掴まれた腕をどうにかする暇もなくロックオンの拳がこちらに向かってくるのが見えた。考える暇もなく足が勝手にロックオンの脛を蹴っていた。うわっ! とロックオンがひるんだ隙を狙って刹那の腕を掴んでいるロックオンのそれを反対の手でしっかり掴み、相手の体重を利用して重心を崩す。
「っ!?」
ロックオンが慌てて体性を立て直そうともがいたが、一度崩れた重心を直すのは難しい。素早く、そして正確に。綺麗に弧を描いてロックオンの身体が床へ倒れこんだ。
「いっでぇぇえええっ!」
背中と臀部を盛大に打ったロックオンが床をのたうちまわる。無様なその姿を横目に刹那は小さくガッツポーツをした。胸に湧き上がった達成感は心地良い。
「せーつーなーにーまーけーたぁぁあああ」
「うるさい」
ずるずると床に這いつくばって叫ぶロックオンの頭を容赦なく踏みつける。ぐえ、と潰された蛙のような声を上げて静かになったロックオンを尻目に、刹那はアレルヤが差し出したタオルを受け取った。
「お疲れ様。刹那最近すごくなってきたよね」
まさか生き別れたあなたの弟と特訓しているからです、とは言えない刹那は素早く目線をそらして適当に返事を返した。肉弾戦を好まないティエリアを除くマイスター全員による合同練習でそこそこの結果を残せたのは、密かに続けているハレルヤとの特訓のおかげなのは明らかだ。
トレーニングルームの隅に取り付けられている冷蔵庫からスポーツドリンクを出すと刹那はそれを口に含んだ。喉を滑り落ちる冷たい感触に疲れが全て吹っ飛んでいくようだ。
「ほらほら、ロックオンもいじけてないで立ってください。次、ぼくとあなたですよ」
「ぜってー負ける! きっと負ける! 刹那にだけは勝てると思ったのに・・・」
アレルヤが床でさめざめと泣きまねをしているロックオンを見て若干ひいている。あれでも最年長マイスターなのだと、刹那は複雑な気持ちでそれを見つめた。
「アレルヤ、俺はそろそろ行ってもいいか」
端末で時刻を確認した刹那は、少々慌てた口調で尋ねた。明日はまたハレルヤと会う約束をしている。これから地球におりる仕度をして、つくのはだいたい真夜中だろう。作戦時でもない限りガンダムを使って堂々とおりることはできないから、軌道エレベーターを使うとどうしても時間がかかってしまう。
「うん、お疲れ様」
ずるずるとロックオンの身体を引きずりながら微笑んだアレルヤが何か思い出したかのように、あ、と小さく声を上げた。
「刹那、地上に行く前にスメラギさんの所に寄ってって。今度のミッションプランについて話があるって」
「わかった」
閉まる扉の向こうで、いってらっしゃい、と手を振るアレルヤの姿が見えた。
刹那がいつもの公園に到着したのは、約束の時間の三十分ほど前だった。指定のベンチに腰掛け、きょろきょろとハレルヤの姿を捜すが、どこを見てもあの目立つ長身を見つけることは出来なかった。
刹那がこうしてハレルヤと会うようになってそこそこの月日が流れたけれど、お互いに端末番号を登録したり素性を尋ねたりするようなことはしなかった。会うたびに、じゃあ次は何日の何時にいつもの公園で、と約束をするだけ。いまだドタキャンされていないことが奇跡に近い。
それでいいと思う。本来なら自分とハレルヤは関わってはいけないのだ。約束されるのはたった数日分先の未来だけ。危うくなったらいつでも切られる関係の方がいいに決まっている。
(それを寂しく思うのは、間違い、だ)
立場を理解しろ。自分はなんだ? 何を背負っている? 何を夢見ている? 自分の未来は、どこだ?
