その男性教師は非常に緊張していた。彼の人生でベスト3に入ることは確定なくらい緊張していた。ちらりと横目で盗み見た、教室と廊下を隔てる扉のガラスから、理事長、校長、教頭、学年主任が緊張と不安で青ざめながらこちらを窺っているのが見えた。自分よりはるかに階級の高い上司の登場によりいっそう緊張が増していく。ガタガタと震えながら、しかし沈黙もそれはそれで怖いので彼は仕方なく目の前に座るふたりの男子生徒に話しかけた。


 「ふたりとも、家族の人は来てくれるのかな・・・・?」


 「来るよ。うち、こーゆーの厳しいから。ていうか、そんなに緊張しなくてもいいんじゃない? 別にとって喰おうとか思ってないし」


 ふたりのうち、指定の学ランの仲に赤シャツを着るという校則を空気のように無視した生徒が口を開いた。馬鹿みたい、と彼は扉の向こうで震えている教師たちを見やる。


 「ていうか帝人くん遅いなー。やっぱ帰っちゃおうかなー。俺成績は問題なかったし。シズちゃんと違って」


 「成績以外に問題アリだろうが、ウジ蟲」


 「この後の人生にも問題しかない奴は黙ってなよ」


 臨也のあからさまな挑発に、その場の空気が凍りついた。静雄が無言でそばにあった机に手を伸ばすのを見つめることしか出来ないまま、顔から血の気が引いていくのを感じながら彼は心の中で神様の出現を祈った。


 そして、神様はやってきた。


 「遅くなってすみませんっ!」


 凍りついた空気を清々しいくらい完璧に無視しながら、ひとりの青年がどたばたと駆け込んできた。


 「え、へ、あの・・・・どちらさまですか?」


 思わずそう尋ねてしまうくらい、その青年はこの場に不釣合いな容貌をしていた。大学生か高校生か判別不可能なくらい幼い顔立ちをした青年は、玄関からここまで走ってきたらしく、息を切らしているわ短い黒髪は汗で額にはりついているわ、ちょっと落ち着いて深呼吸でもしてくださいとお願いしたくなるような有様をしている。


 「す、すみませ「あー、帝人くんだ!」


 それまでギズギスとした、いるだけで胃に穴をあけてしまうような空気を作っていた臨也が突如立ち上がると、すさまじい勢いでその青年に飛びついた。ていうか抱きついた。そしてそのまま押し倒した。それを見た静雄の手元で机の脚の部分がぐにゃりと曲がった。


 「帝人くん帝人くん帝人くん帝人くん帝人くん帝人くん! あんまり遅いからもう帰っちゃおうかなとかシズちゃん殺しちゃおうかなとか思ったけど、やっぱりシズちゃんと同じ空気を吸うのさえ我慢して待っててよかった!」


 「はいはい、とりあえず臨也は重いから退きなさい。静雄は机の脚をちゃんとまっすぐにしておきなさい」


 「はーい!」


 信じられないことに、臨也は大人しく青年の上から退き、静雄もやや不恰好ながらもちゃんと机の脚を直す。人間の形をした災害とも言われるこのふたりが誰かの言うことを聞く瞬間を彼は初めて目撃した。あまりも珍しくて思わずケータイで撮ろうかとも思ったが、そんなことをすればケータイもろと真っ二つに折られるのは目に見えていた。


 「えと、おふたりのご家族の方ですか?」


 「はい、義兄です。すみません、こちらの都合でふたりいっぺんなんて無理を言ったのに。本当は十分前には着くつもりだったんですけど、講義が長引いてしまって」


 申し訳なさそうに謝罪する青年に、「そうですか」と差し障りのない返答を返す。脳内には数分前に読んだ、ふたりの家族構成についての資料を展開させる。記憶と資料が間違っていなければ、このふたりは幼い頃に両親を亡くしてから養子として引き取られ、高校に上がると同時に義理の兄の家に下宿していたはずだ。


 とりあえず義兄だと名乗る青年に椅子を勧め、ようやく三者面談(この場合は四者になっているが)が始まった。始まる前から色々ありすぎて、はっきり言って今すぐこの場からマッハで逃げ出したくてたまらない。


