気付いたら、目で追っていた。
そばにいると、胸がざわついた。
その笑顔を見ると、心が弾んだ。
それだけで、良かったんだ。
おかしい、絶対におかしい。
俺は先ほどから指先でもてあそんでいるケータイを開くと、画面に表示されている時刻を確認した。19:58。下校時刻はとっくに過ぎた。部活動終了時刻も、また然り。
俺は立ち上がって数歩移動すると、[2−A ハプティズム]と書かれたロッカーを開けた。まだ靴は残っている。まだあいつはここにいる。
再びケータイを開いて時刻を確認する。20:00ジャスト。俺は座りっぱなしで痛くなった腰を上げると、ペタペタとスリッパの音を響かせながら歩き出した。幸いにも、目指す美術室はこの一階にある。そう遠くはない。
ぴったりと閉められた扉。中から人の気配はしなかったけれど、なぜか俺はその扉を開けるのをためらった。恐る恐る、なるべく音を立てないように慎重に入った。
絵の具や埃などの臭いがこもった薄暗い部屋の隅っこ、まるでかくれるように。
彼が、いた。
「アレルヤ」
「刹那・・・」
振り返ったアレルヤの顔は、どこか暗かった。
「あ、ごめん。もうこんな時間だったんだね。先に帰っていても良かったのに。寒かっただろう」
「俺が待っていたかったんだ。これ、アレルヤのか?」
うん、と微笑むアレルヤの後ろには、巨大なキャンパスがあった。縦横ともに、人間1人ぶんぐらいの長さはある。
「こんどの作品展に出すんだ・・・・まだ、描きかけだけど」
恥じるかのように、アレルヤは囁いた。描きかけ、とアレルヤは言うけれど、その絵はほとんど完成しているように見えた。まぁ、素人である俺から見たらの話だけれど。
雄大な自然を背景に、裸体の人間が脱皮し、蝶の羽を広げている、そんな絵だった。
「すごいな、これ。油絵というんだろ」
「そうかな? ぼくのよりも上手な作品なんてたくさんあるけど」
例えば、ほら、トリニティ先輩のとか。そうアレルヤが指差したのは、ヨハン・トリニティというプレートがかかった油絵だった。写真と見間違いそうになる、明るい花畑の中で赤毛の少女が微笑みながら手をこちらに差し出している、そんな絵だった。
「・・・・すごい、な」
「そうだね。先輩は美大を狙っているらしいから」
俺の賞賛をその先輩へのものと勘違いしたアレルヤが、目を細めてそんなことを言う。俺からしてみれば、アレルヤの絵も先輩の絵も、充分賞賛に値すると言うのに。
自分に価値はない、そんな言い方はやめて欲しい。
「アレルヤ、帰らないか?」
「あ、そうだったね。ごめん、もうちょっと待って」
わたわたとアレルヤはあたりに散乱している絵の具チューブや資料用の写真などを片付け始める。俺も絵の具を拾うのを手伝った。
「うわ、もう8時!? 刹那ご飯食べた?」
その問いかけに、俺は頭を横に振った。ずっと下駄箱で座っていたから、何も口にしていない。それをアレルヤに伝えると、彼は「ちょっと待ってて」と鞄を漁り、何かを取り出した。
「ぼくの夜食の残りで悪いけど・・・・よかったら」
そう渡されたのは、ラップにくるまれた握り飯だった。手のひらに収まる程度の大きさのそれが、二個。小食な俺には充分すぎる食料だ。
「・・・いいのか?」
「うん。刹那がご飯食べれなかったのは、ぼくのせいなんだし」
ふわり、とアレルヤは微笑んだ。俺はざわつく胸を隠すように、急いで握り飯を頬張った。急ぎすぎて、のどに詰まりかけて盛大にむせた。それを見たアレルヤが慌てて俺にお茶が入ったペットボトルを渡す。
くすり、と笑われる。まるで俺が幼い子供のようで、とても恥ずかしかった。
