初めてその行為をされた時、自分はまだ十歳にも満たない幼子だった。
相手は、アリーの部下の男、としか知らない。今でも顔も覚えていないし、当時は名前すら知らなかった。
わけがわからないまま押し倒され、酒臭い吐息が唇に触れた。
(いや、だ)
はっきりと感じた嫌悪は、けれど男を止める手段にはならなかった。ぬめり、と構内に入ってくる熱い塊に、吐き気を催した。
(気持ち悪い)
口内で好き勝手に暴れまわる塊が。のしかかってくる男が。気色悪い薄ら笑いが。その全てが気持ち悪かった。
だから。
「ぎゃあっ!?」
感じたのは生暖かい液体、次いで濃厚な鉄錆びの味。
口元を押さえてうずくまる男を見つめながら、そっと口元を拭う。その手は鮮血で真っ赤に染まっていた。
あぁ、人は。
凶器を持って生まれてくるのだと、知った。
「・・・・・・え?」
「だから、これ以上俺に口付けるな」
アホ面引っさげて固まる男に、刹那は淡々と自身の過去を語った後、そう釘をさした。
「お前の口付けは嫌いじゃない、けれど口付けは嫌いだから」
矛盾しているようなその言葉の意味に気付いたロックオンは、慌てて刹那の肩を掴んだ。
「悪い、刹那が嫌だって言うんならもうしない。だから」
「俺はお前に触れられる資格などない」
吐き捨てるかのように囁く、その声はかすれてもいなければ弱々しくもなかった。恐れを覚えるほどの、淡白な答え。
その赤褐色の瞳に宿るのも、怯えや悲しみではなく、どこまでも意味を持たない無。
「とにかく、俺に口付けるな。今度、お前が俺の唇に口付けてきたら」
止められない、と。主語を言うかわりに、刹那は強く己を抱きしめた。
「お前を、喰い殺してしまうから」
儚く、美しく、けれど無意味に。
刹那は、笑った。
(・・・・言い過ぎた、か?)
呆然と立ち尽くすロックオンに背をむけ立ち去ったが、それでもロックオンは追いかけては来なかった。それでいいと思った。かすかな鈍痛を訴える胸を、むりやり誤魔化して。
(もう俺に構うな。もう俺に口付けるな)
手遅れになる前に。自分が、彼を喰い殺してしまう前に。
こんな子供の唇に口付けた事など、度が過ぎた戯れにしてしまえばいい。
(俺には、愛など証明できない)
だって、口付けは愛の証などではなく。
非力な弱者が唯一の武器をさらす、殺し合いの手段。
人は生まれながらに、口内に凶器を持っている。
刹那はそれを、十歳にも満たない頃に学んだ。まだ身体が小さすぎたこともあり、銃火器やナイフなどの武器の類は与えられていなかった刹那の、唯一の武器の存在を。
(俺の口付けは痛みを与える)
それしか自分は知らないから。
(俺の唇は血に染まっている)
紅く熟れる、魔性の色。
(だから、せめて)
これ以上、彼に近づかないようにしなければならない。以前のような、親愛の情を受け取ることさえ許されない。
(だって、あいつの口付けは愛の証)
自分に、それを受け取る資格はない。
(どんな方法でもいい。誰とでもいい。どうか)
幸せに、生きて欲しい。
刹那は、瞳を閉じて、
今しがた拒絶した男の幸福を、ひたすら祈った。
Zahnの痛み