必死に自制していた兄には申し訳ないのだが、芸能活動を始めた数年前から、幽はこっそりと彼女に会っていた。仕事で東京に行くことは多々あったから、ちょっと時間を作って会いに行くことはとても簡単だったのだ。彼女の住所は、隣に住む彼女の両親に尋ねればあっさりと教えてくれた。
お久しぶりです、と言ったら、彼女は泣きそうな顔をした。
彼女は何も変わってはいなかった。決して綺麗とは言えない黒髪も、下手をしたら10歳も年下の幽と同い年に見えてしまう童顔も、ぎこちない笑顔も、その舌が作る嘘も、なにもかも全てが昔のままだった。彼女が逃げるように上京した、あの日から。
だから幽は何も言わないで、年下の幼馴染のままでいることに決めた。
半年前に立ち寄った時からなにも変わらない実家の庭を眺めながら、こうやってきちんと里帰りをするのはいつぶりだろうかと幽は考えた。学生ながらも芸能活動を行っている幽はそれなりに多忙で、正月も取材やら収録やらで結局帰ってこれなかった。だから兄が彼女を伴って帰省すると知った時、押しかけるようにしてついていくことを決めて良かったと思う。
「ここに来るのも久しぶりですねえ」
幽の隣に腰掛けた帝人がどこか老人のような口調でそう言った。ソファーに積まれているクッションを抱きしめながら、きょろきょろと懐かしそうにあたりを見回す。
「受験の時は忙しくてろくに来れなかったから、かれこれ12年ぶりくらいですね。でもちっとも変ってない」
「そうですね、帝人さんは全然帰ってこなかったから」
別に嫌味や皮肉のつもりで言ったわけではなかったのだが、帝人が気まずそうな顔をしたので、幽は失敗したことに気がついた。別に責めるつもりも詰るつもりもないのだ。全てが収まるところに収まった、今では。
幽はそっと横目で、義理の姉となった年上の幼馴染を盗み見た。幽を赤ん坊のころから世話をしてくれていた帝人は、先日なにやら騒動を引き起こしてどたばた騒いで、ようやく兄と正式に婚約した。さすがに学生結婚はまずいだろうという帝人の主張によりとりあえず婚約に収まったが、兄と両親は卒業したらとっとと式を挙げるつもりでいる。
幽にとって帝人は、隣にいるのが当たり前だと思っていた人だった。
でも本当は掴んでいないとすぐにあちこちにふらふらと逃げてしまうような人なのだと知ったのは、彼女が進学のために東京へ引っ越すことが決まった日の、夜だった。5歳の幽には頭上で交わされる会話など全く分からなかったが、兄が絶望しきった顔で布団にもぐりこんだから、帝人がどこか遠くへ行ってしまうのだろうと察した。この兄がこんな顔をするのは、決まって彼女が関係しているからだ。
布団にくるまりながら小さく、嘘つき、と罵ったのを幽は良く覚えている。
「帝人さん」
これからは義姉さんと呼ばないといけないのかな、と考えながら、幽はこちらを振り返る帝人を真っ直ぐ見詰めた。成長期でぐんぐん背が伸びた幽の目線は簡単に帝人と交わる。昔は抱き上げてもらっていたこの身体はもう、重すぎて彼女の細腕では持ち上げられないだろう。そのことが少しだけ、残念だと思った。
「俺は帝人さんのことが、好きだったんですよ」
きっとそれは兄が彼女に向けている類の好意だったのだと、思う。彼女が笑えば可愛いと思ったし、泣いているときは抱きしめてあげたいと思った。手を繋いで欲しかったし、また昔みたいに頭を撫でてほしかった。
幽は男性として、女性の帝人が好きだったのだ。
「いりませんよ、そんな過去形の好意なんて」
帝人は苦笑を唇の端に浮かべて、きっぱりと言った。
「ぼくは過去形の幽さんより、現在進行形と未来形でぼくを好きでいてくれる静雄さんが、好きなんです」
はにかむように微笑んだ帝人を可愛いなと思いながら、幽はフラれたことにそうショックを受けていない自分に気がついた。おそらくそれは、自分でもわかりきっていたからだろう。
幽の恋は過去形なのだ。好きだった、愛していた、そんなふうに全てが過去のことなのだ。そんな幽を帝人が受け入れてくれないことも、ちゃんと知っていて、それでも言っておきたかったのだ。
過去形だとしても、昔の自分はちゃんと、彼女を愛していたのだと。
兄に内緒で彼女に会いに行った時、彼女を兄からかっさらってしまおうかと考えていた。その腕を掴んだまま電車に飛び乗って、そうして駆け落ち同然に連れ去ってしまえば、今ごろ帝人と婚約していたのは自分だったかもしれない。
でも帝人があの時、嬉しそうな顔ではなくて泣きそうな顔をしたから、この人が待っているのは自分ではなくて会いたいのを必死にこらえているどうしようもなく意気地なしな彼なのだとわかってしまったから、幽はすごすごと年下の幼馴染の立ち位置に戻るしかなかったのだ。
幽の恋は、砕け散ることが前提の、過去の中にしか存在できない恋なのだ。
「知ってますよ、そんなこと」
兄がどれだけ彼女を好きなのか、彼女がどれだけ兄が追いかけてくれるのを待っていたのか、痛いぐらい知っている幽は淡々と言った。言うだけ言ったら気分が晴れたので、後はもうどうこうしようという気はない。
「ただ、もう帝人さんって呼べないなと思ったら、今言わないといけないような気がしたんです」
「え、なんでですか?」
帝人はきょとんとその大きな瞳を瞬かせて、本気でわからないという顔をした。
「呼び方なんて幽さんの好きにしたらいいじゃないですか。そんなの誰かに決められるようなものじゃないでしょう」
好きな人が義姉になるという、ドラマのような世界に少しだけ戸惑っていて、それを消す為に義姉さんと呼ぼうと思っていた幽は、その帝人の言葉に驚いた顔をした、つもりだった。この時だけ、幽は自分の無表情に感謝する。表情から感情が漏れることがないからだ。
帝人が昔と同じように幽の間違いを訂正する。それが懐かしくて、愛しかった。だから幽はこの立ち位置でいいと思った。兄と帝人の隣で、それでいい。そこにしかいられないのではなくて、幽の意思で、ここがいいと思った。
「・・・・・やっぱり、帝人さんにはかないません」
独り言のように呟くと、帝人が首を傾げた。なんでもない、と手を振ったところで、入口のところからひょっこりと兄が顔を出した。
「おい、昼飯できたぞ」
今まで念願の嫁に大興奮している両親を相手にしていた兄はどこか疲れた様子で、それを悟ったのだろう帝人は苦笑しながら「お疲れ様です」と兄をねぎらった。兄の些細な変化に気づけるから、両親は帝人を昔から嫁にと望んでいたのだろう。
ソファーに腰掛けている幽と帝人を見て、静雄は「なにしてたんだ、お前ら」と尋ねた。なんて答えるべきか迷って思わず帝人のほうを向くと、同じようにこちらを振り返った帝人と目が合って、帝人が噴き出した。
「おい、なに笑ってんだよ」
「なんでもないですよ、静雄さん」
「うん。なんでもないよ、兄さん」
ますますわけがわからないという顔をする静雄を放っておいて、幽は立ち上がると帝人に手を差し出した。昔は差し出されるだけだった手を取って、今度は幽が帝人の手を引いて歩く。少しだけ変わってしまったけれど、この変化は、決して嫌いではないと、幽は思った。
過去形の恋
お題はロストブルーさんよりお借りしました。