刹那が寄りかかっている電柱からざっと三百メートルほど前、背が低い幼児でも使えるようにと低い位置にも蛇口がついている水道から少し斜め左十メートルくらいに設置されている黄色いベンチに。


 (・・・・・いる)


 平日の午後という時間帯のためかベビーカーをひく女性もしくはきゃっきゃとあたりを走り回る子供しか見当たらない公園には、ベンチにどでんと座っている長身の男の姿はものすごく似合わない。浮いている。浮きまくっている。恥ずかしくないのだろうか、あれ。


 けれども彼がああやってあそこに座っている原因はまちがいなく刹那自身にあるのだから、刹那があそこに行かない限り彼はずっと座っているのだろう。さすがにこのまま放置して帰れるほど刹那も性格が歪んでいるわけではないので、ため息ひとつ吐き出して刹那は男に近付いた。


 「遅せぇよ」


 「時間なんて指定していない」


 またな、と軽く手を振った、ただそれだけの簡素な約束。時間も日時もなにも決めていなかったのに、ハレルヤはまるで当然だといわんばかりにそこにいた。昨日と全く同じ時間帯に刹那がここに来なかったら、彼はいったいどうしていたのだろうか。


 どっこいしょ、と爺臭い動作でハレルヤが立ち上がる。それが何を意味するのか悟った刹那は、黙って円状になっている石畳の通路の中央へと立った。


 「時間制限は?」


 「なしでいいだろ」


 「では戦闘不能もしくは降参したほうが敗者」


 「とりあえずぶっとばせばよし」


 なんとも適当なルールがさくさく決められていく。膝を屈伸させたり腕を伸ばしたりして一通り準備運動を終えたふたりが静かに向き合う。


 ふたりにしか聞こえないゴングが高らかに鳴った。











 「お前、動きに無駄がなさすぎるんだよなー」


 何回目かの休憩中に、ハレルヤがぼそっと独り言にしてはあからさまな、しかし刹那に向けたにしては視線が伴わない声を上げた。水道で顔を洗っていた刹那は犬のように首を振って水滴を飛ばすと、説明を求めてハレルヤのもとへ駆け寄った。


 「正直すぎるっつーか、お前フェイントとかなんも考えてねーだろ? お前みたいなちっちぇ奴は馬鹿正直に正面から行っても無謀すぎる」


 例えばだな、と唐突にハレルヤの右の拳が刹那の顔面目掛けて飛んできた。とっさに腕を十字に組んで顔をかばった刹那の腹部に、ハレルヤの左の拳が軽く当たった。


 「ほれ、全力で顔をかばっただろ。そのせいで腹ががら空きだ。別にフェイントが嫌いっつーなら無理にとは言わねえが、ちったあ考えとかねえと俺に勝とうなんざ百年かかったって無理だな」


 ぐっ、と刹那が黙り込んだ。確かについさっきの試合結果が示す通り、刹那の動きには無駄もなかったが、フェイントだとかおとりだとか、ないよりあったほうがいい動きもなかった。そういえば同じような事をクルジスで赤毛の男に言われたことがあった。


 小さいナイフ片手に何度も挑んだけれど、自分の何倍も大きなあの男はいつだって簡単に刹那を地面へとねじ伏せてしまって。越えることの出来ない壁の存在をありありと感じたあの頃から自分は成長しているはずなのに。


 (いったい何が変わったというんだ)


 握り締めていたナイフがガンダムの操縦桿になっただけではないのか、と頭の中で冷静な誰かが嘲笑った。


 「おい、どうした?」


 ハレルヤの手がひらひらと目の前で振られて刹那はハッと我に返った。説明を求める視線が逃れられず、ぼそぼそと言い訳を述べる。


 「・・・・・昔、似たようなことを言われて。何も成長していないんだ、と自己嫌悪に陥っていただけだ」


 沸き我がる羞恥から目をそらすようにそっぽを向く。ふうん、とハレルヤが呟いて考え込むように顎に手をやった。


 「今から成長すればいいんだろ」


 こいよ、と挑発するようにハレルヤが右手の人差し指で呼ぶ。首をかしげて、しかし彼が何をしようと、否、してくれようとしているのか悟った刹那は大人しく後に続いた。


 「お前、受けも馬鹿正直なんだよな・・・・ちょっと打ち込んでみろ、刹那」


 戸惑いながらも真剣に刹那は力を抑えた、けれどそのぶん早い突きを打ち込んだ。ハレルヤの真正面から打ち込んだそれは、しかしハレルヤが打ち込んだ腕と反対の腕でするりとごく自然に受け流してしまう。


