拉致られた。
今のぼくを簡潔に表すならこの言葉以外適切な表現は世界中のどこを探したってないだろう。今、この、見たこともない聞いたことも入ったこともない、ベッドと照明器具だけの、窓にしっかりブラインドがかかって日光をシャットダウンしているせいで暗い部屋のベッドの上で、臨也さんに顔をのぞきこまれている状況を、拉致られた以外のなにで簡潔に表わせと言われたって無理だ。
油断、していたのかな。確かに東京は犯罪者がアパートの隣に普通に住んでいるような場所だとは聞いていたけれど、だからといって東京に住んでいる人の全てが常日頃犯罪に対して毛を逆立てる猫のごとく警戒しているというわけではない。油断していると言ったらぼく以外の全て人が当てはまる。確かに、終業式を終えてさあ夏休みだと浮かれていたかもしれないけど。
だからって知人がいきなり背後から忍び寄ってきてみぞおちにスタンガンをお見舞いしてくるとは誰だって予想できないんだから、ぼくに責められる理由はないと責任を臨也さんに押し付けてみる。だいたい、加害者と被害者じゃどちらに責任があるのかなんて、そんなの討論するまでもなく明白なんだし。
「おはよう?」
まるで教室でクラスメート同士が交わす挨拶のように臨也さんは言う。語尾に疑問符がついているから、臨也さん自身も正確な時刻は把握していないのか。ぼくが拉致られた時はすでに夕日がビルの隙間からさようならしていたと思うから、あれからどれだけの時間が経ったのかは知らないが、とりあえず臨也さんの挨拶は間違っていると思う。もしかしたらぼくがずっと眠っていたせいですでに朝になっているのかもしれないけれど。
臨也さんの挨拶を無視しつつ、自分の体に違和感を覚えたので確認する。右足首に存在するそれなりの長さの鎖は、まあ拉致監禁されたという事実を考えれば仕方のないものだけど、この下手したらワンピースを着ているんじゃないかと錯覚しそうになる服はどういうことだろう。普通のシャツなんだけど、なにより臨也さんとぼくとの体格が違いすぎるせいでとても恥ずかしいことになっている。ていうかこのシャツ、臨也さんのだと仮定しても少し大きすぎるような気がする。まさかとは思うが、わざとサイズが大きいのを着せたのだろうか。だとしたらとんだ変態だ。臨也さんが変態ってことは知ってたけど。
羞恥心が爆発しそうな格好を溜息ひとつでさらりと流して、ぼくは現状を把握する作業に戻る。出入り口はぼくの真正面方向にひとつ、いざとなったら窓という手段もあるけれどここが何回かわからないし、そもそも鎖という制限がある。トイレなどに不自由しない程度の長さまでは許してくれたんだろうけれど、逃亡までは許可してくれないだろうし。
「ぼく、臨也さんに拉致られたんですね」
別に臨也さんに確認してみたわけではない。まさか放課後ぼくにスタンガンを押し付けてきたのは臨也さんにそっくりな赤の他人で臨也さんはぼくを助けるためにここにいるんです、なんてポジティブすぎる妄想が現実なわけないし。十中八九、というか十中十、臨也さんが犯人なんだろう。
「ずいぶんと余裕だね」
軽口のような臨也さんの指摘をぼくは受け流す。まあ確かに、普通はこんなに落ち着いていないよなあ。泣くか、わめくか、叫ぶか、命乞いをするか、臨也さんを蔑むか。別にパニックになりすぎて逆に落ち着いているわけではない。
拉致監禁という事実が、ぼくの心を揺さぶるほどのモノではなかったというだけ。
摩擦で擦り切れたぼくの心は今更もう、こんなことでは揺らがない。助けが来るなんて思ってもいない。だって今日から夏休みなのだから、姿を見せなくなっても旅行に行っているのかな程度にしか思われないだろう。
きっともう、並大抵の出来事じゃぼくを動揺させられない。
心に穴があいてしまったから。そこに詰め込まれていくモノがどんなモノであろうと、その穴を埋めるためにぼくの心はそれらをひたすら受け入れるのだろう。容量を超えても、壊れるまでひたすら詰め込む。制限をかけるための脳みそが、ネジぶっ飛んじゃって使い物にならなくなっているのだから。
それにどうせ、臨也さんだし。
「俺が今ここで君を殺さない根拠なんてないのに」
「理由がないでしょう」