 「えーと、まず静雄くんのほうなんですが」


 これを、と青年に小さなケント紙を折りたたんだ、大小ふたつのカードじみたものを渡す。それは一学期の成績と先日行われた期末試験の結果が印刷されている紙である。


 「静雄くんは体育がすばらしく、ほんと、このままオリンピックにでも出れそうなくらいなんですが・・・・その、ほかの教科ですね、なんというか」


 意を決して、彼は顔を上げると無理矢理明るい笑顔を作った。


 「要はこれからはもうがんばって上を目指すだけということです」


 「要するにもう下はいないということですね」


 一刀両断にされた。


 にこにこと笑う青年の左側で静雄が恐怖で死にそうな顔を、右側で臨也が笑いをこらえすぎて死にそうな顔をしている。ちぐはぐなその対応に、彼は目を白黒させるしかなかった。


 「こ、今回の夏休みのがんばり次第で、どうにかなる可能性もありますし」


 「二ヶ月丸々勉強に費やして、ようやく『どうにかなるかもしれない』になるくらい静雄の成績はヤバいんですね」


 ちら、と青年が左側で項垂れる静雄を見た。いつもの彼からは考えられないくらい大人しい静雄は、今すぐに窓から飛んで逃げたいと顔に書いてある。ちなみにここは校舎の四階である。


 「ま、静雄はやらせればやる子だしね。就職か進学かどっちにするかはしらないけど、最低限の成績は取っておこうね」


 「・・・・・・・・・・・・おう」


 「ぶぅー、シズちゃん超だっさー」


 「やれるくせにやらない奴は口挟まない」


 けらけら笑う臨也の額を、ぴしゃりと青年が叩く。慣れない空気に身を縮込ませながら「臨也くんですが・・・・」と口を開く。


 「成績は学年トップレベルと非常にすばらしいのですが・・・・・・・・」


 「ほら、褒めて褒めて!」


 「はいはい、黙って続きを聞きなさい」


 「体育館の裏の壁に『竜ヶ峰臨也ぶっ殺す』とのラクガキがされてまして・・・・」


 すさまじい勢いで臨也があさっての方向を向いた。何をしたのかは知らないが、臨也の普段の行いから、決してそれが賞賛に値する行動ではないことだけは簡単に予想できる。


 「しかも消しても消しても次の日には同じように書かれるというかなり恨みつらみがこもってそうな代物なのですが」


 「うわ、なにそいつ。俺、粘着質な(しつこい)奴って嫌いなんだよね」


 「嘘でもいいから反省の態度を見せるってことすらやめたんだね、臨也」


 まあまだ女の子とのトラブルじゃないだけマシか。そうため息をついた青年には申し訳ないのだが、同様のラクガキが女子トイレでも発見されている。しかもこちらの場合『なんで私じゃ駄目なの』や『捨てないで捨てないで捨てないで捨てないで』といった、後々生霊として憑かれそうなメッセージがオマケとして添えられていた。引きつる頬を強制的に直しながらその旨を伝えると、青年が笑顔のまま額に青筋を立てた。


 「・・・・・・ほんと。サイテーだよね、臨也って」


 短いその台詞にこのふたりの義兄として生きてきた青年の苦労が見えた気がして、彼は目の前の青年に少しだけ親近感がわいた。


 「それで、先生」


 臨也の額にデコピンを喰らわせた青年が、改めてかしこまって己の呼称を呼んだ。


 「すさまじいくらいご迷惑をかけていると思いますが、どうぞこれからも弟たちをよろしくお願いします」


 深々とおじぎをされてたじろむ。それは決してこちらを睨みつけるふたりの視線が痛いからではない。保身に為に、青年に早々に頭を上げてもらったところで、待ちわびた面談終了の合図としているチャイムが鳴った。これ幸いにと竜ヶ峰兄弟にご退出願う。扉を見れば、向こう側で聞き耳を立てていた上司たちはどこかへ消えていた。各自己の仕事にもどったことを祈るばかりである。


 「それでは、ありがとうございました」


 やってきたときとは違う爽やかな笑顔で青年は去っていった。右手に臨也を、左手に静雄を引き連れて。その姿はまるで従僕をつれて闊歩する魔王に、どこか雰囲気が似ていた。





 











 お題は骸に花さんよりお借りしました。