 「真正面からきたのを真正面から受けても痛いだけだ。こうやって身体をひねりながら打ち込んできた腕と反対の腕で流せばその分ダメージも減るだろ」


 お前の番だ、と言われて見よう見まねで同じように構えを取る。とたんに飛んできた鋭い突きを先ほどのハレルヤの動きを思い出して横に流す。理にかなっているだけあって、それほどダメージを受けずに流すことが出来た。


 「じゃ、これ後50回ずつを3セットな」


 頷く暇もなく左右から次々飛んでくる突きを必死になって受け流す。最初はたどたどしかった刹那の動きも、20を越える頃にはごく自然に動くようになった。教えがいがあるのか、ハレルヤは始終楽しそうに笑っている。


 集中していたためか必死だったためか、休憩と言われた頃にはすでに刹那は肩で息をしていた。普段の筋トレの何倍もの体力を使った気がする。他のメンバーと落ち合っている時はともかく、普段から単独練習が身についている刹那にとってふたりで行うトレーニングなど行ったことがないから何か新鮮だった。


 「お前、誰から教わった?」


 ハレルヤから投げられた質問に刹那の身体が揺れた。どこまで話していいのか、CBのマイスターとしての自分が冷静に判断をくだす。間違ってもあの男の名前など出してはいけない。


 「知り合い。そいつも独学だと言っていたが」


 「ふうん。お前の動きってさ、馬鹿正直っていうのもあるんだけどよ、なんか荒っぽいんだよな」


 まるで乱雑に彫られた木造みたいだ、とハレルヤは呟いた。かろうじて物の形はしている、けれど彫った後がくっきりと残されまだまだ完成には程遠い木造のようだと。


 「独学っつんなら納得だ。ひたすら基礎だけ叩き込んであるみたいだな、お前の身体には」


 叩き込まれた、というよりは必死に技を盗むしかなかったというのが正解に近い。刹那に戦う術を教えてくれた男は懇切丁寧に技を教えてくれるような人ではなかった。与えられたのは一本の小さなナイフ。後はひたすら戦った。何度も投げ飛ばされるなか自力で学ばなければ、きっと役立たずとして捨てられていただろう。実際、そうやって何も掴み取れずに捨てられた同胞を刹那は何人も見ている。


 まさしく命がけだったあの頃を少しだけ思い出して、刹那の瞳が揺らいだ。思い出すには苦しくて辛い過去だが、間違いなく生きるための術があそこにはあった。


 「ハレルヤは独学か?」


 「いんや、俺のは・・・・ちっとそーゆーのに口うるさい奴がいるんだよ」


 何かを思い出したのか、ハレルヤの黄金の瞳が遠くを見るかのように細まった。何を見ているのか尋ねようとして、けれど刹那は口を閉ざした。ハレルヤの瞳が、あの日泣きそうに笑っていたアレルヤの瞳と同じだったから。


 (見たくないものを見てる)


 それがアレルヤの言う『生き地獄のような場所』なのか、何も知らない刹那にはわからなかった。アレルヤに訊けば何かわかるのだろうけれど、たぶんそれは訊いてはいけないことだ。


 刹那にも踏み込んできて欲しくない領域はある。それはどれだけ心許した相手だろうとも、絶対に。CBという組織にいるからにはアレルヤにだってその領域は必ずある。いつも飄々としているロックオンにだってきっとある。CBにいる者はみな、そういった踏み込んではいけない領域を持っている。


 だからハレルヤが今見ているものについて尋ねてはいけない。それはハレルヤの傷口を抉るような行為だ。抉るまではいかなくても、刹那が入ってはいけない領域だ。


 頭がそう理解しているのに、刹那はどこか遠くを見ているハレルヤの姿を見て、なぜだか寂しいと感じた。  











  参考 笠尾恭二著、大泉書店 『護身術入門』