ごぎ、と鈍い音が自分の肩の辺りから聞こえた。右のほうだろうか、顔を向ければだらんと不自然に力が入らない自分の肩と手首を掴んで唖然としている静雄の顔が見えた。静雄さん、と声をかければようやく我に返ったらしい静雄が慌てて手首を離す。ごきゃ。また嫌な音が聞こえた。右手首が曲がってはいけない方向に曲がっている。それを見て静雄の顔が泣きそうに歪んだ。大丈夫ですよ。帝人は笑った。大丈夫、痛くありませんから。
処置を終えた新羅が部屋から出ると、忠犬ハチ公よろしく扉の前で微動だにしない静雄と目が合った。いいよ、と声をかけたとたん新羅の姿など目に入っていないかのように静雄は一直線に室内へと駆けていく。その背が室内へと完全に消えたのを確認すると、新羅は恋人が待つリビングへと足を向けた。
「いやはや疲れたよ、セルティ。怪我自体はたいしたことないんだけど、この頻度には驚かされるね。ついこの間打撲と突き指の処置をしたばかりだと思ったのに」
『お疲れ、新羅。帝人はどうしてる?』
ソファーに座っていたセルティがものすごい速さでPDAを打ちながらコーヒーが入ったカップを差し出す。カップを受け取った新羅はその隣に腰掛けて「セルティは気がきくね僕の欲しい物がわかるなんて僕ら相思相愛だよぐぼっ」とどうでもいいことを話しかけたので殴られた。
「セルティ、愛が痛いよ」
『うるさい。私は帝人の具合を訊いてるんだ。いきなり静雄がかついでやってきて、心配するのは当たり前だろ』
「あーうん、セルティがどれだけ心配しているかはわかったから、PDAを顔に押し付けるのはやめようか。痛い痛い顔つぶれるってこれは」
降参、と両手を挙げると視界を覆い隠していたPDAが離れた。それで、と促されて新羅はずれた眼鏡を直すと口を開いた。
「右手首の骨折と右肩の脱臼、ついでに右頬の切り傷と左足の痣の処置もしておいたよ。全部で全治三ヶ月ってとこかな」
『帝人は?』
「けろりとしているよ。処置の間も麻酔なんて使ってないのに悲鳴すらあげないし。やっかいだよね、無痛症って」
先天性無痛無汗症という長ったらしい名は舌を噛みそうになるので新羅はあまり好きではない。知らず顔をしかめていたのか、セルティの指が新羅の額を小突いた。
『新羅はあのふたりが付き合うのに反対か?』
恐る恐る、といったふうにPDAに文字が打ち込まれる。別に新羅は男同士だとかそんなもの気にしていないし、静雄に恋人が出来た事は素直に祝福する。ただ、あのふたりは考えうる限りで最悪の組み合わせだ。
「今回だって帝人くんを抱きよせた静雄が力加減を誤って脱臼させたんだろ。で、慌てた拍子に骨折させた」
『確かに・・・・静雄と付き合いだしてから、帝人は怪我が増えたな』
文面からセルティの不安が滲み出している。それほど真剣にあの少年を心配しているのだと、新羅は安心させるように微笑んだ。
『けれどそれは静雄が気をつければいいだろう。怪我しても新羅が治してくれるし』
「うーん・・・脱臼とかは癖になっちゃうと危険だし、骨折もそう毎回綺麗にくっつくってわけでもないんだけどね」
新羅が危ぶんでいるのはそういった事柄ではない。ねえセルティ、と新羅はひとつ、謎解きのような問いかけを投げた。
「人はどうして火の中に突っ込んだ手を戻すのかな?」
『? 熱いからだろう』
「熱いというよりは痛いに近いけどね、うん、正解」
質問の趣旨が理解できないのか、セルティが首を傾げる。人間とは違う感覚で生きているセルティには理解しにくい問題なのだとわかっていたけれど。
「帝人くんはね、それができないんだよ」
先天性無痛無汗症という疾患を患っている帝人は、汗をかかなければ痛みを感じることもない。そして温度もわからない。触覚しか持っていないのだ、彼は。
痛みとは脳神経が訴える危険信号でもある。このままではいけないからなんとかしなさい。その信号のおかげで人は危険を回避することが出来る。先ほど挙げたように、火傷をする前に手を引っ込めることが出来る。
しかし、痛覚がない帝人はそれができない。
