園原杏里は覚えている。どんなに年月が過ぎ去ろうと、瞼を閉じればつい先ほどのことのようにありありと思い浮かべることが出来るそれは、きっと色あせることなく永遠に杏里の中で輝き続けるのだろう。


 忘れもしない、来良学園入学式の日。中学校からずっと一緒だった張間美香のそばにぴったりと寄り添い、まるでそうしなければ呼吸すらまともにできないような状態だった、あの日。


 自分の中で呪いともとれる愛を延々と囁き続けている罪歌が、ぴたりとその愛を止めた瞬間。


 恐ろしいくらいの静けさに眩暈がした、あの瞬間。


 『あら、ご覧なさい。私よりもあなたよりも恐ろしくて可哀そうなバケモノがいるわ』


 お決まりのBGMではない、罪歌の声。


 弾けるように振り返ったその先にいる、じっとこちらを凝視している少年。


 私服登校を許可しているこの学校で、珍しくもきっちり制服を着込んでいる少年。


 杏里と目が合った瞬間、おぞましいほど綺麗に微笑んだ少年。


 まるで、杏里の中にいる罪歌の存在を知り、それが嬉しくてたまらないというふうに笑う少年。


 杏里の肌という肌がいっせいに鳥肌をたて、背筋に冷水が滑り落ちていくような感触に身体を震わせる。口を開けても上手く酸素が取り込めず、脳が酸素を求めてクラクラするなか、杏里はまるで金魚のように口をパクパクさせていた。


 恐怖ではない。


 それは恐怖に近い、畏怖。


 罪歌に自分以上のバケモノと言わしめた、見た目は普通の少年であるクラスメートに杏里が初めて抱いた感情であった。


 「初めまして、えっと・・・園原杏里、さん」


 彼にそう声をかけられて、挨拶を交わして、握手をして。そうして園原杏里は竜ヶ峰帝人という少年と知り合いになり、世界には自分以上のバケモノが存在しているのだと、文字道理痛感することとなった。

















 少し疲れたような顔で席に着いた竜ヶ峰帝人を見て、あれ、と杏里は首をかしげた。常に制服を基本とする帝人には珍しく彼は私服登校であった。杏里も何度か目にしたことのある私服姿の彼は、けれど教室という場所で見るとどこか新鮮であった。


 「おはよう、園原さん」


 「おはようございます、竜ヶ峰くん。あの・・・」


 「あ、これのこと?」


 帝人が自分の服装を見て困ったように微笑む。杏里の控えめな質問はその全貌を口に出すことなく、杏里の表情だけで全てを察した帝人によってやんわりと遮られた。


 「昨日ちょっと色々あってね。制服駄目にしちゃったんだ」


 「え・・・・大丈夫です、か?」


 「ちゃんと注文したから問題ないよ。届くまで私服登校になっちゃうけど」


 慣れないせいで居心地が悪いのか、どこか落ち着かない様子で帝人がしきりに周囲を気にする。もっと奇抜な服装で登校している学生が多いなか、異常なほど地味な彼はかえって浮いているほどだ。


 「・・・・昨夜、近所の工事現場で事故がありました」


 朝が早いためまだ教室には誰もいないが、それでも故意に声を静める。ぴくり、と帝人の眉が小さく反応したのを見て、杏里は自分の考えが正しいことを知った。


 「近くで平和島静雄さんと折原臨也さんが目撃されたことから、おふたりの仕業だということで済まされていますが・・・・・現場には、人間ひとりだとしたら致死量の血痕が残っていたそうです」


 咎めるわけではないが、竜ヶ峰くん、と囁いた声は自然と鋭くなる。非難ではなく心配と不安を詰め込んだ声に、帝人がごめんね、と小さく囁いた。


 「うん、それはぼくだよ。あのふたりが絡んでいるのは本当だから、ぼくが動かなくても誤魔化せると思ったけど」


 「実際、平和島さんの血液ではないか、と。あの人なら、どれだけ出血しても平気そうだという噂、です」


 「確かに出血多量ぐらいじゃ死にそうにないけど、さすがに血液を調べられたらやばいなあ」


 難しい表情で考え込んでしまった帝人を気遣って、質問はまだまだ山のように残っているけれど杏里は口を閉ざした。帝人が無事なら、そして彼の正体が世間に露呈しなければ、特に杏里は気にしない。


 正臣が帝人の為に黄布賊を利用する覚悟があるように、杏里もまた、帝人を守るためならば罪歌の娘たちを使うことを躊躇わない。いざとなれば帝人の駒として使ってもらえればそれで結構。


