その瞳が好きだった。
どこまでもまっすぐで、純粋で、綺麗で。
だから、そんな君だったから、ぼくは恋をしたんだと思う。
油絵の具独特の臭いが充満する室内には、すでにぼくしかいない。だからこそ、聞いているだけで憂鬱になってくるようなため息も、気兼ねなく吐ける。
本日何度目か分からないため息。原因はぼくの目の前にある、大きなキャンパス。まだ完成していない、油絵。
ぼくは絵筆をとると、キャンパスのうえをはしらせた。筆にのせた色がキャンパスの色と混じり合い、深い色合いをつくる、その変化が好きだった。
「アレルヤ」
「刹那・・・・」
突然かけられた声に反射的に飛び上がらずにすんだのは、その声が彼のものだったから。振り返ったついでに壁際に時計が目に入る。思わず呻いた。
「あ、ごめん。もうこんな時間だったんだね。先に帰っていても良かったのに。寒かっただろう」
刹那の頬は赤く紅潮しているし、よく見ればさっきから指先をこすり合わせている。あぁ、痛々しくて見てられない。
「俺が待っていたかったんだ。これ、アレルヤのか?」
うん、と頷くと刹那は興味深そうにぼくのキャンパスを見上げた。それなりにがんばってはいるけれど、どうしても上手くいかないその絵は、いまではぼくの憂鬱の種だ。
「こんどの作品展に出すんだ・・・・まだ、描きかけだけど」
そう、中途半端な描きかけ。本当は誰の目にも触れさせたくないんだけどなぁ。
「すごいな、これ。油絵というんだろ」
「そうかな? ぼくのよりも、上手な作品なんてたくさんあるけど」
例えば、ほら、トリニティ先輩のとか。指差したのは、花畑と少女が描かれた絵。なんでも、モデルは先輩の妹らしい。だからこそ、あそこまで精密に描けるのだろうか。
「・・・・すごい、な」
「そうだね。先輩は美大を狙っているらしいから」
刹那がほぅ、と感嘆の吐息を漏らした。出来ればその吐息を、ぼくの絵にも向けて欲しい。だけど無理だろうな。ぼくなんかの絵じゃ。
「アレルヤ、帰らないか?」
「あ、そうだったね。ごめん、もうちょっと待って」
刹那の声に、慌てて散らばった画材を片付ける。刹那も手伝ってくれた。ぼくは所々に絵の具が付着して汚れているつなぎを脱ぐと、制服に着替え始めた。
「うわ、もう8時!? 刹那ご飯食べた?」
ふるふる、と刹那が首を横に振る。刹那は小食だからあまり食事に気を使わない。だからといって、夕飯抜きで大丈夫なはずがない。ぼくは刹那に「ちょっと待ってて」と言うと、鞄の奥を漁った。確か夜食の残りがあったはずだ。
「ぼくの夜食の残りで悪いけど・・・・よかったら」
小さなおにぎりをふたつ、刹那に渡す。これでお腹一杯になってくれればいいんだけど。
「・・・いいのか?」
「うん。刹那がご飯食べれなかったのは、ぼくのせいなんだし」
そう笑いかけると、よほどお腹がすいていたのか、刹那はものすごい速さでおにぎりにかぶりついた。あぁ、そんなに急いだらのどにつまるかもしれないのに。と思ったら、案の定刹那はのどにつまらせて盛大にむせた。慌ててペットボトルのお茶を渡す。
(あ、これ間接キスになるのかな)
そんなぼくの考えに気付きもしないで、刹那はごくごくと一気にお茶を飲み干す。その姿があまりにも可愛らしかったから、思わずくすり、と笑みがこぼれた。
刹那が食べ終わるのを見届けると、「帰ろうか」と刹那に手を差し出した。そろそろ帰らないと、校門を閉められてしまうかもしれない。
刹那はこくん、と頷いてくれた、でも。
差し出した手を、取ってはくれなかった。
「ずいぶん遅くなっちゃったね・・・」
「そうだな」
学校から出る頃にはすでに9時に近い時間になっていた。そろそろ冬になる季節だから、日が落ちるのはあっという間だ。頼みの綱も街灯も、チカチカと点滅していて使い物にならない。うわ、最悪。
「これからは今日みたいな日が増えると思うから、先に帰っていていいよ」
「では明日からは夕飯を持参する事にする」
「え、いや帰ってていいんだけど・・・」
「待ってる」
頑なに刹那は叫ぶ。こうなると、もう刹那が自分の意志を曲げる事はないとわかっているので、ぼくも苦笑するだけで何も言わないにした。
本当は少しだけ、いや、かなり嬉しかった。
ぼくも刹那と帰りたかったけど、待っていて、なんて言えるはずがなかったから。
(そんなの、迷惑、だよね)
