親戚中をたらい回しにされていた刹那がディランディ家に転がり込んだのは、刹那が6歳になるかならないかの、ひどく暑い夏の日だった。なんでも、ディランディの奥さんが刹那の父親の叔父の従妹の娘の夫の祖父の従兄の姪の・・・・・とにかく遠い遠い親戚とも言えるかどうか悩むような関係だったらしい。


 初めまして、と刹那は無表情で挨拶をした。虐待こそされなかったが似たような扱いを受け続けていた刹那からは、感情という感情が欠落していた。


 ようこそ、とディランディ夫妻は若干の戸惑いと暖かさで歓迎した。夫妻は幼い刹那が自分たちの子供の幼少期よりはるかに小さいことに驚きを隠せなかった。


 君は誰、とディランディ兄弟妹は興奮を隠そうともせずに尋ねた。突然やって来たアンノウンは、兄弟妹の退屈しきった日常をぶち壊すには充分すぎるほどの効力を持っていた。


 そうして、ディランディ一家に刹那がやってきてから。


 もう、10年の時が過ぎた。














 「せーつーなー、お前あれだけ夜遅くまでテレビ観るなって言っただろうが。遅刻しても知らねーぞ」


 「う・・・あと5分」


 「はいはい、あと5分な。でも5分も寝てたら遅刻確定だぞこれ」


 頭上から降ってくる呆れたような声に、刹那はようやくのそのそとベッドから這い出した。寝る前にはきちんと閉めてあったはずの水色のカーテンは左右に開かれ、大きな窓から降りそそぐ朝日が容赦なく刹那の寝ぼけた顔を照りつける。


 「ライル・・・今、何時?」


 「8時をちょっと過ぎたくらいかな。はい、そんなんより先に言うことは?」


 「おはよう」


 寝起き特有のかすれた声でそう告げれば、ライルはニカッと笑うと「よくできました。おはよーさん」と刹那の頭を撫でてぐしゃぐしゃにした。








 身支度をし終えた刹那が一階のリビングに下りていくと、すでにテーブルの上には朝食がずらりと並んでおり、ライルがコーヒーをすすりながらテレビのリモコンをいじくっていた。


 「ライル、ニュース見たいから番組変えてくれ」


 「あいよー。いつものとこでいいんだよな」


 刹那が席に着くのと同時にライルがテレビのチャンネルを変えた。お馴染みのキャスターが抑揚のない声で述べるニュースを聞きながら、刹那は用意されていたミルクを一口すする。


 「あ、思い出した。ニール、おはよう」


 「おはよう・・・・思い出したってなんだよ、刹那」


 キッチンで弁当を作っていたニールが苦笑した。薄緑色のエプロン姿はもうすっかり見慣れてしまったけれど、やっぱり似合わないなと刹那は心の中でこっそり思った。


 リビングに用意される食事が6人分から半分にへって、もうそろそろ2年が経つ。


 最初に家を出て行ったのは、末の妹のエイミーだった。自宅からでも通える大学を選んだ兄たちとは違い、彼女は都会の大学へと進学したため、寮生活を余儀なくされたのだ。


 次に家を出たのはディランディ夫妻だった。旦那が仕事で海外へと長期出張になり、それに妻も寄り添う形で、2人とも家を出て行った。


 『刹那がいちばんしっかりしてるから、少しの間あの子達の子守よろしくね』


 最後に聞いたのは、そんな言葉だった。今思えば、泣きそうな顔で別れの言葉を言っていた刹那に対しての、精一杯の慰めだったのだろう。実際、子守ってなんだよ! と兄弟の叫びに、刹那はくすり、と笑ったのだから。


 家族が半分になった寂しさも、今ではすっかり慣れた。月に何度か手紙のやり取りもある。疎遠になったわけではなかったから、悲しくはなかった。


 血の繋がりはないけれど。


 苗字は違う間柄だけど。


 家族だ、と唇だけ動かして唱えれば、それだけで幸せだった。


 それだけで、充分だったのに。














 その夜、刹那はリビングと玄関とを落ち着きなく往復していた。それを眺めているニールもまた、こころなしか表情は暗い。


 「刹那、もう11時だ。そろそろ寝ないと、明日の朝起きれないぞ」


 「ライルが帰ってくるまで起きてる」


 「・・・・あいつなら大丈夫だって。きっと、どこかで飲んでるかなんかして連絡するのを忘れてるだけだろ」


 でも、と刹那が反論しかけたとき、乱暴に玄関の扉が開く音がした。続いて聞こえてくるのは、待ち人の声。


 「ただいまーって、うわっ!?」


 靴を脱いだ瞬間飛びついてきた刹那を受け止めたまま、ライルはふんばってなんとか後ろに倒れる事を免れた。が、続いて出てきたニールのチョップを脳天に受け、たまらずその場に膝をついた。