 「しかし・・・・その様子ですと、おふたりに知られてしまったんです、ね」


 図星だったのか、帝人が気まずそうに目線をそらす。まるでやんちゃがばれて叱られる子供のようなその仕草に、杏里はくすり、と小さく笑った。


 「仕方ないですね、竜ヶ峰くんは」


 「ごめんなさい・・・・・正臣にも散々怒られたから、ほんと、反省してます」


 どうやらずいぶんこってり絞られたらしいので、杏里からこれ以上なにか言うのは躊躇われた。避けられない偶然の事故ならば帝人の責任ではないし、杏里の想像以上に要領のいい帝人のことだ、この後の処置についても色々策を練っているのだろう。


 「けれど、身体は大切にしてくださいね」


 帝人が無茶をするたびに口にするそれは、帝人にとって苦痛以外の何物でもないと杏里は知っている。けれど心からの本心を偽るような真似は、例え相手が彼であろうともしたくない。


 杏里にとって、帝人は生きていくための拠り所であり希望でもある。罪歌と寄生しあって生きている、もはや人とは呼べない杏里から見ても、恐ろしく悲しくおぞましいバケモノである帝人が。


 自分以上のバケモノが生きていることによって、杏里は自分が認められているような許されているような、後ろ暗い心地良さを得ているのだ。


 酷い話だと、杏里自身思っている。人ではない自分が認められたり許されたりするわけがないとわかっている。それでも誰かに寄生しなければ生きていけないのは事実で、帝人という罪歌を上回る宿主が魅力的なのも確かだった。


 帝人は杏里の希望だ。


 彼が生きているだけで、杏里は自分がここにいる、と実感できる。


 彼が呼吸をしているだけで、杏里は己の足で立つことが出来る。


 だから、


 「私は竜ヶ峰くんに、生きてて欲しい、です」


 それがどれだけ帝人を傷つけているのか、杏里は知っている。それでも口に出して言う。どうか、死なないで。


 「・・・・ごめんね、園原さん」


 そのごめんね、が何に対しての謝罪なのか、杏里にはわからない。


 「正臣がぼくを殺せないってことも、園原さんがぼくに死んでほしくないって思ってることも知ってるけど、それでもやっぱりぼくは死にたい」


 暗く淀んだ微笑みを唇の端に浮かべて、帝人は悲しそうに笑った。


 「ずっとずっと、それだけを考えて生きてきたから。ふたりの意見も尊重したいけど、ぼくはそれを捨てられない。死にたいって、殺されたいって、どうしても考えてしまうんだ」


 知っている。杏里にとっての希望が帝人であるように、帝人にとっての希望が正臣に、もしくは他の誰かに殺されることであると。ずっと永遠を繰り返してきてぼろぼろになった彼の希望が終焉であると。


 杏里の表情が翳ったことに気付いたのだろう、帝人が慌ててそれでもね、と言葉を続けた。


 「最近は少し、生きてて楽しいなって思うときがあるんだ」


 「えっ・・・!?」


 「きっと、正臣と園原さんのおかげだよ」


 ありがとう、と帝人が笑う。思いもよらない言葉に杏里の胸はいっぱいになった。彼に寄りかかっているだけの杏里が、何かを与えられた。その幸福感を杏里は泣きたくなるくらい嬉しいと思う。


 同時に決意する。


 竜ヶ峰帝人は園原杏里にとって大切で特別で希望で拠り所で、だからこそ彼を傷付けたり害そうとするものは許さない。許されない。だから杏里が壊す。彼の障害となるもの全て壊そうと、杏里は静かに決めた。

















 決めたその日の放課後に、杏里は最大の敵と遭遇する。それは杏里自身予想もしていなかったことで、一瞬戸惑いながらそれでも敵と判断したその男に、射殺さんばかりの視線を向ける。


 「怖いなあ。美人が台無しだよ、園原杏里ちゃん」


 校門を出た瞬間、まるで空間から湧き出たように現れた漆黒の男。


 「君は俺に用があるみたいだけれど、俺はないから。そこどいてもらえる?」


 同じように驚いている帝人をかばうように前に出た杏里にとって、すぐさま殺さなければならない男。


 「半日ぶりだね、帝人くん」


 端整なその顔を綺麗に残酷に不敵に酷薄に歪めて、折原臨也がそこに立っていた。





   











 お題は選択式御題さんよりお借りしました。