俳優という職業上、そして平和島幽の人気を考えるならば変装という行為は仕方のないものだ。サングラス越しの色づいた街並みを眺めながら、幽はよくも兄はこれを年中つけていられるものだと感心した。濃く色づいた景色は視覚を刺激してきて、舞台の小道具でもなければつけない。深くかぶった帽子で目元は隠れると思うのだが、今夜はまだ時間が早いことも相まって人通りが激しく、見つかる可能性を大幅に上げているため、やむを得ず苦手なサングラスをしっかりとかけ直す。


 珍しく新宿で仕事があって、ならばあの人に会えるのではないかと、淡い期待と希望を胸にマネージャーの送迎を断って歩いているのだが、そう人生都合よく物事が運ぶものではないようだ。人の波をかき分けて歩くこと数十分、幽の目にはあの小柄な後ろ姿も夜の闇に紛れるような黒いコートも映らない。仕事での疲れで気だるい幽は諦めて自宅に向け歩く足を速めた、その時。


 「なんで今日に限ってこんなところにいるんですか!? 池袋に来るなって言うんだったらあなたこそ新宿に来ないでください!」


 「俺がどこでなにしてようが俺の勝手だろうが! とりえず死ね、十回死ね!」


 「一回死ねば十分でしょう! 馬鹿ですか? あなたは馬鹿なんですか? そういえば馬鹿でしたね! なんで卒業できたんですか馬鹿のくせに!」


 怒鳴りあいが聞こえるほうから青ざめた人々が慌てて駆けてくる。良く見れば半泣きの人もいる。幽はその向こうに、空を飛ぶ自動販売機とガードレールを見た。幽はあんなことをできる人物を一人しか知らないし、その人物と対等に罵詈雑言をぶつけ合える人物も一人しか知らない。


 「もうほんとうにストーカーで訴えますよ!? 書類だったら用意してあるんですからね! 静雄さんなんて暗い牢屋で美味しくないご飯食べて惨めな生活を送っていればいいんです!」


 なんだか良く分からない悪態を連ねながら駆けてくる青年の後ろに青筋立てた実兄がバイクを持ち上げているのを確認した幽はさっさとビルとビルの間に隠れると、ものすごい勢いで飛んできたバイクを器用に避けた青年がコートを翻しながら幽が隠れているビルの角を曲ったのを見計らって。


 するり、と走ってきた青年の身体に両手を伸ばして拘束し、


 音もなくそのまま暗がりへと連れ込んで、


 驚きに目を見開く青年の口元を片手でふさいで、


 青年と入れ替わるように幽はいまだ人々が逃げ惑う大通りへと飛び出した。タイミングよく角を曲ってきた実兄に、サングラスをずらして自分の存在を知らせる。今の今まで青筋を立てていた兄は幽の姿を確認するなり、手にしていた道路標識を下ろしてがしがしと頭をかいた。


 「なんだ、幽がいるなんて珍しいな」


 「うん、仕事でこっちに来たから。それよりまた帝人さんと追いかけっこ?」


 ぐにゃりと折れ曲がった道路標識に視線を向けると、静雄は先ほどの罵りあいを思い出したのか再び額に青筋を浮かべる。人間離れした握力に金属が悲鳴を上げているが、そんなこともおかまいなしに静雄は幽に帝人の行き先を尋ねた。


 「帝人さんだったらそこを一直線に走って行ったよ。あんまりにも早かったから、声をかける暇さえなかった」


 幽が指差した方向にはすでに人っ子ひとりいない。しかし静雄はサングラス越しの瞳に殺意を燃え上がらせると、幽に手を振ってすさまじい速さで駆けて行った。幽はまるでゴジラとモスラが暴れた後のような惨状になった周囲を見回しながら、いいですよ、と小さく囁いた。


 ひょこっと頭だけを暗がりから出す青年をリスのようだと幽は思った。彼と出会ったのはもう何年も昔のことだが、いまだに学生時代と変わらない童顔と動作のせいで、どこか小動物のような印象を受ける。幽がこいこいと手招きをしてようやく暗がりから出てきた彼を、幽は手を伸ばして抱きしめる。


 「ん、埃っぽい。ずいぶん長く、兄さんと走りまわっていたみたいですね」


 「だって静雄さんがいきなり追いかけてくるんです。あんな凶器振り回されたら、逃げるしかないじゃないですか」


 むすっと拗ねたように頬を膨らます彼の髪を撫でて、幽は小さく帝人さん、と彼の耳朶に囁く。似たようなやり取りを数年前から続けているのに、いちいちびくりとその小さな肩を震わせて反応する帝人を幽はいつだって可愛いと思う。


 「俺とは二カ月ぶりなのに、兄さんとはしょっちゅう会ってるみたいですね」


 睦言の甘さとは程遠い、例えるのなら腐りかけた果実のような甘さを含んだ、幽の呟き。どうしようもない嫉妬だと幽自身気づいて自嘲していたが、それが理性で止められるような感情ならば幽がとっくの昔に抑え込んでいる。こんな時、幽は自分の無表情に感謝する。もし感情が顔に出ていたのなら、今の幽はとても醜い顔をしているだろう。そんな自分を、幽は帝人に見られたくなかった。


