初めて彼女を見たとき、彼女は姉の隣で楽しそうに微笑んでいた。
その笑顔があまりにも綺麗で、ぼくは気付かれないように開かれていた扉を閉めて、その場を後にした。
僕が塾の春期講習から帰ると、玄関に余分な靴が一足あった。あぁ、きっと彼女が来ているのだろう。確か今日は姉も家にいるはずだから。
「ただいまー」
靴を脱いで家に上がる。まっすぐ自分の部屋には行かず、笑い声が聞こえてくるリビングへと向かった。喉が渇いたから、水が欲しかったんだ。だから。
「刹那、いらっしゃい」
「ああ、邪魔している。ソーマ、やっぱりここの問題がわからない。どうやったら答えが出るんだ?」
「ここは先にこちらを求めて、その答えをこの公式に当てはめればいいんだ。アレルヤ、キッチンに行くのだったらジュースを持ってきてくれ。あと戸棚に菓子がある」
「分かったー」
僕は姉の言いつけどおり、冷蔵庫からジュースを取り出すとお盆に載せたコップと一緒に持って行った。戸棚から出したクッキーも付け加えて。
「あー、やっと終わった」
「お疲れ。少し休憩にしよう」
大きく伸びをして後ろに倒れこんだ刹那に、僕はコップに注いだジュースを手渡した。姉に目線で了承を得て、僕もジュースをもらう。
「それ、高校の宿題? 難しそう」
「アレルヤもやってみればいい。脳が溶けるぐらい難しいぞ」
「刹那は数学が苦手だからな。私は簡単だと思うけど」
「ソーマだって物理の時は同じような事言っていたくせに」
「いいんだ、物理ができなくとも死にはしない」
我が姉ながらその言い訳は駄目だと思う。完全に勉強が出来ない人間の言い分だ。僕はため息をつくと、背負っていた鞄から冊子を取り出した。
「アレルヤのは、塾の宿題か?」
「いや、高校から出された宿題だ。懐かしいな、私たちもやっただろ」
「ああ、入学式までにやって来いというあれか」
刹那が懐かしそうに数学のテキストをめくる。先週、無事合格した高校から合格証明書と一緒に届いた物だ。最初見たときは、思わずうめき声がでた。やっと受験勉強から逃れられて、思う存分遊べると思ったのに。ちなみに姉はそんな僕を見て、人生そんなに甘くない、と鼻で笑っていた。性格が悪い。
「うわ、簡単だなこれ。俺のと交換しないか、アレルヤ?」
「こら、ずるいぞ刹那。だったら私だって物理を交換してもらいたい」
「いや、両方無理だからね」
無茶苦茶な事を言ってくる二人を無視して、僕はクッキーに手を伸ばした。
「アレルヤももう高校生か。少し前まで小学生だったのに」
懐かしそうに目を細める刹那。小学生って、時間をさかのぼりすぎだ。僕は彼女と二つしか違わないのに。
「いつのまにか身長も俺を抜かしたし・・・・・アレルヤ、お前これ以上大きくなったらもう遊んでやらないからな」
「無理だって。僕今成長期だし」
「好き嫌いばかりするから小さいままなんだ、刹那」
「うるさい、ソーマ」
ぽりぽりとクッキーをかじりながら、刹那は忌々しそうに僕を見た。僕だって、あまり身長が伸びなければいいな、と思う。その反面、もっと伸びて欲しいとも思う。
「アレルヤも高校生か・・・・・あいつらみたいに、なるのかな」
ぽつり、と刹那が漏らした呟き。僕と姉は聞こえていたそれを綺麗に無視した。パン、と姉が手を叩く。
「さぁ、勉強を再開させるぞ」
その笑顔は、どこか白々しかった。
空が茜色に染まる頃、僕はやっとテキストの半分を終え、刹那もなんとか数学の宿題を終わらせた。最後の応用問題のあたりは、ほとんど姉がやったと言ってもいいくらだったけど。
「疲れたー・・・」
「教えるこっちも疲れたぞ・・・・」
ぐでーとその場に横たわる二人。刹那の数学の出来なささは異常と言っていいくらいで、姉はほとんど怒鳴りながら刹那に公式やら解き方やらを教えていた。僕も心の中でお疲れ様、と呟いた。
「というか、数学だったら私ではなくティエリア・アーデに頼んだ方がよかったのではないか?」
「絶対に嫌だ」
僕が注いだジュースを一気飲みした刹那が、深いしわを眉の間に刻み込んできっぱりと言った。
「なぜだ? ティエリア・アーデだったらいいんじゃないか? 彼だって請われればきっと教えてくれる」
「それでも、男だろう」
吐き捨てるかのように、刹那は呟いた。
「男は、嫌いだ」
その言葉に、姉はやれやれとため息を吐いた。僕は刹那のコップにジュースのお変わりを注いだ。身体の震えが、ばれないように。
姉と刹那が会ったのは二年前、僕と刹那が出会ったのも二年前。僕と初めて会った時の、刹那のあの表情は忘れない。姉曰く、出会った時からすでに刹那の男嫌いは有名だったらしい。高校の自己紹介の時、男は俺に近づくな、と堂々と宣言したと聞いた時は開いた口がふさがらなかった。
この理由が『生理的に受け付けない』とかだったら、僕は彼女には近寄りもしなかっただろう。誰だって、たかが性別くらいで自分を全否定する人とは友好的な関係を築きたくない。
だけど、刹那は違った。
刹那が男をここまで徹底的に男性を嫌うのは、過去に刹那が受けたいじめが原因らしい。いじめといっても、社会問題になっているような陰湿な物ではなく、小学生がするような、無邪気さを含んだからかいだったらしい。それでもそのいじめを受け続けた刹那は、それを行ってきたのがほとんど男だったというのもあり、すっかり男嫌いになってしまった。
そのことを、刹那の口から聞いたことはない。彼女は話したがらないし、聞こうとすると誤魔化される。刹那と小、中、高と一緒だと言う女性から聞いたのだと、姉が言っていた。姉もそれを知ってから、その話題は避けるようにしている。それでもなんとか刹那の男嫌いを直そうと努力しているみたいだ。
それを僕が聞いた時、僕は複雑な気持ちになった。人の行為という物は、どんなにささいなものであっても、ここまで相手に影響を及ぼす物なのか、と。
しかし極度の男嫌いさえ除けば、刹那はいたって普通の女の子だった。そのことを、僕は出合って数日で知った。だって、僕はまだ刹那の隣にいる事を許されている。
刹那にコップを渡すと、僕は刹那の背中に寄りかかって漫画を読み始めた。刹那が「重い・・・」と呟いたけど、拒むような事はされない。
たぶん身内以外で刹那にここまで接する事ができる男性は、僕だけだろう。僕はそのことが素直に嬉しいし、その反面、刹那に接する事が出来ない男性たちが羨ましい。
刹那に拒まれている彼らは、刹那に『男性』と認識されているからだ。それが彼女に嫌われている理由であろうとも、僕はそれが羨ましい。刹那に嫌われたいわけではない。けれど、彼女を想っている僕としては、『男』として扱われないのはとても悲しい。
自分の友人の弟だから? 年下だから? たぶんそんな理由で、刹那は僕と『男』として認識しない。認識されていないから、僕は刹那と接する事ができる。
僕はそれがとても嬉しくて、同時にとても悲しい。
だから早く背が伸びて欲しいし、伸びて欲しくない。
矛盾した望みを抱えて、僕はそっと目を伏せた。
背中から伝わる彼女の温もりに、無性に泣きたくなった。
僕は矛盾を望みます