彼女は世界から奪われてばかりだった。


 女性としての幸せも、人間としての幸せも、全て。


 だから世界が変われば、彼女は幸せになれると思った。


 思って、いたのに。











 朝起きると俺は食事の支度をする。俺の好みでジャガイモ料理ばかり作っていたら、刹那に怒られてしまった。なので今朝は無難なトーストとスクランブルエッグ。これなら刹那も文句は言うまい。


 朝食を作り終えると、俺は刹那を起こしに行く。だけど俺が刹那を起こした事はない。いつも俺が行く前に、刹那は起きているから。


 「おはよう、刹那」


 「おはよう、ライル」


 ベッドの上で上半身を起こして、刹那は俺を待っていた。赤褐色の瞳が、ゆっくりと俺を見る。否、俺のほうを見る。


 俺は部屋の隅に停められている車椅子をベッドの傍まで移動させると、刹那を抱き上げてそこに座らせた。自力で歩く事がなくなった刹那は、とても軽い。


 「いつもすまないな、ライル」


 「いいって」


 微笑む刹那の瞳は、俺を見ていなかった。














 アロウズとの最終決戦を生き残った刹那は、酷い有様だった。半壊したダブルオーガンダム。そのコックピットにいた刹那は血塗れだった。敵の攻撃がコッピットをかすめたらしい。割れたヘルメットの破片が刹那の両目に突き刺さり、彼女は両目を失った。両目だけではない。刹那の両足は膝から下がちぎれていた。


 擬似太陽炉のGN粒子には細胞に悪影響を及ぼす。そのせいで、刹那の両足は再生治療ができなかった。宇宙空間に長時間さらされた両目もまた、治る事はなかった。


 その事実を突きつけられても、刹那が泣く事はなかった。俺たちの見えないところで涙を流しているとか、そういう様子もなかった。冷静に、全てを受け入れていた。


 「刹那は好き嫌い多いけど、スクランブルエッグは食べれるよな」


 「ああ、問題ない」


 刹那がゆっくりとスクランブルエッグを食べ始めたのを見て、俺は安堵の息を吐いた。刹那は意外と好き嫌いが多い。暮らし始めてからの俺の悩みはどうやって刹那の好き嫌いを減らすか、だ。


 歩く事はおろか、身支度すら一人では出来ない刹那を俺が引き取った。刹那は最初は渋い顔をしていたが、専門の施設よりは、と了承した。その他大勢と暮らすよりは、俺のほうがマシらしい。


 午前中は家の掃除をして終わった。昼食を終えた後、俺はぼんやりと窓の外を眺めていた刹那に声をかけた。


 「刹那ぁー、買い物行くけど一緒に来る?」


 「行く」


 俺はなにかと理由をつけて、刹那を外に連れ出すようにしている。そうしろと、医師から言われている。景色を楽しむ事は出来ないが、ずっと部屋の中にいるよりそのほうがいいらしい。


 「夕飯の材料買って、トイレットペーパー買って・・・・あとなんかいるもんあったっけ?」


 「石鹸がないと言っていなかったか?」


 「あ、そうだった」


 買うものを指折り数えて、メモに記入する。それから刹那の着替えを手伝って(最初はためらっていた着替えも、今では難なくこなす事が出来る。どうやら俺を異性として意識する事をやめたらしい。いいことなのだろうが、俺としては少し複雑だ)、ようやく外出の準備が出来た。


 俺たちが暮らしている街は都心から少し離れた、山に近い緑が多い場所だ。そこそこ活気があり、暮らすには不自由しないところだ。都心は人が多すぎて、刹那が暮らすには適していない。


 「ん?」


 「どうした、ライル」


 刹那の車椅子を押しながら歩いていた俺の足に何かが当たった。視線をさげて見てみると、それは土ぼこりに汚れたサッカーボールだった。俺たちが通りかかったのは広い児童公園で、見ればサッカーボールの持ち主らしき少年たちが慌てた顔で駆けてくる。