 自然と帝人を抱きしめる腕に力が入る。まるで幼子が親に縋りついているようだと、幽の頭のどこか冷静な部分が、ふとそんなことを考えた。みっともない、と騒ぐ理性を感情が押しとどめて、もう少しだけ、と幽は帝人の肩口に顔をうずめた。


 顔は見えないが、気配で帝人が苦笑するのがわかった。


 「二か月ぶりなのに、ずいぶんなお言葉ですね」


 「・・・・・・聞き流してもいいですよ。ちょっと今俺、駄目になってますから」


 「幽さんは駄目になんかなってませんよ」


 よしよしと、帝人が幽の背中を撫でる。二か月ぶりの帝人の体温に、仕事続きでささくれていた幽の心が癒されていくのを感じた。自分の意思で決めた仕事だが、こうして恋人とろくに会えない状況の原因だと思うとどうしても恨みがましい気分を向けてしまう。


 帝人と幽を隔てる壁は厚い。それは二人が付き合いだした学生時代から存在したから今さらとなんだと考えるが、覚悟していても時折、幽は心が折れてしまいそうになる。こうたって兄から隠れるようにして密会を重ねて、そうして埋められる心の隙間などたかがしれている。四六時中いちゃついていたいわけではないけれど、せめて会いたいな、と思った時に顔が見れるようになりたい。そう思うのは贅沢だろうか。


 「先日放送された幽さんのドラマ、最終回でしたね」


 唐突に変わった話しに疑問を覚えて、幽は顔をあげて帝人を見た。うっすら微笑んでいる帝人からは、何の感情も見出せないが、幽は帝人が例え激怒している時でも微笑を崩さないと知っているので、これは地雷を踏んだかと身体をこわばらせる。


 帝人が言うドラマに幽を心当たりがある。最近人気が出始めてきた少女漫画を実写ドラマ化したもので、幽はヒロインの親友の相手役を務めた。そこそこの視聴率を誇ったそれは、来年の春に第二期が放送されることが決定され、今日の仕事もそのドラマの関係だ。主に女子高校生などが対象のそのドラマを帝人が観ていてくれたことに嬉しさを感じながら、幽は件の最終回のストーリーを脳内に再現してあ、と小さく声を上げた。


 「キスシーンありましたね、あのドラマ」


 帝人の言う通り、確かにキスシーンが存在した。仕事だからと割り切ってこなしたし、まさか帝人がそのドラマを観ているとは思っていなかったので失念していた。にこにこと笑う帝人に、幽は恐る恐る「怒ってますか?」と尋ねた。


 「いいえ、怒ってませんよ。仕事とプライベートを一緒くたにするほど、ぼくは子供じゃありませんから」


 ただ、いい気分じゃないのは確かですね、と続けた帝人に、それはそうだろうと幽は心の中で同意した。幽が静雄と追いかけっこをする帝人を見て静雄に嫉妬するのと同じように、帝人にもまた、幽の相手役の女性を羨む感情は存在するのだ。


 突然帝人の胸ポケットが震え、ピリリリと耳に痛くない程度の音量でアラームがなる。慌ててそこにしまわれていた携帯を取り出して画面に目をやった帝人は一言、タイムリミットみたいです、と囁いた。


 「青葉君に居場所がばれてしまいました。追いかけっこも逃避行も、もうお終いです」


 「・・・・・もしかして帝人さん、仕事抜け出してきたんですか?」


 部下にメールで帰還の旨を伝えた帝人は、いたずらっこのような微笑みを唇の端に浮かべて大きく頷いた。情報屋という胡散臭い、しかし情報社会となった現代ではかなり需要のある職業を生業としている帝人は、いったん仕事が入ると幽並みに忙しくなる。仕事が仕事なだけに一分一秒も惜しまれるその状況で抜け出してきたとなれば、彼の部下の苦労ははかりしれない。


 「幽さんが近くに来ているのに、会いに行っては、いけないんですか?」


 軽く拗ねたように唇を尖らせて、帝人はそんな言葉を囁く。不意打ちだ、と幽は呻いた。彼が可愛すぎて、今すぐその唇を奪ってしまいたくなる。これを無自覚で行っているのだから、本当に彼は恐ろしい。


 「仕事にとらわれたお姫様が、せっかく看守の目を盗んで逃げてきたのに」


 「でしたらこのままさらって、ふたりで逃げてしまいましょうか?」


 そっと彼の腰に手をまわして、まるでダンスを踊るかのようにその場で一回転をする。くすくすと笑う帝人の唇に触れるだけの軽い口づけを落として、幽は渋々身体を離した。幽のお姫様はさらわれることなんて、望んではいない。


 「今度はゆっくり会えたらいいですね、王子様」


 「とっておきの紅茶と茶菓子を用意しておきますよ、お姫様」


 冗談を言って、ふたり顔を見合わせて笑い合う。逃げることなんて考えてもいないし、避けているわけではない。滅多に会えないという事実は受け入れている。お互い現実から目をそむけていられるほど子供ではないし、折れそうになる心で踏ん張れないほど弱くはない。つないでいた手が離れても、指先だけがまだ、お互いを求めるかのように空中でさまよっていた。











 あなたとわたしの距離なんて、そんなもの犬にでも