月の綺麗な夜だった。漆黒と無数の煌きを背に、丸い月が見事に輝く夜だった。刹那は眩しそうにそれを見上げ、そして足元でうごめくそれを見下ろした。


 それは、人間の赤子だった。自分のそれとは違う、白い肌が月明かりに照らされてさらに白く見えた。


 「さて、どうするか・・・・」


 喰らってしまおうか。いくら好んで人食することがないとはいえ、刹那はまぎれもない魔物なのだ。こんな弱々しい存在など、片手で縊り殺せる。刹那の手が、赤子の首へと伸びた。その時。


 赤子がぱちり、と両目を開けた。


 美しい翠玉が、そこにあった。


 「・・・・・」


 思わずその色に刹那が見惚れた時、赤子がきゃっきゃっと笑いながら刹那へと手を伸ばした。小さい手を一生懸命伸ばして。


 その手を取ったのは、単なる気まぐれか。それともとうの昔に失ったはずの母性からか。


 刹那は小さな身体を抱き上げた。思った以上に柔らかく、うっかり力を入れてしまえば壊れてしまいそうだった。


 「まずは名前が必要だな」


 何も知らない赤子は、嬉しそうにきゃっ、と笑った。














 かつん、と暗い廊下に足音が響いた。自分ともう一人、合計二人しか住んでいないこの屋敷は二人で暮らすには広すぎて、灯りを付け忘れている場所が多い。朝日が好きではない刹那のために窓には分厚いカーテンがひかれているから、よけいに薄暗く感じる。


 刹那は欠伸をかみ殺しながらリビングへ入った。部屋には美味しそうな香りが満ちていて、刹那の空腹を誘った。


 「おはよう、ニール」


 「おはよう、刹那」


 キッチンに立っている少年へと声をかけ、刹那は席に着いた。テーブルにはパンやウインナーなどが湯気を立てている。どれもとても美味しそうだ。


 「いただきます」


 「どーぞ、召し上がれ」


 にこり、とコーヒーを持ってきた少年が嬉しそうに微笑んだ。











 刹那が赤子を拾ってから十七年もの年月が過ぎた。ニールと名付けられた赤ん坊は、翠玉の瞳と白い肌はそのままに、明るいブラウンの髪を持つ少年へと育った。いっぽう、刹那の姿は十七年前から少しも変わってはいない。刹那は二十一歳の時魔物に転生してから、歳を取っていないのだ。


 ニールには物心ついた時から、全てを説明してある。刹那が魔物でニールは人間だということも、ニールは捨て子である事も、全て。たまに気紛れで「人間の街に興味はないか?」と尋ねても、ニールは曖昧に笑いながら断った。ここが良い、と。


