カリカリと硬いシャープペンの芯が質の悪いプリントの上を引っ掻いていく。びっちりと数字や記号が印刷された、学校特有の経費削減のせいでやたらめったらに質が悪いプリントが、今の帝人にとって最大の敵だ。


 否、と首を振って帝人は己の考えを打ち消した。最大の敵はこの無機物などではなく。


 「帝人、まだ終わんねえのか、それ」


 自分を抱え込むようにして後ろから抱きしめたまま、先ほどから五分おきくらいに同じような質問を繰り返してくる、とんでもなく暇を持て余している己の恋人だ。


 「ついさっき始めたばかりで、もう終わるわけないじゃないですか」


 「さっきって、一時間くらいまえからなんかカリカリやってただろ」


 「あれは英語です。とにかく今日のノルマをこなすまで、黙って大人しくしててください」


 途端に背後からの不機嫌オーラがよりいっそう強くなったのを肌で感じて、帝人は聞き分けのない子供をあやしているようで、しかし相手はとうに二十歳を越えた大人であることに言いようのない情けなさを噛み締めた。彼が辛抱という言葉とかけ離れた存在であることは重々承知していたけれど、それでもなお、帝人は唇から漏れるため息を抑えることが出来ない。


 一週間後に迫った期末テストへの対策として大量にプリントを学校からもらってきたのは帝人で、せっかちな蝉がざわめき始めたこの季節にクーラーが仕事を放棄した自宅よりも環境の整った静雄宅で勉強をすることを決めたのも帝人だ。プリントの山もなかなかいい感じに低くなってきていて、ここまでは帝人の予想道理だ。珍しく仕事が休みで暇を持て余している静雄が、臨也並みにウザいことを除けば。


 (いや、最後のそれはけっこう問題だよなあ)


 かまえかまえと囁く静雄を適当にあしらいながら、どうしたものかと帝人は悩む。静雄が帝人の邪魔をするなんて非常に珍しい事態だが、二週間ぶりの逢瀬となれば、静雄がこうもしつこいのも頷ける。


 「静雄さん、動きにくいんで離れてください」


 「嫌だ」


 なぜ帝人を抱えままソファーに座っているのか、そこのところがよくわからない。正確にはソファーに座っていた帝人に勝手に静雄がくっついてきただけだのだが、とくかく邪魔だった。動きにくい、というのは本当ではないけれど。


 「色々と支障が出るんですよ、静雄さんがくっついていると」


 服越しに感じる体温だとか、耳元で囁かれる彼の低音だとか、ふわりと香る煙草だとか、色々なものが帝人を苛むのだ。


 よくわかっていない静雄にため息ひとつ落として、諦めた帝人は目の前の問題に集中した。タンジェントがどうとか、三平方の定理がああだとか、もはや異国の言葉としか思えない問題相手にうーうー唸りながら参考書と睨めっこして倒していく。装備品は年季の入ったシャープペンと丸いちっぽけな消しゴム。


 ふいに、帝人の腰に回っていた静雄の腕の力が強まった。静雄さん、と囁いた声に険はなく、束縛というよりは縋りつくようなその力に対しての、純粋な疑問。


 「帝人は、俺よりそっちを選ぶのか?」


 子供じみた我が侭に近い静雄の言葉。振り返って静雄の顔を見ようとする帝人だが、それは首筋に顔を押し付けて隠すという静雄の行為によってなすことができなかった。しかし周囲に揺れる空気が、彼が自分の言葉に戸惑っていることを伝えていた。


 「静雄さんは、ぼくと幽さんを選べますか?」


 静雄の質問はそういうことなのだ。よくドラマにでてくる、私と仕事どっちが大切なのよという台詞と同じ。まさか自分が言われる立場に鳴るとは思わなかったけれど。


 静雄の言うそれらも、帝人の言うそれらも、決して選べるようなものではない。世の中にはそういうものが数多く存在する。静雄が幽を対象にされて困るように、帝人だって正臣や園原なども対象にされたら困る。


 静雄が生業としている職業が職業なだけに、そして帝人が時間に縛られる現役学生だということも影響して、静雄と帝人が会える機会はそう多いものではない。だから会える時に思う存分いちゃつきたいという、静雄の言い分がわからないわけではない。かまってもらえない寂しさが理解できないわけではない。


 ただその寂しさを、自分だけが感じているのだと思っているのなら大間違いだ。


 「静雄さん」


 手早く筆記用具と参考書、それにプリントの束をまとめた帝人はそれらを胸に抱えると、突然立ち上がった帝人を期待半分不安半分で見つめる静雄をにっこりと微笑みながら見下ろした。


 「静雄さんに課題を出します」


 静雄が学生であったのはもう何年も昔の話だ。難しいかも、と帝人は思った。しかしこれで答えを見つけられなかったら当分静雄とは口を利くものか、と非情な罰を決めた。


 「どうしてぼくが勉強するのにわざわざ静雄さんの家に来たのか」


 環境ならば図書館のほうが整っている。涼しいし、静かだし、参考書だって置いてある。けれどあえて帝人は静雄の家を選んだ。その理由を、わざわざ言うつもりはないけれど。


 気付いて、そして恥じるか身悶えるかすればいい。本当に寂しがっていたのは誰なのか、くっつきたがっていたのはどちらなのか。帝人が何を望んでいたのか。


 「答えがわかるまで、静雄さんとは会いませんから」


 ぽかん、と大口あけて呆けている静雄を尻目に帝人はさっさとリビングから客間へと退散した。客間の扉に鍵をかけた瞬間、焦った静雄の声が聞こえてきたが当然のように無視をした。静雄さんのばか、と声には出さす囁く。


 帝人の宿題が終わるのが先か、それとも静雄が答えに気付くのが早いか、それは帝人にもわからない。





   











 お題はカカリアさんよりお借りしました。