたらなにか不都合でもあるんですか?」


 「や、それはねえけど」


 静雄はなにか迷うような躊躇うような素振りをみせたあと、言いにくそうにあのな、と口を開いた。


 「毎年俺の補講なんざ受けたいって言ってくる奴はいねえんだよ」


 「はあ」


 「で、今年はお前が受けるわけで・・・・・つまりだな」


 静雄は落ち着きなく己の髪の毛をかきむしった。


 「俺とお前、ワンツーマンの補講になっちまうわけだ」


 帝人はそれを聞いて、きょとんと目を瞬かせた。いったいそのことに何の問題があるというのだ。静雄はなにを躊躇っているのだ。


 むしろそれは、帝人にとって大いに喜ばしい。


 「ぼくと先生、ふたりっきりの授業ですね」


 喜びとほんの少しの羞恥に震えた声で楽しみです、と囁くと、静雄はあらぬ方向を見つめながら小さく「おう」と応えた。その頬が赤くなっていたのはたぶん、まどから差し込む夕日のせいではないと思っても許されるだろうかと考えながら、帝人はこれまでの人生で最もアツい夏が始まる予感に心を躍らさせた。