臨也さんはその綺麗な顔をゆがめた。気に入らないって顔をしている。どうでもいいけど、臨也さんって本当に中身と外面が面白いくらいに反比例してるよなあ。まあこれで性格も顔もパーフェクトなんて人間がいたら、全国の醜男の皆さんにナイフで刺されかねないので良かったのかもしれない・・・・・なんて思えない。神様がそこらへんを考慮してどこか一か所くらい欠点作っておこうか的なノリでこんな正確にしたのだとしたら、ぼくはその神様を殴りに行く。欠点ってレベルじゃない。ちょっと歯ぁ食いしばってください。
「あなたはぼくを殺す理由がないから」
そんな非生産的な行為、ネコの餌にでもしてしまえ。
「・・・・・でもそれで言ったら拉致る理由はあったってことになるね。それは違うよ」
「拉致る理由なんていくらでも作れるけど、殺す理由は作れませんよ。殺人はデメリットが多すぎます。臨也さんはそんなこと、しないでしょう。ていうかぼくだったら絶対しません」
「君と俺を同じものさしで測っちゃだめだと思うけど」
「同じですよ、臨也さん。反吐が出るくらいに」
本当に吐きそうだ。反吐というか、酸っぱい胃液とかがでろでろと。昼食を食べ終えてからは何も口にしていないから、純度100%の胃液であること間違いなしで胸を張れる。張ったってどうしようもないけど。
所詮この会話もこの拉致監禁も、同じ穴のムジナが互いのしっぽをかじりあってぐるぐるまわっているようなものだ。どうしようもないくらい、意味も意義も意念も意思も意欲も意力も意気も意図も意楽も意業も意見も意向も意執も意趣も意想も意地も、なんにもこれっぽっちもどこにもない。ただひたすら気持ち悪いだけの、とんだ喜劇。
本当に反吐がでそう。
「理由、ね。じゃあ今作った」
突然臨也がんが、それはもう憎たらしいくらい愉しそうに笑った。にぃぃぃ、と唇を釣り上げて、まるで童話に出てくるチェシャネコのように。
どうやらぼくの発言が臨也さんのなにかに火をつけてしまったみたいだ。あれ、もしかしてこれが絶体絶命とやらか。だとしたらぼくは墓穴を掘ったのだろう。別に助かろうとか考えていたわけじゃないけど。
「君を飼いならして調教して躾けて玩んで犯して弄って遊んで暴いて枯らして、ぐちゃぐちゃにするのはきっと、心地よさそうだ」
心の底から嬉しそうに嗤う臨也さんを見て確信した。この人、絶対お気に入りのおもちゃをよく壊すタイプだ。遊びすぎて構いすぎてぼろぼろに壊す。自覚がないから反省できない。だからずっと壊している。
この人はぼくを壊す気でいるのか。自覚はなくとも、壊す勢いで遊ぶのだろう。
「反吐が出ますね」
そんなことを考える臨也さんも、その臨也さんの考えがわかってしまうぼくも。
でもなにより反吐が出そうなくらい、気に入らないのは。
「ね、今から君は俺のモノだ」
ぼくを臨也さんの『モノ』と言った、それだけは撤回させてもらう。
唇が触れそうなくらいの至近距離にある臨也さんの顔を一瞥して、足首でもてあましている鎖を彼の足首に絡める。臨也さんが表情をこわばらせたけれど無視してそのまま押し倒した。鎖で片足封じられていれば、これほど体格に差があっても押し倒すくらいはできる。臨也さんが油断していたっていうのも勝因のひとつ。
「形勢逆転ですね」
臨也さんの腹部に馬乗りになって笑ってみる。形勢逆転と言ってみたものの、体勢が入れ替わっただけでこれっぽっちも優位にはなっていない。どうせ臨也さんが本気で抵抗したら、床に頬をつけているのはぼくになるのだろうし。
だから先手必勝、さっさと行動に移させてもらう。体を起そうとしている臨也さんの耳元へ唇を寄せる。それだけで臨也さんは動きを止めた。
「ぼくが臨也さんのモノじゃなくて、臨也さんがぼくの飼い主、なら妥協してあげたんですけどね」
他人のものになるんなんて、お断りします。
「ペットは鎖に縛られているべきですよね」
じゃらん、と長い鎖を彼の首を巻いた。一見しただけだとアクセサリーにも見える。首輪のほうが良かったのかな。ぼくがするにしても、臨也さんがするにしても。どちらがペットなのか、そんなの考えるまでもなく。
「ほら、ワンって吠えてみてくださいよ」
ペットは鎖に繋がれて何も喋るな