がさがさと騒々しい音をたてながらニールは茂みから転がり出るように走り出した。木の枝で引っ掛けたのか、腕にはあちこちに小さな傷が出来ていたが、今はそんなものに気をとられている場合ではない。


 (確か、あっちに神社が・・・)


 全力で大地を駆ける、その身体は震えていた。


 (早く、早くしないと)


 あれが、くる。


 ふと後ろが気になって振り返った瞬間、ニールは盛大に顔を引きつらせた。


 走るニールの後方、そう遠くはない先ほどニールが飛び出してきた茂みから。


 勢いよく出てきた、得体の知れない、少なくとも人間ではないなにかと目が合った。


 (うっぎゃー! 嫌だ嫌だ嫌だ、なんで俺ばっか・・・)


 俗に言う妖怪であるらしいあれらは、ニールが見える人間だとわかるといつも追いかけてくる。ニールのまわりであれらが見えるのはニールだけであり、なぜか双子の弟も少し歳の離れた妹も、あれらを見ることは出来なかった。


 あれらは神社などの場所には入ることが出来ないらしく、ニールは追いかけられたらすぐにそこに逃げ込むことで難を逃れているのだが。


 いかんせん、今回は道のりが遠すぎた。ここから一番近い神社でも少なくとも三キロはある。八歳の子供であるニールが全力疾走するには長すぎる距離だ。おまけに、整備されていない砂利道などを駆けてきたせいで、ニールの足は限界だった。


 「あっ!?」


 ニールが大きく地を蹴った時、土から露出していた木の根につまずいてしまい、その場にべちゃ! と転んでしまった。足を見れば大きな擦り傷ができていて、痛みで動く事すら出来そうにない。


 (やばい!)


 すぐ後ろには、化け物。あれらに捕まった事はないが、捕まったらただではすまないことだけは、本能で分かっていた。


 (やられる)


 せめて視力による恐怖をなくそうと、無意識に瞳を閉じた、その時。


 「不愉快だ」


 凛と澄んだ、声がした。


 「貴様のような下等なやからが、俺の領土に入り込むとは」


 恐る恐る顔を上げる、そこにあったのは巨大な桜の樹。


 「本当に、不愉快だ」


 その桜の枝に腰掛ける、見たこともない美人。


 (綺麗、だ)


 風に舞う黒髪とゆれる桜の蕾が本当に綺麗で、最後に見たのがこんなに綺麗なひとならいいかな、と思えてしまうくらいの女性が、そこに座っていた。


 不愉快そうに眉を寄せる、その仕草さえ美しい。


 「出て行け」


 彼女がパチン、と指を鳴らすのが先だったのか。


 化け物が、小さく悲鳴のようなものをあげて逃げるように身を引いたのが先だったのか。


 ニールには、なにがなんだかわからなかった。


 「なんだ、人の子か」


 すとん、とニールの目の前に降り立った美人は、つまらなさそうに呟いた。あまりの出来事に思考する事を放棄したニールは、ぽかーんと口をあけて目の前の美人を見つめる事しか出来ない。


 「まったく、低級なやからはこれだから困る。人の子など追いかけて、何が楽しいのやら・・・・おい、そこの子供。俺が見えているんだろう。礼のひとつでも言ったらどうだ」


 べしべしと額を小突かれる、その痛みでようやく我に返ったニールは立ち上がろうとしたものの、走った痛みに再びその場にへたり込んでしまった。


 「なんだ、怪我をしているか。見せてみろ」


 「え、あ・・・」


 細い指がニールの足に触れた。痛んだわけではないけれど、なぜか触れられた場所がうずくのがわかった。


 「む、傷は浅いが、これでは動けまい。待っていろ」


 美人は樹の後ろへまわったかと思うと、すぐに両手になにやら大量の葉をかかえて戻ってきた。


 「おい、なにか布を持っていないか」


 「あ、ハンカチなら」


 「貸せ」


 美人はニールが恐る恐る差し出したハンカチを受け取ると、先ほどの葉を少し傷付けてニールの傷口にあて、ハンカチで固定した。


 「これでいいだろう。そのうち痛みも消える。家に帰ったらちゃんと手当てをしておけ」


 「あ、ありがと・・・」


 戸惑いながらも礼を言うと、美人は気にするな、と再び枝の上へと戻ってしまった。


 (なんだんだろう・・・)