 酔狂なやつ、と笑っていたが、内心は嬉しかった。


 また一人で暮らすには、刹那はあまりにも二人でいる事に慣れすぎたのだ。











 「おじゃましまーす」


 「アレルヤ?」


 「お、アレルヤだー」


 食後の一服をしていると、開け放たれた大窓から来客者が飛び込んできた。黒い翼をはばたかせて降り立った彼はアレルヤといい、刹那の古くからの友人だ。


 「やぁ、ニール。ひさしぶりだね。また身長伸びたんじゃない?」


 「まあな。ぜってーアレルヤを追い抜かしてやるからな」


 喜々と宣言するニールに笑いながら、アレルヤは刹那に勧められてイスに座った。


 「久しぶりだな、アレルヤ。今日はハレルヤはいないのか?」


 「うん。この前人間の街に行ったとき聖水かけられたらしくてさ、その怪我がまだ治ってないんだ」


 「・・・・どうせまた人間にちょっかいだしたんだろ。こりないな、アイツも」


 「あははは・・・・・」


 アレルヤも否定せずに笑って誤魔化す辺り、同じ考えのようだ。


 「それで、何の用なんだ?」


 「あー・・・うん、ちょっとね」


 彼らしくない歯切れの悪い台詞に眉を寄せた刹那は、イスから立ち上がるとキッチンでコーヒーの支度をしていたニールに声をかけた。


 「ニール、後は俺がやっておくから席を外してくれないか。そうだな・・・・・中央階段のところに飾る花を裏の森で取ってきてくれないか?」


 「え、あ、分かった・・・」


 「すまない。よろしく頼んだぞ」


 不安そうに部屋から出て行ったニールを見送ると、刹那はアレルヤにコーヒーを差し出した。アレルヤがコーヒーを飲む間だけ、静かな時間が流れる。


 「ニールももう十七歳だっけ?」


 「ああ」


 「人間の街では、その歳だったらもう学校で将来について考えている時期だね」


 「・・・・・何が言いたい?」


 鋭く刹那が問うと、アレルヤはカップを置いた。銀の左目に真剣な光が宿る。


 「刹那、ニールは人間だ。そろそろ彼の将来について考えてもいいんじゃない?」


 「・・・・あいつを人間の街に住まわせるのか?」


 「そのほうが、彼のためだ」


 いつかはその話が出てくるだろうと予想はしていた。出来る限り直視しないようにしていた、でも出来るはずもない問題。


 「刹那、僕らは人間のふりをすることはできても、人間にはなれない。人間は人間に育てさせるべきだ」


 「あいつは今まで俺が育ててきた」


 「今まではね。でも、これからは上手くいくとは限らない。彼は人間なんだ。老いて成長して、いつかは死んでいく」


 君を残してね。告げられた言葉に、刹那は硬直した。今までニールと共に過ごしてきた十七年間を、ゆっくりと振り返る。初めての子育て。失敗だらけで、何度アレルヤたちに助けを求めただろうか。


 「・・・・・目星はつけてあるのか?」


 「うん。ハレルヤがいつも聖水を投げつけられている教会。そこに連れておけば、あとは人間が何とかしてくれる。必要なら、彼の記憶を消して」


 「・・・・教育とかは?」


 「あそこの修道長は博学だからね。きっと大丈夫だよ」


 「・・・・少し考えさせてくれないか? ニールには俺から話しておく」


 うつむいたままの刹那に、アレルヤは「ゆっくり考えるといいよ」と言い残して席をたった。ハレルヤの容態が心配だと帰路についた彼を見送ると、刹那はカップを洗うためにキッチンへ立った。カップを洗う刹那の脳内に、先ほどのアレルヤの台詞がこだまする。


 『彼は人間なんだ。老いて成長して、いつかは死んでいく。君を残してね』


 そんなこと、ニールを拾った時から知っていた。成長していく彼。時間が止まったままの自分。嫌でも見せ付けられる、人間と魔物の違い。


 知ってしまった寂しさは、どうやったって埋まらない。埋められない。もう一人では生きていけない。でもそれは刹那のエゴだ。ニールのことを考えるのなら、アレルヤの提案を呑むべきだ。


 「刹那」


 物思いにふけっていた刹那は、背後から掛けられた声にびくり、と身体を震わせた。指がすべり、拭いていたカップが床に落ちて砕けた。


 「っ!?」


 「なにやってんだ、刹那!」


 足元に散らばった破片をニールがテキパキと片付けていくのを、刹那は呆然と見つめた。慌てて自分もせねば、とニールがもつ袋へ欠片を放り込む。


 「あーあ、カップが台無し。大丈夫か、刹那?」


 「あ、ああ」


 実を言うと、破片に触れた時切ったのだろう赤い線が指に刻まれていたがすぐに消えた。不死に近い身体には、この程度の傷などあとかたもなく癒える。いつもならなんとも思わないそれが、とても苦痛に思えた。