(俺の未来なんて、ない)
戦争の根絶という大義名分があったとしても、人殺しの罪は消えない。消えたとしても、刹那は親殺しの身だ。生きていていいはずがない。ロックオンが全てを終えた後、罰を受ける覚悟をしているのと同じように、刹那もまた、償わなければならない。
だからどうか、その時までは。刹那がそっと心中で囁いとき、こてん、と何かが刹那の足に当たった。
「?」
それは小さな子供用のサッカーボールで、とてとてと寄ってくる幼い少年がこちらを凝視している。ぽん、とそれを蹴ってやれば少年は嬉しそうにサッカーボールを蹴りかえした。いや、別に仲間になりたかったわけではないのだけれど。
「お兄ちゃん、あそぼ」
まだ両手で数えられるくらいの年だろうその少年は、屈託のない眩しい笑顔で刹那を誘った。友人か親はいないのかと辺りを見回すが、それらしき子供や大人は見当たらない。
「お母さんならあそこ。あそんでくれないからたのしくないの」
こちらの意図を読み取ったのか、少年が指差した方向には談笑するふたりの女性。子供をほったらかしにして井戸端会議とは、と刹那は天を仰いで嘆いた。
「ほら」
軽く蹴るだけで、小さなサッカーボールはころころと転がっていく。楽しそうにそれを追っかける少年を見つめながら、刹那はふと彼に幼き日の自分を重ねている事に気がついた。
あの年頃のときは確か、小さな手には大きすぎるナイフと重石にしかならないようなマシンガンを担いで戦場を駆け抜けていた気がする。まだ神を信じていて、あの紅い男を本気で慕っていた、自分の暗黒時代。
「お兄ちゃん、早く!」
名も知らない少年に促されてボールを蹴る。ころころと見当違いな方向に転がっていったそれを慌てて追いかける少年。微笑ましい気持ちでそれを見守っていた刹那の表情が唐突に凍りついた。
「お兄ちゃん?」
ボールと持ち上げきょとんと丸い瞳でこちらを見つめる少年の隣に立つ男たちに、刹那は嫌というほど見覚えがある。逃げろ、と囁いたけれど、間に合わない事はわかりきっていた。
「よぉ、この間は世話になったな、お兄ちゃん?」
卑下た笑いを浮かべる男がからかいまじりに言った台詞に、どっ、とその場が沸く。なにもわかっていない少年の肩に手をやった男は、以前刹那とハレルヤがぶちのめした不良に間違いない。
じり、と無意識に身体が後退る。この間の軽く二倍はいるだろう男たちに対して、こちらはひとり。しかも人質まで取られている。
「・・・・・その子供は俺と何も関係がない」
「ああ、だったら俺らがこいつをぶちのめそうがなにしようが、お前には関係ないだろ」
ぎり、と歯が折れそうなくらい噛み締める。いつのまにか握り締めていた手のひらに爪が食い込み、皮膚を破いて赤い雫が流れた。どうして、どうして世の中はこうも不条理なのか。
「・・・・・何をしたらいい?」
吐き出すように投げかけた台詞に、男たちがついて来いと手招きをする。子供が先だ、と視線で促せば男はゆっくりと少年から手を離した。
「お兄ちゃん、あそばないの?」
「いや、少し用事が出来た」
首を傾げる少年に悟られないように精一杯の演技をする。子供はその場の不穏な空気を感じ取ったのか、どこか不安そうな表情を見せた。どうか、何も気付かないままで。刹那は真剣に願った。
(ハレルヤ、来るな。お前は来るな)
もう彼を巻き込んではいけない。自分ひとりで片をつけなくてはならない。それがどんな無理難題だとしても、どんな怪我を負ってしまっても。彼を頼ってはいけない。彼を望んではいけない。
「お兄ちゃん、またね」
無邪気に少年が手をふる。それに手を振り替えして、けれど唇はさようなら、と動いた。唇を噛み締めて、黙って先を行く男たちの後に続く。
(またね、なんて言えない)
未来なんて、約束できない。