 ニールは今まで妖怪の類にこんなにも親切にされたことはない。否、こうやって言葉を交わすこと自体、初めてのことかもしれない。


 「あの、さ!」


 「ん?」


 なんだ、まだいたのかと言わんばかりに、美人はニールを見下ろした。赤褐色の瞳の、その迫力に怖気づきながらも、ニールはふんばって叫ぶ。


 「俺、ニールっていうんだ。アンタは?」


 名を訊いた瞬間、ほんのわずかだが、今まで無表情だった美人の顔に感情が表れた。一瞬の事だったけれど、ニールは見逃さなかった。


 「・・・・刹那」


 少しためらうかのように小さな声で、しかし確かに告げられた名を、ニールはしっかりと脳内に記憶した。


 「あのさ、刹那」


 「なんだ」


 「また、ここにきてもいい?」


 まるで見たこともないくらい奇妙な生物を見るかのような瞳で、刹那はニールを見下ろした。


 「・・・・・・好きにしろ」


 「っ!」


 嬉しさが胸から溢れそうになる。思わず飛び上がりたくなる衝動をぐっと押さえ、刹那に笑顔を向けた。


 「この樹の枝がおおう範囲は俺の領土だ。また先ほどみたいなものに追いかけられたら、逃げこめばいい。俺の領土で好き勝手はさせない」


 だからか、とニールは先ほどの不可解な減少の理由を知った。よくわからないが、この桜の樹の下は安全らしい。


 「じゃあ俺、安心して刹那に会いにこれるね」


 そう言うと、刹那は再び奇妙な顔をして、


 「馬鹿な奴」


 かすかに、綺麗に、微笑んだ。














 ニールが刹那の元へ通うようになると、不思議な事に妖怪から襲撃がぐんと減った。時折、くやしそうにこちらを見つめてくる事はあるものの、昔みたいに頻繁に追いかけられなくなった。


 とはいってもやはり完全に追いかけてくるものはいなくなったわけではなく、今日もニールは息を切らしながら刹那がいる樹の下へと駆け込んだ。


 「うっわー、気持ち悪い気持ち悪い。変なやつに思いっきり顔舐められちゃった!」


 「馬鹿だな。俺が怖くてお前に手を出さなくなった奴もいるからといって油断しているからだ」


 「うー・・・本当に気持ち悪ぅ・・・なんか目もかすんできたし」


 ごしごしと舐められた右目をこするが、不快感は消えない。そのうち、眩暈までしてきた。


 「おい、お前それは毒気にやられたんだ。見せてみろ。こすったら余計酷くなるだけだぞ」


 珍しく心配そうな声を上げた刹那が、ニールの顎に手を添えむりやり上を向かせる。気付けば至近距離にあった刹那の顔にニールが硬直していると、唐突に。


 ちゅ、と。


 軽い音をたてて、なにか柔らかなものが右目に触れた。


 それが刹那の唇だと気付いた時、それは離れていった後だった。


 「これで大丈夫だろう。おい、どうした? 顔が赤いぞ」


 気分がスッキリしたとか眩暈がなくなったとか不快感が一掃されたとかわぁすごいとか色々思うことはあったけれど。


 (い、今、キス、された・・・?)


 眼球に口付けられたというのに、不思議と痛みはなかった。それよりも、身体の奥から熱がこみ上げてきた。


 (キ、キス・・・・刹那からのキス・・・・っ!)


 ぼんっ! と爆発したかのようにニールの顔が真っ赤になる。その様子に、最初は興味深く眺めていた刹那もぎょっとした表情で一歩後退った。


 「お、おい・・・・大丈夫か? 毒気にあてられて、熱でも出したか?」


 自分のそれとは違う、褐色の指がニールの額に触れた。


 「お、俺用事思い出したから!」


 「・・・はぁ?」


 「また明日なっ!」


 「って、おい! 待て、ニール!」


 あれ以上刹那の顔を直視できるわけもなく、ニールは一目散に走り出した。背後で刹那が叫んでいるのがわかったが、今更止まれるわけもなく。


 一度も振り返らなかったから、ニールは見逃してしまった。


 寂しげに、悲しげに、遠ざかっていくニールの背を見つめる、刹那の表情を。














 それは夕飯時の母親の言葉で判明した。


 「そういえば、ニール、最近よく二丁目の桜の樹のとこに行くらしいじゃないの」


 「へ?」


 突然の話題に、ニールはエビフライにかぶりついたまま首をかしげた。もぐもぐとエビフライを咀嚼しながら、ようやく刹那の桜のことを言われているのだと気がつく。


 「あの桜、綺麗よね。もう百年ぐらいあるらしいんだけど」


 「へぇ・・・」


 百年、という単語に少しだけ驚いた。そんなにも長い間、刹那はあそこにいたのだろうか。刹那はニールに妖怪からの逃げ方だとか色々な事を教えてくれたが、自身のことについてだけは何も言わなかった。


