「そこの可愛いおにーさん、俺と仲良くお喋りとかしてみません?」


 流されてしまいそうになる人の波をすいすいと器用にかわしながら歩いていた帝人は、人々の雑談や車のエンジン音などで鼓膜などに紛れてしまいそうなその声を正確に自分に向けられたものだと判断し、くるりと後ろをむいた。そこに立っている、今は学校名と共に変わってしまった母校の制服を着た顔見知りの少年の姿を認めて、にやにやとまるで童話の猫のような笑みを浮かべている彼によく見えるように溜息をついた。


 「可愛くないお兄さんなので遠慮しておきますよ、臨也さん」


 「えぇー、俺のおごりでもいいよ? どう? ときめかない?」


 「全然」


 つれなぁーい、と笑う臨也を無視して帝人は歩きだす。どうやら用があるのは本当らしく、ちょっと待ってよ、と腕を掴まれてやや強引に近くにあったコーヒーショップへと連れ込まれた。可愛いと言われたことは確かに腹が立ったが、帝人もこの少年との対談はデメリットばかりではないと理解していたのでさして抵抗もせず受け入れた。


 どうせ奢りなのだから、と帝人はストロベリーシェイクと限定品だというマフィンと頼んだ。臨也が注文を訊きに来た女性にカプチーノ、と答えたところで、帝人は「で、要件はなんですか」と臨也を促した。臨也が相変わらずにやにや笑いを浮かべたまま、「ちょっとね」と前置きをしてから口を開いた。


 「平和島静雄について、聞きたくて」


 予想外の人物の名前が彼の口から飛び出して、帝人は何かの聞き間違いじゃないかとわが耳を疑った。しかし、平和島静雄という人物の人となりを考えれば、それは十分臨也の食指が動く理由に値する。


 「静雄さんについてなんて、池袋を歩いていれば嫌でもわかるでしょう?」


 「そうじゃなくて、なんで帝人さんがそいつのこと嫌いなのかなって」


 その答えを絞り出すのに、帝人は注文した飲み物がやってくるまでかかった。


 平和島静雄のどこか嫌いか尋ねられても、帝人にはウマが合わないとしか答えられない。どんなふうに嫌いか具体的に尋ねられてもけっこう困る。じゃあ好きなところは尋ねられてもかなり困る。その旨を向かい側に座ってカプチーノをすすっている臨也に伝えると、彼はその紅い瞳を瞬かせてなにそれ、と唇を尖らせた。


 「結局平和島静雄が嫌いってことしか、わかんないじゃん」


 「それだけわかっていれば十分でしょう。とにかく、あの人とはウマが合わないんですよ」


 ストロベリーシェイクをストローで意味もなくかき混ぜながら、帝人は話題の同級生について記憶を掘り返したがそれだけで気分が悪くなった気がして、吐きそうな感情をストロベリーシェイクで喉の奥深くへと流し込んだ。


 「つまんないの。なんかもっと、複雑に絡み合ってどろどろした大人のジジョーがあると思ったんだけどなあ」


 「臨也さんがぼくに何を求めているのか全くわからないんですけど」


 かつての同級生との不和にどろどろした事情を求められても、そんなものどこをひねり出したって出てくるわけがない。相性が悪いと判断したその日から帝人は静雄に近づかないようにしてきたのだが、なぜか静雄のほうから近づいてくるのだ。そのくせ、いちいちキレて教卓だのロッカーだの投げてくるのだから理不尽としか言いようがない。彼との腐れ縁は高校を卒業とした今でも不本意ながら続いているが、叶うのならばそのまま腐り落ちてしまえばいいと帝人は思っている。


 「嫌いですよ、静雄さんなんて」


 彼は帝人にはないものを持っているくせに、ずっとそれを手放したがっている。帝人は情報屋という職を生業としてやっと踏みこめる非日常へ、彼はずかずかと歩きだせるくせにそれを忌み嫌っている。帝人はずっとそれが欲しかったのに。