そう、ただの友人を待っているだけの刹那にとっては。
「あの絵、〆切が近いのか?」
沈黙を破るかのような刹那の問いかけに、一瞬、ぼくは硬直した。けれどすぐさまいつもの笑顔を作る。あぁ、ぼくは今、上手く笑えているのかな。
「作品展は来月なのだろう」
「うん。今月末が〆切。今が一番忙しい時かな」
「大変だな」
刹那の気遣うような声が、とても嬉しい。あぁ、やっぱり刹那と帰れてよかった。ひとりだったら、絵のことを考えてどこまでもネガティブになっていただろうから。
そんなことを思っていると、唐突に、本当に唐突に。
刹那がぼくの両頬を、思いっきり引っ張った。
「いひゃひゃひゃひゃ・・・・ひぇひゅしゃ、いひゃい」
「笑うんだったら、こっちのほうがいい」
てっきり退屈した刹那のいたずらかと思ったけれど、刹那の瞳があまりにもまっすぐで、ぼくは冗談を言いそうになる口元を慌てて制した。
「無理に笑わないでくれ。苦しいなら、苦しそうな顔をすればいい。アレルヤがどれだけ悩んでいるのか、俺にはわからないが」
そう言う刹那の顔もまた、苦しそうだったけれど。
「アレルヤひとりぶんの苦しみくらい、俺だって背負える」
あぁ、ぼくは。
なんてバカヤロウ、だったんだろうか。
薄っぺらな笑顔で刹那に接して、決して気付かれないようにしてきたつもりだったけれど。
全部全部、刹那にはお見通しだったんだ。
「・・・・・刹那は、やさしいね」
「・・・なぜ?」
なぜって、君、気付いていないの?
君はこんなにも、やさしいのに。
今だけじゃない。ずっとずっと昔から、刹那はやさしかった。
「こんなぼくの悩みにも、すぐに気付いてくれる」
「アレルヤだって、同じくらいやさしい」
「ううん、刹那もやさしいよ」
きっと刹那は、自分はやさしくないと思っているんだろう。だけどね、刹那。
自分がやさしい人間だなんて、自分で気付くことができるひとはいないんだよ。
ゆっくりと微笑んで、刹那の頭を撫でる。うん、今度こそ、いつもみたいに笑おう。
ちっとも笑ってくれない刹那が、この時だけは、頭を撫でる時だけは、少しだけ口元を和らげる。刹那自身は気付いていないようだけれど。
(笑って、ねぇ、笑ってよ、刹那)
まっすぐなその瞳に、やわらかな光が差し込まれる光景が見たい。それきっと、とてもとても綺麗なんだと思う。
うつらうつらと、刹那のことばかり考えていたせいかだろうか。それとも、目が合った瞬間、小首を傾げた刹那が可愛すぎたからか。
つい、ぽろりと。
「好きだよ」
本音が、誰にも言うつもりがなかったはずの本音が、口から出た。
瞬間、立ち止まった刹那の顔は驚愕に満ちていた。ぽかん、と薄紅色の唇が大きく開かれたけれど、そこから言葉が出てくることはない。
(っ! しまった!)
同性の友人からの告白なんて、気持ち悪いに決まっている。どうしよう、刹那に嫌われる。避けられる。
(それは、絶対に、嫌だ)
「あ、いや、それは友達として! 友達として好きって事だから!」
慌てて口から出たのは、そんな言葉だった。むきになって、こんな姿じゃ、説得力はないかもしれない。
嫌われたら、どうしよう。避けられたら、どうしよう。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ)
嫌われたくなくて、避けられたくなくて、ひたすら『仲の良い友人』であり続けてきたのに。
(嫌われるくらいなら、いっそ)
永遠に『仲の良い友人』で、いい。
「えーとね、だから、その」
「アレルヤ」
ぼくの声を遮った、刹那の声は、ひどく冷たく感じた。
「俺も、好きだ」
なんでだろう。強く望んでいた言葉のはずだったのに、まるで、心の中に氷を押し込まれたみたいだった。
「アレルヤは大切な、友達だからな」
トモダチ。
そうだ、ぼくと彼は、トモダチ。
誰よりも大切な、ぼくの刹那。
馬鹿みたいだ。ぼくが、そうあることを望んだのに。
拒絶されるくらいなら、友人でいいと望んだのに。
ひどく落ち込む、ぼくがいる。
「うん、ありがとう、刹那」
笑おう。笑って何もかも誤魔化してしまおう。笑顔の下に、本音を隠して接していこう。大丈夫、きっと今度はうまく隠せる。
(大丈夫。耐えられる。彼の傍にいるためだったら、何年でも耐えられる)
たとえそれが、地獄の苦しみだったとしても。
ほらね、ないものねだり
お題はイデアさんよりお借りしました。