 「なんなんだよ、刹那も兄さんも・・・」


 「「俺たちになにか言うことは?」」


 「へ?」


 「「言うことは?」」


 ずい、とライルに息をつく暇さえ与えず詰め寄る。ふたりの剣幕にその場に正座したライルは気まずそうにあたりに視線を泳がせると、消えてしまいそうなほど小さな声で「ごめんなさい・・・」と漏らした。


 「や、最初は断ったんだけど・・・・合コン、出てくれないかってしつこく誘われてさ。ほら、この顔だし。途中退場も連絡する暇ももらえなくて、気付いたらこんな時間になってました・・・」


 「なってました、じゃねーよ」


 ぼそぼそと言い訳を述べるライルの頭に再びチョップをくらわしたニールは、やれやれと息を吐くとシャワーを浴びに行ってしまった。口では辛辣な事を言っているが、彼もまた心配で何も手につかなかったのだ。


 「あー疲れたぁ。刹那ぁー運んでー」


 「重い・・・この酔っ払いが」


 ずでん、とのしかかってきたライルをずるずると引っ張ってソファーへと連れて行った。やることはやったので部屋に行って寝ようとした刹那の腕を、ライルの手が絡め取る。


 「っ! ライル!」


 抵抗する暇さえなく、刹那はあっけなくライルの腕の中に落ちた。酒臭い吐息がふってきて、思わず眉を寄せる。


 「離せ、酔っ払い。俺は眠いんだ」


 「いーじゃん、ちょっとくらい」


 24歳と16歳では力の差がありすぎる。刹那は抵抗など無駄だと悟り、大人しくライルの頬擦りやらハグやらを受け入れた。


 「俺さ、ほんとは合コンとか苦手なんだよな。恋人が欲しい奴らだけでやれっつーの!」


 「・・・・恋人、いらないのか?」


 意外だ、と刹那は漏らした。そういえば、昔からライルが家に恋人らしき女性を連れてきた事はない。顔だけは極上なのだから、言い寄ってくる女性も多いだろうに。


 「んー、いらないってわけじゃないさ。本命、いるし」


 それこそ、意外な言葉だった。思わず刹那が硬直してしまうほどに。胸の奥底から湧き上がってくる言いようのない感情に、刹那は戸惑いを隠せなかった。


 (そんなこと、今まで聞いたことなかった・・・)


 彼のことだったら全部知っているつもりだった。本物の、家族のように。そのことに自信があった刹那は、少なからず落胆していた。


 「・・・・俺、知らなかった。家族なのに」


 「家族だからってなんでも知ってるわけじゃないだろ。つか、教えないって。兄さんはともかく、エイミーが知ったら絶対根掘り葉掘り聞き出そうとするだろ?」


 「それは・・・・・確かに」


 目をキラキラさせてあれこれ質問する義姉の姿が容易に想像できて、刹那は少し笑った。女性は誰だって、そういう事柄に敏感なのだと昔言っていた。


 「じゃあ、なぜ俺には言った? 秘密にしておきたいんじゃないのか?」


 「んー?」


 なぜかくすくすと笑っているライルの腕の中で、刹那は一生懸命その理由を考えていた。信頼されているから、ならまだいいが。


 (家族には、言わない・・・・)


 なのに、自分には言った。


 (俺は、家族じゃ、ない・・・?)