 「すまない、ニール。手が滑った」


 「刹那らしくねぇな。あ、摘んできた花は花瓶にいれといた」


 「そうか。・・・・・なぁ、ニール」


 なんだ、と彼はいつものように聞き返してきた。その顔を直視できず、刹那は視線を床に向けながら、搾り出すように言った。


 「人間の街で、暮らしてみないか?」


 「・・・・・・・刹那も、一緒なら」


 「いや、俺はここに残る」


 「なら行かない」


 当然のように即答する彼に、刹那は声を張り上げた。


 「お前は人間だ! いつまでも俺といるわけにはいかないだろ!」


 「嫌だ、刹那と一緒じゃないなら行かない」


 かたくなに拒む彼に、刹那は困惑した。途方にくれているうちに、刹那と呼ばれた。


 気が付けば、ニールの顔がすぐ近くにあった。


 「アレルヤの話って、これのこと? そんなに俺をここから出したい?」


 「ニー、ル・・・・」


 「刹那は俺のこと、嫌い?」


 吐息が感じられる、ともすれば唇が触れ合いそうな距離。そこにある、昔から変わることなく美しい翠玉の瞳。あぁ、いつからだっただろうか。彼の身長が、自分のそれを超えたのは。彼を見上げるようになったのは。


 「俺は刹那の事が好きだよ。今までずっと一緒にいて、いまさら離れて暮らせはないだろ」


 「だって、そのほうがお前のためにも・・・」


 「じゃあ俺のためにならなくてもいい。俺は刹那と一緒にいたい」


 「え、あ、だって・・・・」


 その先は、言葉にならなかった。


 「刹那、愛してる」


 ニールの唇が、自分のそれと重なった。何もかも呑まれるような、深い口付けだった。


 戯れに口付けた事はあった。おはようのキスも、おやすみのキスもしてあげた。昔唇にじかに口付けられた時はさすがに少し怒ったけれど、結局笑って許した。だけど。


 自分の全てを貪り尽くされるような、こんなキスは知らない。


 「刹那」


 ようやく唇が離れた時、刹那は酸欠でまともに話せるような状態ではなかった。ニールは少し笑って、刹那の唇をぺろりと舐めた。


 「俺たち、人間と魔物だったり、歳の差がけっこうあったりするし」


 親子ではなかった。恋人でも、家族でも、夫婦でもなかった。その全てに当てはまるようで、どれにも当てはまらない中途半端な関係。それでも平穏だった。


 「真実の愛とか信じちゃいないんだけど・・・・・誓ってみる?」


 恐々とそう尋ねるニールに刹那は笑いかけて、軽く触れるだけのキスを唇に送った。


 どうするのかなんて、最初から決まっていたのだ。














 かつん、と暗い廊下に足音が響いた。自分ともう一人、合計二人しか住んでいないこの屋敷は二人で暮らすには広すぎて、灯りを付け忘れている場所が多い。朝日が好きではない刹那のために窓には分厚いカーテンがひかれているから、よけいに薄暗く感じる。でもそろそろカーテンを取り外そうか。好き嫌いは直した方がいい。


 刹那は腰の痛みに耐えながらリビングへ入った。部屋には美味しそうな香りが満ちていて、刹那の空腹を誘った。


 「おはよう、ニール」


 「おはよう、刹那。身体は大丈夫か? 昨日はちょっと激しかったし」


 「そう思うんだったら自重しろ、馬鹿!」


 真っ赤になった刹那はその辺りにあったものを適当にニールへ投げつけた。笑いながらかわされたのが少し悔しい。


 あれから、変わらずニールは刹那と暮らしている。変わった事と言えば曖昧だった自分たちの関係が『恋人』というものへ定着したことと、ニールが刹那の部屋で寝るようになったくらいだ。


 アレルヤはニールが決めたなら、と笑っていた。色々考えてくれて申し訳なかったが、お幸せにーなんて言われてしまった。彼はどこまで気付いているのだろうか。


 「今朝は刹那の好きなベーコンエッグにしたからさ、機嫌直してくれよー」


 「うるさい。ベーコンエッグはもらう。あとコーヒー」


 「はいはい。全く人使いが荒いぜ」


 口では愚痴を言いながらも、ニールはとても楽しそうだ。その後姿を眺めながら、昨晩のニールを言葉を思い出した。



 『俺が死んでも、絶対刹那を一人にはしない。何でもいいからすぐに生まれ変わって、ずっと刹那の傍にいるよ』 



 彼は人間で、自分は魔物。埋めることの出来ない溝が、確かに存在する。それでも良いと思えた。彼と一緒なら、良いと思えた。


 たぶん、自分はもう寂しくなる事なんてないのだろうから。