 百年もの間、ずっとひとり。


 ニールは少しだけ、刹那がいつも無表情でいる理由が分かった気がした。


 「だけどもったいないわね」


 「なにが?」


 頬に手を当てて、母親はもったいないと繰り返した。


 「あの桜、切っちゃうんですって。あそこの土地に建物を作るのに、邪魔だからって」


 「・・・・・え」


 ぽとり、とニールの手から箸が落ちた。隣に座っていたライルが「落ちたぞ」と肘で小突いたが、そんなことはどうでもいい。


 「いつ!? いつ切っちゃうんだ!?」


 テーブルに身を乗り出さんばかりの勢いで迫ってくる息子に戸惑いを覚えながらも、母親は記憶をたどってその日を口にした。


 それは、今から三日後だった。














 その日、桜はまるで自分の最後を彩るかのようにたくさんの花びらを散らせていた。


 (綺麗、だ)


 初めて彼女を見たときも、同じ事を思った。慈しむかのように枝に手を伸ばす彼女は、本当に綺麗だった。


 「せつ、な」


 名を呼ぶ、その声は情けなくも震えていた。振り返った刹那はニールの強張った表情に気付き、ただひとこと「気付いたか」と微かに苦笑した。


 「刹那は知ってたのか?」


 「最近、やたらと人間がたくさんやってきていたからな。会話の内容を聞けば、なんとなくわかる」


 慈しむように、愛おしむように、刹那は幹を撫でた。その姿はとても儚げで、ニールは彼女が今にも消えてしまうんじゃないかと、泣きそうになった。


 「刹那は・・・どうなるんだ」


 聞きたくない、けれど聞かなくてはならない質問だった。そして、聞かなくとも答えは出ている質問だった。


 「この桜と俺は直接つながっているわけではないが・・・・俺は、そろそろ潮時だと思う」


 ニールが予想していた答えではなかったけれど、それでも胸の絶望は消えない。


 「だらだらと生きるのは、もう疲れた。せめてこいつと一緒にいきたい」


 淡々と語るその口調があまりにも冷静で、ニールは怒りすら覚えた。けれどもその怒りの矛先が誰に向かっているのか、ニールにはわからなかった。


 自分の消滅を、淡々と語る彼女に対してなのか。


 彼女の消滅を知っても、何も出来ない自分に対してなのか。


 「ニール」


 自分を呼ぶ、その声があまりにも優しくて。ニールは潤む視界をなんとか止めようと歯を食いしばった。気付けば、いつものように枝に腰掛けていたはずの刹那が目の前にいた。


 「ニール、お前に百年の幸福があらんことを」


 額に落ちてきた柔らかな感触がなんなのか、ニールにはすぐにわかった。瞬きをしたとたん、ぽろりとニールの瞳から涙がこぼれた。


 「刹那・・・」


 ざわり、と風に吹かれて枝が揺れた。視界が薄桃色に染まる中、最後に見えたのは刹那の微笑みだった。


 桜の花びらと共に、彼女は綺麗に笑っていた。


 「刹那、刹那、せつ、な・・・」


 泣きじゃくりながら彼女を呼んだけれど、もう返事が返ってくることはないのだと、ニールはわかった。


 それでも名を呼ぶことしか、ニールにはできなかった。














 風と共に舞ってきた桜の花びらを、ニールは懐かしい思いで見つめた。社会人となってからは忙しくて、桜なんてゆっくり眺める暇すらなかった。


 思い出すと、今でも胸がつまって息苦しくなる。


 あの時散ってしまった感情がなんなのか、当時は幼くて分からなかったけれど。


 (16年も経ってようやく気付くなんて、ほんと、馬鹿みてぇ・・・)


 自嘲を零しながら一歩踏み出したその足が、何かを踏んでいる事に気がついた。


 「・・・ハンカチ?」


 薄青色の小さなハンカチは、ニールが踏んだせいで微かに汚れていた。おそらくかぜかなにかで飛ばされてきたのだろう。きょろきょろとあたりに持ち主がいないかと見回すニールに声がかけられた。


 「すいません、それ、俺のです」


 「あ、ごめん。これ汚しちゃったんだけ・・・」


 振り返ったニールは強い既視感に眩暈がした。


 「どうかしましたか」


 高校生だろうか、制服に身を包んだ少女の凛とした声が、とても懐かしい。


 「いや、なんでもない。これ俺が踏んで汚しちゃったからさ、今度洗って返すよ。ここにくればまた会えるよね?」


 「え、ありがとうございます」


 深々と彼女が頭を下げると、短い黒髪がぴょこんと揺れた。あのさ、とニールはためらうことなく声をかけた。


 「俺、ニールっていうだ。君は?」


 尋ねたその名前を、きっとニールは出会う前から知っている。





 














 お題はイデアさんよりお借りしました。