 「すいませーん」


 「おう」


 俺は駆けてくる少年たちに向かってボールを蹴った。昔少しかじっていたこともあり、ボールはまっすぐ少年たちの足元へと転がっていった。


 「おおー」


 「おっさん、すげー」


 「どーいたしまして。だけどおっさんはやめろ、おっさんは。せめておにーさんな」


 たしかにもう三十路だが、おっさん扱いは心外だ。少年たちは顔を見合わせて何事か相談した後、俺に向かって一緒にサッカーやってくれないか、と提案してきた。なんでも来るはずだった子が来れなくなり、人数が足りないらしい。


 「俺はいいんだけど・・・こっちのおねーさんが、ね」


 「俺なら大丈夫だ、ライル」


 刹那が微笑むと、少年たちは歓喜に沸いた。俺は車椅子を俺の目が届く範囲に停めると、騒ぐ少年たちに向かってボールを蹴った。














 夢中になると時が経つのが早く感じるようになる。俺が刹那の元へともどったのは空が茜色に染まった頃だった。少年たちはまたね、と帰っていった。次回があるということだろうか。


 「ごめんな、刹那。ちょっと夢中になった」


 「もう夕方じゃないのか。夕飯、どうするんだ?」


 「・・・・・夕飯、デリバリーでいいか?」


 「・・・・・仕方ないな」


 今から買い物をしていたんじゃ、夕飯が出来上がるのは夜中になってしまう。刹那にお許しをもらったので、今日の夕飯は手抜きに決定した。


 することもなくなった俺たちは、公園の中を散策する事にした。意外と広いこの公園は散歩するのにとても適している。


 「なんで、さ」


 車椅子を押しながら、俺は囁いた。


 「泣かねぇの?」


 「必要がないからだ」


 淡々と刹那は答えた。その声からは、何の感情を感じられなかった。


 必要がない? なんで? なんでそんな事がいえるのだろうか。


 悲しくないわけがない。つらくないわけがない。世界が憎くないわけがない。世界は刹那から色々な物を奪ってきた。ようやくまっとうに生きられると思ったら、今度は自由と光を奪われて。


 なぜ、そんな冷静にいられるのだろう。


 「足がなくとも、目が見えなくとも、生きる事に支障はない。それにな、ライル」


 刹那の手が、俺の手に触れた。ぐい、と手を引かれて俺は身をかがめた。近づいた俺の顔、刹那の手は俺の頬をなでた。


 「目が見えなくとも、今お前が泣きそうな顔をしているぐらいわかる」


 俺は呆然と自分の顔を触った。顔の筋肉はこわばっていて、そこで俺は初めて自分が泣きそうになっていることに気がついた。


 「え・・・・・」


 「なんだ、お前。気がついていなかったのか」


 呆れたように刹那は微笑んだ。その顔を見て、こぼれかけていた涙は引っ込んだ。


 あぁ、足がないとか、目が見えないとか、そんなささいなことは刹那を揺らぐはずがないんだ。


 幼い頃から戦場にいた刹那は、どれだけ生きていく事が嬉しいか知っている。戦場で生きのびることがどれだけ難しいか知っている。だから刹那は泣かなかった。両足と両目がなくなろうとも、生きていたのだから。


 「ははっ」


 「なんだ、いきなり笑い出して」


 「ごめん。なんかさ、俺かっこわりーって思って」


 ぐだぐだ勝手に悩んでいた俺は一体なんだったのだろうか。そう思ったら笑えてきた。


 「刹那、そろそろかえ」


 車椅子を動かそうとした時だった。


 耳に響く羽音。視界一杯に広がる白。突然の出来事に俺は硬直した。


 「・・・・・この音は鳥か?」


 「あ、ああ。池にいた鳥が一斉に飛んでった・・・」


 それはもう壮観としか言いようがない。はらはらと舞い散る羽が、俺の目には雪のように見えた。


 「そうか。それはとても」


 刹那は、見えなかったであろうその光景に思いを寄せるかのように。


 「美しい、だろうな」


 「・・・・・ああ、とても」


 出来る事なら、刹那にも見せてやりたかったくらい。それはとても美しかった。


 あぁ、俺たちが戦ってきた世界は、こんなにも美しかったのか。


 「刹那、そろそろ帰ろうか」


 「ああ」


 車椅子を押しながら、俺は帰路に着いた。足取りは軽い。俺の心を占めていたもやもやは、全部吹っ飛んだ。


 明日からはきっと、楽しく生きられるだろう。