かつん、と靴底が音を立てるたびに、廊下を歩く誰かがびくりと肩を震わせる。すれ違う人影は皆、顔をもしくは視線を床に固定し、明らかに静雄の顔を視界に入れることを拒んでいる。今更それについて何か思うはずもなく、むしろこの光景こそが静雄の日常であった。


 誰もが静雄を恐れている。組織の中でも数少ない無敗を誇る人間を。ただ壊すことしか能のない人間を。普通の人間よりもいくらか人殺しが上手かったというだけの人間を。


 びー、と静雄の制服の胸ポケットが小さく震えた。慣れた手つきでそこから小型の通信機器を取り出すと、定番のもしもしの声もなく「なんだ」と問いかけた。これが静雄の尊敬する上官であったら静雄は躊躇いなくその場で土下座してみせただろうが、通信機から聞こえてきたのは上司を上司と思わない部下の女の声だった。


 『先輩、3分と27秒前に少佐が永眠されたことを報告します。即刻、遊戯室への移動を肯定します。時間は金よりも勝ります』


 「今向かってる。一応訊いておく。ヴァローナ、次はどんな奴がいい?」


 『その質問の意味を否定します。先輩、私が暴れるのを邪魔しない人間であるのなら、私はどんな極悪非道であろうとも肯定します』


 「ああ、俺もだ」


 唇の端を吊り上げて笑うと、静雄は通信端末の電源を切った。決して気が合うとはいえない部下だが、この点だけは静雄と意見が一致した。彼女もまた、静雄のように壊すことしか能がない人間だからかもしれない。


 (そうか、あいつは死んだか)


 先の戦闘で腹部に大穴を開けて戻ってきた部下の男を思う。隊の参謀役を担っていた男だ。素直に惜しいと思う。静雄やヴァローナと視線を合わせようとしないところはその辺りに転がっている人間と同じだが、彼は静雄やヴァローナの使い方を理解していた。おそらく、ここ数年では一番の掘り出し物だっただろう。


 身近な人間の死が悲しくないわけではないが、涙は出なかった。繰り返し経験していくうちに何かが確実に麻痺していき、ゆるやかに確実に枯渇していった。それは感情というものかもしれないし、涙腺と呼ばれるものかもしれない。誰かは心と称するのだろう。静雄にとってはもう、何を壊そうが何をなくそうが何を麻痺させよいが、どうでもよかった。この組織では欠けていく人間など月に両手の数を超える。いちいち心を動かしていたらキリがない。


 静雄の属する組織が何と言う名であるのか、静雄は知らない。どこかの国の軍というわけでもなく、ただ大小の差はあれど戦闘が毎日のように始まって、毎日のように終わっていく。そこに介入して小金を稼ぐ、そんな組織だ。静雄が知っているだけの組織なのか、それとも本当はもっと巨大で、静雄が属しているところはただの末端でしかないのか、それすら知らない。知らなくても生きていける。


 軍ではないと思う。大佐だの中尉だの階級はあるが、軍にはないだろう少々変わった制度があって、変わってはいるがこれが実に便利だと唸らざるをえない。その制度をスカウト、と皆は呼ぶ。


 有能な人材を自分の好きなように引っこ抜いて自分の隊に入れると言う制度だ。遊戯室と呼ばれている専用の部屋があり、狙撃主なら様々な的が、戦闘兵なら巨大な模擬戦用のステージが、諜報部員ならありとあらゆる機械とそのハッキングの手腕が、置かれたりあったり問われたりする場所だ。そこでの成績の良い人間ほど良い所属先が決まったり昇進できたりする。すでに所属先が決まっていようが本人が了承さえすれば転属も可能だから、皆が血眼で自分の腕を競い合っている。静雄のような有能な人材が欲しい側にも早く昇進したい下士官側にも、実に便利としか言いようのない制度である。


 静雄もそこで今の上官に引き抜かれたし、先ほど死んだ男もそこで静雄が引き抜いてきた。


 静雄の隊は戦場の最前線に配置されることが多く、必然的に隊員の減少が激しい。定期的に遊戯室には通っているし、参謀役が不在のまま戦闘に出るわけにもいかない。あの男が意識不明に陥った時点で静雄の足は遊戯室へと向いていた。


 (ちったあ使える奴がいりゃあいいが)


 参謀を志願する人間用の遊戯室は、他の遊戯室と比べてやや狭い印象を受ける。もとは広かったのだろう空間にごちゃごちゃとした機械が何十台も置かれ、正面には巨大なディスプレイが設置されているのだから、その印象も当然と言えた。スカウトされたい人間は階段を駆け下りてさっさと機械を操作して対戦を始め、スカウトしたい人間は入り口からぐるりと会場を囲む形で作られている廊下から見下ろして、人間を見定めする。そんな場所だ。


 ここで競われるのは体力や技術ではなく、人をどう使うかの能力だ。静雄はその手の類が苦手なので説明されてもよく理解できなかったが、要するに仮想空間で行われる模擬戦闘だ。隊員、場所、日時、天候、その仮想空間の要素全てがランダムに振り分けられる。もちろん自分が有利になることもあれば、その逆もある。自分に与えられた隊とその空間の要素全てを使って、いかに無駄なく勝つかを競い合う。


 静雄は正面の巨大なディスプレイに目をやった。隅の方に表示されている人名は、上のほうであれはあるほど成績優秀者だ。手元の端末機関でアクセスすれば、さらに詳しい成績を知ることができる。