 しかしそれはお互いさまだと、帝人もわかっている。静雄は本来、こちら側にいるべき人間ではない。化け物じみた力を持っているのに、あまりにも彼は普通すぎる。帝人が静雄の怪力を欲しがってに静雄も帝人の平凡さを羨んでいるのだと、帝人は知っていた。


 帝人には静雄は平凡を欲しがる理由が理解できない。だから、彼を理解しない。理解できないものを理解しようとする行為は、それだけで愚かなことだから。


 だから彼について語るべくものなど、語れるものなど、なにもない。


 「でもなんで、いきなりそんなことを訊くんですか」


 「ん、帝人さんがさ」


 カプチーノをかきまわすためについてきたプラスックのスプーンをがじがじとかじって玩びながら、臨也はなんてことないようにさらりと言った。


 「俺といるときはあんまり表情変えないのに、平和島静雄と会うと一気に人間っぽくなるんだもん。なんかむかついて」


 「・・・・・・・・ぼくが?」


 「気づいてないの? ものすごくむかついて腹立って羨ましくて、たまらないって顔してる」


 それが気に入らないんだよねえ、と独り言のように囁いた臨也の言葉など帝人の耳に入ってなかった。呆然と、いつも静雄に会うたびに胸の内に湧き出していた感情を探る。それは決して、良いものではないけれど。


 「嫉妬って人間だけが持っているものだからね。今みたいに薄っぺらい笑顔貼り付けている帝人さんよりは、よっぽど人間らしくなってるよ」


 ねえ、帝人さん、と。気がつけばいつのまにか臨也の指がそっと帝人の頬に触れていた。形を確かめるように丹念に臨也の指が帝人の頬を這う、その感覚に嫌悪とも好感ともつかない感情が駆け抜けて背筋がぞくりとした。


 「帝人さんを俺のモノにしちゃえば、こんなむかつくことないのかなあ」


 そう言って笑う臨也は実に人間らしい顔をしていた。笑っていはいない赤の瞳に映っている感情はきっと、静雄と会うたびに帝人が浮かべているものだ。


 その告白めいた、しかしどろどろと汚泥を煮詰めたような感情に染まった台詞に対しての答えを伝えるために帝人が口を開いた瞬間、彼の瞳に映ったのは窓ガラスの向こう側からこちらに向かって飛んでくる自動販売機だった。


 ガラスが割れる甲高い音、客の悲鳴、ひしゃげた窓枠、キラキラと光を反射しながら落ちていくガラスの破片越しに見えた、見覚えのありすぎる金髪。


 「なんですかね、あの人。ぼくにGPSでもつけているんですかね」


 「GPSっていうか、M(帝人くん)P(ポイント)S(システム)のほうが正しくない?」


 「そこ、今俺上手いこと言ったみたいな顔しない」


 慌てて共に伏せた臨也の頭をぱしりと叩いた帝人は、彼の頬にガラスの破片で斬ったらしい傷がひとつ、生々しい血を一筋たらしながら存在しているのを見つけた。道路側を向いていたため素早く動けた帝人と違い、臨也は自動販売機に背を向けていたのだ。むしろこの程度で済めて幸運ともいえる。その傷口に常備している絆創膏をぺたりと貼り付けて、帝人は驚いて指先で頬の絆創膏を撫でている臨也に背を向けた。


 「どうせあの人の狙いはぼくですから。臨也さん、ここの会計お願いしますね。どうせならマフィンも食べておくんでした」


 「俺も死にたくはないし。じゃあ帝人さん、また会いに行くね。今度は誰にも邪魔されないようにふたりっきりで旅行にでも行こうか?」


 「遺言でしたら死んでから言ってください」


 臨也に冷めた視線を送ってから、帝人はさっさと店を出る。自分があれ以上そこに留まれば、店が物理的に潰れることは目に見えていた。さすがに罪もないコーヒーショップを再起不能にさせて痛まないほど帝人も鬼ではないので、これ以上被害が出ないよう素早く店から離れ人通りの少ない路地裏へと駆けこむ。それまでにも数回、コンクリート片だとか折れ曲がったガードレールだとかが背後から飛んできたが、高校時代から鍛えた勘の良さでひょいひょいとかわす。


