ヴァローナが日本に来て好むようになったものはいくつかあるが、その中でも特に『抹茶』には一目置いていた。コーヒーと同じように苦みと甘みが同時に存在しながらも、何かが違う。その何かがわからないままにヴァローナは抹茶が気に入っていた。そのまま飲むのではなく加工して、特にスイーツに使用される抹茶を気に入っていた。
そのことをふまえて、ヴァローナはメニュー冊子と睨みあう。何ページかあるそれの最後のデザートの箇所だけを食い入るように見つめて、数ある品々の中から思案の末に決めたものを店員に告げた。
「ご注文は抹茶とイチゴのミルフィーユ、抹茶オレ、以上でよろしいでしょうか?」
ヴァローナが頷くと店員は踵を返して厨房へと向かった。手造りの美味しさが有名な店では休日と言うことも相まってすでに店内は客でいっぱいで、ふと出入り口に視線を向けると店員が申し訳なさそうに眉尻を下げた顔で入店してきた客に満員であることを説明している光景が見えた。
注文したスイーツが来るまでの暇つぶしにとなんとなくその光景を眺めていたヴァローナは、残念そうに立ち去ろうとする客の顔に見覚えを覚えて―――――それが、職場の先輩と懇意にしている竜ヶ峰帝人だと分かった瞬間、思わず口に含んだ冷水を噴き出しかけた。げほごほとせき込んだヴァローナがなんとか顔をあげて出入り口を凝視すると、目が合ってしまった、竜ヶ峰帝人と。
「・・・・・・・・・」
「あ、ヴァローナさん」
幸か不幸か、ヴァローナが案内された席は出入り口の近くだった。ばっちり目があてしまった上ににこやかに声までかけられて、これで顔見知りではないと判断する人間はいないだろう。帝人の相手をしていた店員もそう判断したらしく、なにか妙案を思い付いたと言ったふうに「それでしたら」と口を開く。
「ご相席でしたらご案内できますが、いかがいたしますか?」
その相席の相手とはもちろんヴァローナだろう。見知らぬ人間と一緒のテーブルにつくよりも、顔見知りのほうが良いに決まっている。別にヴァローナは帝人が席につけなくてもどうでもいいのだが、小動物を連想させる瞳で縋るように見つめられて、きっぱりと断れるほどヴァローナの精神は強くない。
「その提案を肯定します。座るのなら早くしてください」
「っ、ありがといございます!」
ぱぁぁと顔を明るくして帝人が頭を下げる。その勢いに圧倒させながら、ヴァローナはどこか居心地が悪いようなむずかゆい感覚に身体を震わせた。接客スマイルの店員に案内された帝人は席に着くとさっそくメニューを嬉しそうに眺め始めた。
「ヴァローナさんは何を頼んだんですか?」
そう問われ、とっさに言葉が出なくてヴァローナは指でメニューを指した。帝人のほうはそうでもないらしいのだが、ヴァローナはどうにもぎこちない雰囲気を感じずにはいられない。そもそもこの竜ヶ峰帝人という少年と会話するときはいつも職場の先輩が同席していたし、数だってそう多いわけではない。こんな風に同じ席で食事を楽しむ日が来ようとは、誰が予想するだろうか。
なにをどう話したらいいのか戸惑いを感じていたヴァローナは参考にしようと過去の職場の先輩と彼が話していた場面を思い出して――――疑問が生じた。彼が食費を切り詰めるほどの苦学生だということを思い出したのだ。そもそもヴァローナが帝人と会うときはいつだって、職場の先輩が彼を餌付けしている時だった。
だから彼がこんな風にひとりで食事に来る―――誰かと共にならともかく、ひとりで甘いものを楽しみ来る―――なんて、不思議だと思ったのだ。
「あなたはどうして今日ここに来たのですか? あなたは金銭に余裕がないと先輩からききました」
他に話題などないのだから、多少唐突だと思いもしたが、その疑問を口から出すのにヴァローナは躊躇わなかった。きょとんと瞬く帝人の大きな瞳がメニューからヴァローナに移った。