 ぼけーとディスプレイを見ていた静雄の耳に、わっ、と歓声とどよめきが聞こえてきた。その場にいる全ての人間―――静雄のようなスカウトする側はもちろんスカウトされる側の人間まで―――が、一点に視線をやっていた。現在進行形で行われている仮想空間での戦闘を中継したディスプレイだ。


 思わずつられて視線をやった静雄は、その内容に思わず愕然とした。


 (なんだ、これ・・・・・もはや運とかいう問題じゃねえぞ)


 その仮想空間に指定されているのは、何年か前のとある地方の平野だ。時間は真夜中。天気は豪雨。夜で視界もきかないうえにぶ厚い雲で月明かりすら望めない、最悪のコンディションといってよかった。


 しかし、最悪なのはそれではない。圧倒的に、振り分けられた隊員の数が違った。赤の隊と青の隊の差、およそ三倍。どんな逆行も覆してみせるのが参謀の役目――――とはいえ、これはあまりにも酷い。


 静雄が呆気にとられているうちに戦闘は開始されていた。仮想空間の中では時間の流れが何倍にも早く設定されている。一瞬の迷いが命取りになるのだ。


 (あの戦力差だ、真正面からいったって潰されるに決まってる。雨・・・・となりゃ、川の堤防ぶっ壊して水責めが効くが、それは向こう側だって予測しているだろうし)


 案の定、赤の隊の何割かをさいて堤防の防衛に当たらせている。その目を掻い潜って堤防を破壊するのはかなり困難だろう。数の少ない青の隊は細かく隊を分けて、遠距離からの石投げで応戦しているが、じりじりと隊は後退を始めている。―――その隊がいくらか少ないような気がしたが、おそらくは小競り合いで数が減ったのだろう。静雄はそう思った。


 もう駄目だな。静雄だけではなく、その場にいた全員が同じことを思ったであろうその時に、それはやってきた。


 最初は地響きでしかなかった。雨の夜であったから、視界からの情報は全く入ってこなかった。突如現れた迫りくる壁にしか見えなかったそれは、何もかもをなぎ倒す濁流だった。堤防が決壊したのだと、誰の目にも明らかだった。


 なぜ、と静雄は慌てて端末を操作して、決壊する前の堤防付近の映像を見る。確かにそこには隊員が徘徊していて、爆発物を仕掛けられる余裕も集団で襲って堤防を破壊する様子も見られなかった。


 (これ、は・・・・・・)


 何度か映像を巻き戻したりスロー再生しているうちに、気づいた。堤防は壊されたわけではなかった。自然に壊れたのだ。そもそも今設定されている地方は年間通して雨の量が少なく、川の氾濫が起きたことなど一度もない。その為、堤防はもう何十年も補強されないまま放置されていたに等しく、いたるところにがたがきていた。そこに今回の大雨がやってきて―――――限界をむかえたのだ。壊れるべくして、壊れた。配置されていた隊員やその下方にいた隊を呑み込む、巨大な濁流を作り上げて。


 人数が多いゆえにそうしても動きが遅くなってしまう赤の隊とは違い、元々人数が少ないうえにそれをさらに少数に分けていた青の隊は素早く丘の上へと逃げて濁流を回避した。おそらくはそれを狙ってじりじりとゆるやかに後退していたのだろう。赤の隊は大部分が流された。堤防の決壊などあり得ないとたかをくくっていたから、そこが丘の下であることなど考えてもいなかったのだろう。残りの隊も背後と斜め前から現れた狙撃隊に十字砲火をくらって全滅した。そうしてあっけなくディスプレイは終了の文字を点滅させ、仮想空間は閉じられる。


 「っ、はははっ」


 知らずのうちに握りしめていた拳にはじっとりと汗がにじんでいる。すげえすげえ、と静雄はまるでその言葉しか知らない子供のように賞賛を繰り返した。もしこの勝者が未だ所属が決まっていないのだとしたら、否、例え所属が決まっていようが関係ない。その為の制度だ。


 「Mikado-Ryu・・・竜ヶ峰、帝人?」


 ディスプレイに表示されている名前に、変な名前だなと呟いた。竜ヶ峰、竜ヶ峰、竜ヶ峰、と呪文のように唱えながら、視線を下にさまよわせて目当ての人間を探す。今しがた対戦を終えたばかりなのだから、機械の近くにいるだろうとその辺りを重点的に探した。


 青いステッカーが貼られたポッドの中から人がでてくる。頭をすっぽりとおおう接続用のヘルメットの下は、静雄の予想していたそれとはだいぶ違う、まだ幼さを残した少年の顔だった。


 身体が細いのは参謀を志す人間の特徴だから今更驚きはしない。だがどう控えめに見ても十代後半になるかならないか程度にしか見えない少年が、先ほどの激戦を指揮した人間だとは思えなかった。


 周囲を興味なさげに見回していた少年の視線が、ふと、上を向いた。否、まるでそこに静雄がいることを最初から知っていたかのように、静雄の視線と少年の視線が、交差する。


 その瞳を見た瞬間、静雄の脳裏に浮かんだのはこの世で最も憎い男。


 (なんでっ・・・・)


 首を振って不愉快な残像を消す。あの男とその少年は全くの別人だ。参謀、という点では少し似ているが、顔つきも雰囲気もまったく似通った点はない。気の迷いだろうか、と静雄が我に帰った時はすでに、その場にも周囲にも竜ヶ峰帝人はいなかった。愉快とも不愉快ともつかない残像だけを残して、竜ヶ峰帝人は静雄の前から消えた。亡霊のように。





 











お題は歌舞伎さんよりお借りしました。 








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