 「可愛くない後輩との楽しくもないお茶を飲む時間さえ、ぼくには与えられないってことですか? そろそろぼくも怒りますよ」


 「楽しくもねえ時間なら潰されたって文句ねえだろ」


 「ありますよ。あなたごときに、ぼくの時間を潰されてたまるかってんです」


 馴染みのバーテン服に身を包んだ知り合いは今日も最悪に絶好調のようだ。車にはねられて死ねばいいのに、と心の中で呪詛を送っておく。彼が車にはねられた程度では死なないと知っていたけれど。


 しゅん、と空間を裂くように飛んできた自動販売機に行く手を遮られる。舌打ちを漏らしながら方向転換して、道路標識に頭をぶっ飛ばされる前に手身近にあった横道へ飛び込んだ。周囲の地図を脳内で広げ、この先が行き止まりだと思いだしたころにはすでに背後から飛んできた道路標識のせいで身動きが取れなくなっていた。


 「あーあ、こんなに簡単に追い詰められるなんて。ぼくももう歳ですかね」


 「昔からちっともかわんねー顔してるくせに。妖怪か、てめえは」


 「うるさいです。顔のことを言ったらボールペンで刺しますよ」


 懐から取り出したボールペンを構える。例えこれで手のひら貫通させたとしても、彼はいたって普通に動き回るのだからやってられない。痛がるとか、せめてあせるとかそういう反応をしてほしい。


 「さっきあのガキと何話してた?」


 「ガキって臨也くんですか? 世間話ですよ。ていうかなんでぼくのプライベートをあなたに暴露しないといけないんですか」


 「いいからさっさと言えよ」


 いらついたのか、静雄の手に握られている電灯の柄がぐにゃりと曲った。その横暴な物言いに帝人も腹が立ったが、彼相手に押し問答をしても何も始まらないと経験から学んでいるので渋々話す。


 「俺のモノになれって言われただけですよ」


 ばきゃ、と静雄の手の中で電灯の柄が折れた。サングラス越しに見える怒り狂うライオンのような彼の瞳と目が合って、帝人は反射的にやばいと思った。


 「気に入らねえな」


 折れた電灯の柄が帝人の頬をかすって、後ろの壁に突き刺さった。ぴり、とした痛みと共に頬になにか液体のようなものが伝う感触がするが、確かめようにも指一本動かせない。


 「てめえは俺の獲物だろうが」


 その言葉に帝人の脳内で何かが切れた。臨也といい静雄といい、どいつもこいつも好きか手に人の地雷を踏みつぶしていく。我慢できなくなった帝人は、ボールペンを彼の眼球めがけて投げつけると、それをよけるためにできたわずかな隙を見て静雄の懐へ飛び込み、彼の首へ両手を伸ばした。


 「だれがいつ、あなたのモノになりましたか」


 身体中の血液が沸騰しているかのような感覚。こんなにキレたのはいつぶりだったかと、どこか冷静な頭の一部が考える。


 「だれがあなたのモノなんかになるもんか」


 ぼくは誰のものにもならないと、目と鼻の先にある静雄の顔へ噛みつくかのように唇を寄せる。帝人は決して、静雄の獲物なんかではない。


 「あなたがぼくの、獲物でしょう」


 帝人は肉食獣のような瞳で獰猛に笑った。その喉元に喰らいついて噛み千切ったら自分の胸に一体どんな感情が生まれるのだろうか。嫉妬など冗談ではない。誰が嫉妬などするものか。帝人はその感情を噛み砕くかのように、上下の歯を噛みしめた。





   











お題は歌舞伎さんよりお借りしました。