皮膚が焼け脂肪が燃え筋肉が灰になろうとも、その姿を目にするまで気付くことすらできない。しかも汗をかかないので体温調節が出来ず、ほんの少しの運動であっというまに体温が上がってしまい、命に関わる事態にまで発展してしまう場合がある。記録によると、自分の舌を噛み切ってしまった患者までいるのだという。
「だから静雄に骨を折られても、帝人くんは気付くことが出来ない」
『しかしそれは逆に良かったんじゃないのか? 帝人に痛覚があったら、今頃とんでもないことになっている』
セルティの素朴な疑問に、残念だけど、と新羅は頭を横に振る。
「静雄は自分の力が他人にとってどれほどのものか、理解できずにいる。そんな静雄の側に帝人くんをおくのは間違っているよ」
静雄はどれだけの力で接したら帝人を壊さずにいられるか知らない。それはこれから静雄と帝がふたりで見つけていかなくてはいけないことだ。けれど。
「ここまで力を入れたら痛いですよって、帝人くんにはわからないんだ。だから静雄はいつも力加減を間違える。痛みというボーダーラインが帝人くんにはないから、静雄はいつだって越えてはいけない一線を踏み越えてしまう」
守るべき境界線がわからないのだ、学習の仕様がない。だからきっと、あのふたりはこれから何度も一線を踏み越え続けるのだろう。
「セルティ、あのふたりはとんでもないよ。いつかきっと、お互いがお互いを壊す」
なによりも、と空になったコップをテーブルにおいて、新羅はソファーに深く体を埋めた。
「あのふたりがそんなことを厭わないくらい愛し合っているのだから、よけいにやっかいだよね」
動かさないで、と新羅に強く言われていたので極力右腕を動かさないようにしないとなあめんどくさいなあとかなんとかぼんやり考えていると、新羅が出て行ったのと同時にものすごい勢いで静雄が入ってきた。サングラスをしているからその表情は読み取れないけれど、きっと泣きそうな顔をしているのだろうなと思った。
「静雄さん」
右腕は動かせないので、左手だけ前に突き出して静雄を呼ぶ。大人しく寄ってきた静雄は、ベッドに腰掛ける帝人の前に膝をついた。
「毎回の事なのに、静雄さんは落ち込みすぎです」
くすくすと笑うと、静雄はいくらか落ち着きを取り戻したのか、拗ねたようにそっぽを向いた。しかしそれも数秒の事で、すぐにまた泣きそうな顔ですまない、とうわごとのように呟く。
「すまない、帝人」
「いいですよ。ぼくのせいでもありますから」
それは本当のことだ。帝人がきちんとストップをかけていればこのような事態にはならなかったのだろうが、うっかりしていて気付いた時にはすでに骨が嫌な音をたてている瞬間だった。
「すまない。俺はこんなことがあっても、お前を手放せねえ」
帝人の左手を握り締めて。まるで許しを請う罪人のような静雄に帝人は小さく笑った。手放せないのはこちらだというのに。
このままではいけないと、帝人も静雄も気付いている。いつか静雄が帝人を殺すだろうとも。しかしそれはそれで幸せな死に方じゃないのだろうかと、帝人はこっそり考えたりしている。静雄はきっと、ものすごく怒るのだろうけど。
帝人はこの病に蝕まれた身体に感謝している。不便なことばかりで、運動だって水泳以外できないこの身体を憎んだこともあったけれど。
(だけどぼくは、この身体だからこそ静雄さんの隣に立てる)
帝人に痛覚が会ったのならば、今頃前進を駆け巡る痛みにみっともなく泣き喚いていることだろう。そんな無様な姿を彼の前に晒すくらいならこのままでいい。
「静雄さん」
ゆっくりと笑う、その頬の切り傷は臨也と静雄の戦争に巻き込まれたときに、飛んできた自動販売機を完全によけきれずについたものだ。左足の痣も同じようなもの。けれど帝人は、静雄の側を離れようとは決して思わない。
「離せないのはあなただけじゃないですよ」
こつん、と静雄の額に自分のそれを合わせて笑う。至近距離で見つめる静雄の瞳はどこまでも綺麗で、こんな瞳の人に殺されるのなら本望だと帝人はいつだって思うのだ。
たとえそれがこの身を滅ぼす劫火であっても
お題はテオさんよりお借りしました。