アレルヤは俺が食べ終わるまで待っていてくれた。もらった食料を全てたいらげ、満足げに一息ついた俺にアレルヤは「帰ろう」と手を差し伸べた。俺は大人しく従った。
その手を掴むことは、できなかったけれど。
「ずいぶん遅くなっちゃったね・・・」
「そうだな」
学校から出る頃にはすでに9時に近い時間帯になっていた。冬になりかけのこの季節、夜は長く暗い。頼りになるはずの街灯も、切れ掛かっているのか灯しているのはおぼろげな光だ。まったくもって頼りにならない。
「これからは今日みたいな日が増えると思うから、先に帰っていていいよ」
「では明日からは夕飯を持参する事にする」
「え、いや帰ってていいんだけど・・・」
「待ってる」
俺が叫ぶと、アレルヤは苦笑を浮かべてそれ以上何も言わなかった。アレルヤにとっては迷惑なのかもしれないけれど、ここはゆずれない。
「あの絵、〆切が近いのか?」
沈黙が苦しくて、耐え切れなくなった俺は無難な話題をふった。だけど、すぐに俺は後悔した。一瞬だけど、アレルヤの顔がすごく苦しそうだった。
「作品展は来月なのだろう」
「うん。今月末が〆切。今が一番忙しい時かな」
「大変だな」
本人はいつもどおりに笑っているつもりだろうその顔を、どこか暗い。こんな顔を見るのは初めてだ。あぁ、やめてほしい。そんな顔は、見たくない。
あんたにはいつも、笑っていてほしい。
俺は唐突にアレルヤの両頬へと手を伸ばすと、思いっきりつまんでひっぱった。
「いひゃひゃひゃひゃ・・・・ひぇひゅしゃ、いひゃい」
「笑うんだったら、こっちのほうがいい」
手を離すと、アレルヤは痛そうに頬をさすりながらも、驚いて目をしばたかせた。
「無理に笑わないでくれ。苦しいなら、苦しそうな顔をすればいい。アレルヤがどれだけ悩んでいるのか、俺にはわからないが」
もしかしたらそれは、俺には重過ぎるかもしれないけれど。
「アレルヤひとりぶんの苦しみくらい、俺だって背負える」
だから、どうか。
そんな苦しそうに、笑わないで。
「・・・・・刹那は、やさしいね」
「・・・なぜ?」
ふんわりと微笑んだその顔は、いつものアレルヤだった。
「こんなぼくの悩みにも、すぐに気付いてくれる」
「アレルヤだって、同じくらいやさしい」
俺は自分がやさしいと自覚した事はない。むしろ、その逆ではないかと思う。
「ううん、刹那もやさしいよ」
アレルヤは笑って、俺の頭を撫でてくれる。その手は大きくて暖かくて、俺はいつも、この瞬間だけ時間が止まればいいと願う。
「好きだよ」
心臓が止まったかと思った。
自分の耳が信じられなくて、思わず立ち止まってアレルヤを見返す。聞き間違えじゃないのか、と疑う自分がいて、聞き間違えじゃない、と祈る自分もいた。
「あ、いや、それは友達として! 友達として好きって事だから!」
顔を真っ赤にして大慌てでアレルヤは叫ぶ。その瞬間、まるで冷水を浴びたかのように心が冷え切っていくのがわかった。
あぁ、馬鹿、みたいだ。
願いが叶う、そんなわけないのに。何を夢見ていたんだろう、俺は。
「えーとね、だから、その」
「アレルヤ」
凍えるような、心で。
冷え切った、声で。
「俺も、好きだ」
震える感情をかき消して。
俺は嘘とも本当ともつかない言葉をひとつ、吐きだした。
「アレルヤは大切な、友達だからな」
そう、オトモダチ。
大切な大切な、本当に大切な俺の友人。
だから、嘘をつくんだ。
「うん、ありがとう、刹那」
アレルヤが笑う、気配がした。
大好きなはずの彼の笑顔が見たくなくて、俺は黙って視線を下げた。吹きつける風は、凍えてしまいそうなほど冷たい。
身を切る風よ、どうか。
この心ごと、感情を全て凍らせてくれ。
ほらね、ないものねだり
お題はイデアさんよりお借りしました。