「ちょっとした自分へのごほうび、みたいな感じで・・・・・来週誕生日なんです、ぼく」
どこか照れくさそうに笑う帝人に、ヴァローナは少し瞠目した。誕生日という言葉を久しぶりに聞いた。次に会ったら絶縁状どころか鉛弾をぶっ放されるような別れ方をしてきた父や父の上司に当たるリンギーリンが、まだヴァローナが幼子だった頃に誕生日プレゼントを贈ってくれた。それはたいてい小難しい内容の本で、ヴァローナが望んだとはいえ、普段から望んで与えられるものだったから、特別という雰囲気ではなかった。
誕生日なんてもう遠い過去の中にしかないものだ。少なくともヴァローナにとっては。しかしその単語は、目の前で座る少年にはよく似合った。きっとその違いが、この戸惑いを産んでいるのだと思った。
おめでとうと、言うべきなのだろう。しかしそれは最も自分に似合わない言葉なような気がして、思わず躊躇いが生まれた。疑問をぶつける時には欠片も生まれなかったのに。口を開きかけては閉じると言う動作を繰り返すという、挙動不審にもほどがある行動をしていたヴァローナの前に、ことん、とミルフィーユが乗った皿と抹茶オレのカップが置かれた。ごゆっくりどうぞ、という言葉とありがたみの少ない営業スマイルを残して運んできた店員は去っていく。
「あ、美味しそうですね」
完全に言うタイミングを逃して、その原因の一端を担っている店員に少し恨みがましい視線を向けた。帝人はまだメニューとのにらみ合いを続けていて、それはまだ終わりそうにない。
季節限定だと言う、抹茶を生地に練り込んだミルフィーユ。トッピングにイチゴのソースとホイップクリーム、カットされたイチゴ。抹茶オレの表面には花の模様が描かれている。どちらも美味しそうだし、きっと美味しいのだろう。
「帝人、イチゴは好きですか?」
「え、好きですよ」
「では差し上げます」
かたん、と皿ごと抹茶とイチゴのミルフィーユを帝人の前に置く。メニューから離れた帝人の瞳が大きく見開かれた。
「そんな悪いですよ。それ、ヴァローナさんが頼んだんですよ」
「私には抹茶オレがあります。問題はありません。それに誕生日には甘いものを食べることを肯定します」
さっくりとしたパートフィロをフォークで突き刺して、イチゴソースと生クリームに絡める。とろりと流れるソースが自分の服やテーブルを汚さないうちに、有無を言わさず帝人の口に突っ込んだ。
「美味しいですか、帝人?」
「ふぉふぃふぃいふぇふ」
フォークを口に突っ込んでいるためもごもごした聞き取りにくい発音になったが、表情を見る限り不味くはないのだろうと判断する。目を白黒させながらミルフィーユを咀嚼する帝人を眺めながら、ヴァローナは自分が満足していることに気がついた。
らしくない行動だと、自覚している。そこまで親しいわけではない少年の口に無理矢理自分が注文したスイーツを突っ込むなんて。それを不思議に思うけれど、ヴァローナは満たされていた。まるで夢を見ているような心地よい、満足感。
あぁ、これは夢なのだと、思うことにした。だからこんな自分らしくない行動をして、自分に似合わない感情に満足している。全て、夢だから。瞼を閉じて再び開ければ、全て消えてしまうものだから。だからこんなにも、満たされているのだ。
「ありがとうございます、ヴァローナさん」
唇の端にイチゴのソースとパートフィロの欠片をくっつけた帝人が笑顔で言う。ヴァローナは自分が唇の端に小さな笑みを浮かべていることを自覚しながら、先ほどまではあれほど躊躇っていた台詞を舌先に乗せた。今度はするりと水が流れていくかのようになめらかに、唇から飛び出す。
「誕生日おめでとうございます、帝人」
これも全て、夢だから言える台詞なのだと思った。ならばあと少しは瞼を閉じて、開けたくないと思った。
まどろんではだめ、だってそれは、夢の中の恋
写真はプリザーブドフラワー屋が作ったフリー写真素材集様よりお借りしました