その場にはまるで触れたら肌が裂けそうな緊張感が漂っていた。着席しているのは三人。しかしその内ふたりは真正面に座る残りのひとりの動向を、固唾を呑んで見守っている。その残りのひとり―――――竜ヶ峰帝人が目の前に出されたチョコレートケーキを一口、ぱくりと口に入れたところで、その場の緊張感はクライマックスに達した。
「うん。すごく美味しいですよ、これ。セルティさん料理が上手なんですね」
瞬間、張りつめていた空気がぶわ、と破裂し、セルティが勢いよくテーブルに突っ伏した。おそらくは安堵だろうと、自分の恋人がどれだけ不安がっていたか知っている新羅は、苦笑しながら自分のカップに二杯目の紅茶を注いだ。
「そう言ってもらえるとぼくとしても何度も味見を繰り返した甲斐があるよ。セルティ、一週間も前から特訓してたからね」
「そうなんですか。ありがとうございます。最高の誕生日プレゼントですよ、セルティさん」
照れながら、けれど嬉しそうに立ちあがったセルティは、空になったティーポットに入れるお湯を沸かす為に浮かれた足取りでキッチンへと向かっていった。仕事と白バイクの追いかけっこの合間を縫って作り上げた渾身の品が褒められて有頂天になっている恋人を眺めて、新羅は微笑ましい気分になった。
セルティには適温がわからないため自分で淹れた紅茶を一口飲んで、新羅は口を開いた。
「ようやく17歳だっけ?」
「はい、クラスで一番遅いんですよ。三月産まれって、ぼくしかいないんです」
「早生まれだからね、帝人くん。それでそろそろ、ぼくらの養子になる決心はついたかな?」
「隙あらば養子縁組の話を持ちかけてくるの、そろそろやめませんか?」
話が全く繋がってないんですけどと、それでもどこか楽しそうに帝人は言う。口で言うほど嫌がってはいないが、それでもこの話を受ける気がないのだと、新羅は知っていた。だからもう、ふたりの間では冗談にも等しい。
残念、と新羅も口では言うが、それほど残念がっていないということを、きっと帝人は知っているのだろう。だから彼は断りながら、それでも楽しそうに笑うのだ。
「ぼくとセルティの事情を知っていてなおかつセルティにも驚かない肝の据わった子となると、君と杏里ちゃんくらいしか心当たりがなくてね」
園原杏里を養子にすることも考えたのだが、彼女はセルティの初めての同性の友人だ。できればそのままの立ち位置でそばにいてもらいたい。
新羅だって夢見るくらいはする。無邪気に遊ぶ子供と慣れない手つきで子供をあやすセルティ、それを見守る自分、という夢を。そしてその夢をセルティにも見せてあげたい。彼女だって子供を抱くことを一度も望んだことがない、なんてことがないことを、新羅は知っている。
「まあ、無理強いをするつもりはないからね。君たちが抱えているゴタゴタが片付くまで待つよ」
ぴくり、と帝人の眉が動いた。だが、それだけだった。彼の笑みは欠片も揺らいでいないし、崩れてもいない。善処します、と答える声も、平常そのもの。
元々心理戦など新羅が手を出す領域ではない。彼を揺さぶれる人なんて、同輩の情報屋か彼の後輩か、それとも未だ彼の前に姿を見せようとしない幼馴染か。全てが絡み合ったこのゴタゴタがどういう結末を迎えるのか、興味がないわけでもないけれど巻き込まれたら面倒だしなによりもう怪我をするのはごめんなので、新羅は引き返せと警告することもなければ頑張れと励ましの言葉を投げかけることもしない。
ケーキを食べ終えた帝人が、ごちそうさま、とフォークを置いた。
「作りたては美味しかっただろう? 当日には食べられないから、なんならもう一切れ食べる? パーティーは鍋をやるつもりだから、さすがにケーキはあわなくてね」
「さすがに一気にチョコレートケーキ二切れは胃に重いですよ。すみません、パーティーの準備も手伝えずに」
「どこに自分の誕生パーティーの準備を手伝う人がいるのさ? いいよ別に。買い出しは静雄にやらせてるから。あいつは人一倍食べるんだから、働かせないと。ちなみにメインはカニだよー。あと肉とか魚介類とか色々」
カニ、の言葉に帝人が嬉しそうに目を輝かせた。極貧苦学生をやっている帝人ではカニなどめったに食べられないのだろう。サイモンの寿司屋から魚介類を安く買ったり、ネットでわけあり食材を大量に注文したりしているので、経費はそれほどかかっていない。とにかく育ち盛りの子供がふたりもいるのだから、たくさん食べさせようとセルティと共に張り切っているのだ。
あと十日もあるのにね、と言いながらも、ケーキを焼いたりネットで注文したりと大忙しなセルティの姿を思い出して、自然と思い出し笑いが頬を緩ませる。それに気付いたのか、帝人が楽しそうですね、と微笑んだ。
「クリスマスの時もそうでしたけど、こういうイベントの時って、新羅さんとセルティさんが一番楽しそうです」
「遠足は準備段階が一番楽しいだろう? 実を言うと色々企画してその準備に追われているセルティが可愛くてね。忙しいなんて言ってるけど浮かれているのがモロバレだからさ」
事実、最も楽しんでいるのはセルティだ。たくさんの人が来てわいわい騒ぐのが好きなのだろう。彼女はずっと、ひとりでいたから。
それから帝人や杏里、誠二に美香といった子供たちと関わるのも、子供が作れるか不明なセルティにとって、このうえなく大切なことなのだろう。美香から料理を教わったり杏里と穏やかにおしゃべりしたり帝人の食生活を嘆いたり、そんな何気ない時間がセルティをより人間らしくしていっているのだろう。
そんな彼女を見ていると――――――別に養子なんていらないんじゃないのかなと、少しだけ新羅は思ったりする。決して口に出したりはしないけれど。
「パーティーは当日の夜からだよ。適当な時間に来て座ってて。どうせ厨房は女の聖域とかいって入らせてもらえないんだからさ」
なにが聖域なのかはよくわからないが、美香に料理を教わってからずっとセルティはそんな理由で新羅をキッチンへ入れてくれない。ふたりでいちゃつきながら料理を作りたかったのに、と嘆いても入れてもらえなかった。よくわからないが絶対のルールらしい。
「なんだかここまでいたせりつくせりだと、かえって悪いような気がします」
「いいんだよ、帝人くん。君はそれぐらい、周囲から大切にされているってことなんだから」
きょとん、と帝人が目を瞬かせた。自覚がなかったらしい。彼らしいな、と新羅は苦笑した。彼は自分に向けられる感情にひどく鈍い。愛されていると、実感していない。大切に思われていると、考えていない。
だからどんなめにあっても躊躇わないし、退かないし、顧みないのだ。自分を、犠牲にすることばかり、考えているから。
新羅は何も言わないままただにこやかに微笑んで、心の中で願った。祈り、ではない。ただの希望である。吹けば消えてしまいそうな、希望。別名我がまま。
どうか、この少年が少しでも自分の価値に気付きますように。ダラーズの創設者、ではなくてただの竜ヶ峰帝人の価値に。その価値に救われている人々に。その価値に縋りついている人々に。そしてその価値を無としている、人々に。
きみが消えた跡にこびり付いていたのは、儚い希望
写真はプリザーブドフラワー屋が作ったフリー写真素材集様よりお借りしました