 「ちょ、待て待て待て! 刹那、お前まさか変なこと考えてないよな」


 「変な、こと・・・?」


 「俺が刹那に言ったのは、刹那を家族としてみてないから〜とかなんとか」


 「違うのか・・・?」


 「当たり前だ。大はずれだって。まったく、泣きそうな顔してるからなにかと思ったけど、やっぱりなー」


 よしよし、と幼子をあやすようにライルは刹那を抱きしめ、頭を撫でる。先ほどの戯れとは違う、優しいハグに刹那は存分に甘えた。


 「刹那は特別だからいいの。刹那はそんなの聞いたって、エイミーみたいなことしないだろうし」


 だから、特別。その言葉の響きが少し嬉しくて、刹那はそうか、と呟くと唇の端を吊り上げてむぎゅ、とライルの頬を両手で挟んだ。


 「で、本命って誰だ?」


 「へ?」


 「俺は特別だから、教えてくれるよな?」


 「えーと、刹那くーん・・・」


 いたずらっぽく笑うと、ライルは素早く視線をそらした。そうなるともう彼が質問には答えてくれないことを知っている刹那は、しかたなく質問を変えた。


 「じゃあ、告白はしたのか?」


 「・・・・してない」


 「すればいいだろうに。お前、顔だけはいいんだからきっと成功する」


 さらりと褒めてるんだかけなしているんだか分からない台詞を呟くと、それまでそっぽを向いていたライルが急に真剣な顔をして刹那と向き合った。


 「成功、するかな」


 「するさ、きっと」


 成功すればいいと思った。ライルが離れてしまうのは寂しいし悲しいけれど、家族の幸せを願うのが、一番いいのだろうと思った。


 「じゃあ、しようかな」


 だから、彼が決意を込めてそう言った時も、刹那は胸の痛みをこらえて精一杯の笑顔を作った。


 きっと、彼が選んだ女性は綺麗だろう。義弟である自分にも優しくしてくれるだろうか。家族になってくれるだろうか。自分は、彼女とうまくやっていけるだろうか。


 そんなことをごたごたと考えていたためだろうか。刹那、と呼ばれたのに一瞬気付くのが遅れ、慌てて顔を上げれば。


 ライルの唇と自分のそれが、重なる瞬間だった。


 触れるだけの拙い、けれど明らかに今までの親愛の意味ではなく欲情の意味を含んだキスだった。


 ちぃう、と生々しい音をたてて唇が離れた。思わず逃げそうになる腰を捉えられ、ソファーへと押し倒された。


 「好きだよ、刹那」


 優しく耳朶に囁かれたその声は、まぎれもなく目の前の自分に欲情する雄の声で。


 すぐ目の前にある翠玉の瞳もまた、飢えた獣のようだった。


 (誰が、誰を、好き、だって・・・)


 自分たちは、家族で、義兄弟で、男同士で、それで、それで。


 (それで、なに・・・・)


 彼も自分にとってかけがえのない人で。大切な、本当に大切な人で。


 「刹那」


 呼ばれただけで、無意識に身体が揺れた。


 「嫌だったら、突き飛ばせよ」


 そう言うくせに、突き飛ばしたら彼は傷つくのだろう。そんな瞳をしていた。


 だからじゃ、ないけれど。


 決して、彼を傷付けないためではないけれど。


 吐息さえ感じられる距離にある唇を、避けようとは思わなかった。


 避けられるとも、思わなかった。


 「っにやってんだ馬鹿ライルっ!」


 どごっ、となんだか盛大に殺人的な音を響かせて。


 ニールの鉄拳が、ライルの後頭部へ落ちた。


 至近距離にあったライルの顔が突然消えた事に驚いて硬直している間に、ふわり、と身体が浮いた。ニールに抱き上げられたのだと気付いた時にはすでに床に下ろされていた。風呂上りなのだろう、ズボンをはいただけで上半裸の状態だというくせに着替えもせず、ニールは刹那の髪や服の乱れを直した。


 「刹那、大丈夫か? 何か変なことされなかったか?」


 「な、なにも・・・」


 強いて言えば告白されてキスもされたけれど、それをニールに言う気力も体力も今の刹那にはなかった。


 「お、俺寝る」


 「おい、刹那!」


 最初の2,3歩はよろよろと。その後は猛ダッシュで。脇目を振らず刹那は自分の部屋まで走った。


 明日の朝自分を起こしにくるだろう彼に、どんな顔を向けたらいいのか悩みながら。














 「お前、刹那に何したやがった!?」


 ソファーの上で後頭部に手をあてながら悶えていたライルの首根っこを引っつかむと、そのまま壁に押し付けた。ごちん、とさらにライルの頭が壁とぶつかり、痛そうな音が響いたが無視。


 「お前、堂々と刹那を襲いやがって・・・・ふざけてんのか!」


 「ふさけてこんなことやるわけないだろ」


 離せよ、と低い声で言われて、思わずニールは手を離した。まだ痛そうに顔をしかめながらも、ライルは鋭い瞳でニールを睨みつける。


 「なに? 好きな子に告白しちゃいけないわけ? それとも男同士だからっていう偏見?」


 「よく考えろ! 刹那は俺たちの家族だろ!」


 「血は繋がってない。それに、繋がってたとしても関係ない」


 激昂しかけたニールは、ライルの冷静な言葉に酷く苛立った。別に男同士だから、という偏見はない。だけど、刹那は駄目だ。彼は、駄目だ。


 彼だけは、絶対に駄目だ。


 「俺はずっと昔から刹那が好きだ。だから告白した。兄さんには、関係ないだろ」


 「それ、は・・」


 「兄さんに俺を止める理由はない。それにさ」


 自室に戻るのだろう、ライルは呆然と佇むニールの脇を通り過ぎながら。


 「兄さんにだけは、絶対に負けない」


 低く、鋭く、囁いた。


 扉が閉まる音を聞きながら、ニールは額に手を当てた。自分がのんきに入浴している間に、なんだかとんでもないことがおこってしまったようだ。


 (負けないって、俺は、別に)


 確かに刹那のことは大切だ。けれどもその感情が、ライルと同じものなのかと問われても、何もいう事が出来ない。


 だけど、あの時。ライルが刹那に覆いかぶさっているのを見たとき。


 堪えようのない怒りと言いようのない衝動が湧き上がったのも事実。


 「どうしろっていうんだよ、俺に・・・」


 ずるずるとその場に座り込む。ライルはあれで自分の感情を押さえ込むのは上手いから、明日の朝にはけろりとなって普通にしているだろう。けれどまだまだ不器用な刹那と変なところで要領が悪い自分は、いったいどうしたらいいというのだ。


 ひとりきりになったリビングに、ニールのため息が響いては消えた。