平凡になりたいと、私が思い始めたのは高校を卒業するか否かの頃だったと記憶している。周囲からも自分自身からも非常に好奇心の強い子供だと認識されていた私は、非現実的なモノをゴミとそうでない物の区別なく吸いこみ続ける掃除機のように貪欲に、ひたすら『好奇心を満たす』という無いに等しい目的のために求め続けていたのだが、まあ年月が流れれば人の性格も多少は矯正されたり歪んだりするもので、そんな私も今ではすっかりそのへんに一ダースは歩いていそうな会社員である。小学生の頃の、将来の夢という題名の作文に『宇宙人になりたい』と書いた当時の私が聞いたら怒りのあまり卒倒しそうな職業だ。余談であるが、その作文はクラスメイトにおおいにからかわれ、また持って帰って見せた母親にたっぷり叱られた。なぜだろう、遠い銀河の果ての星からやってきた白と赤の異様に目立つ三分しか戦ってくれないヒーローになりたいと宣言したクラスメイトは、皆から苦笑交じりながらも微笑ましい評価を受けていたというのに。
閑話休題。そんな私は今、昼休みを利用して会社近くのカフェテリアに来ている。聖人の誕生日にかこつけてカップルがいちゃつく行事が近づくこの季節、街には赤と白のものであふれている。平日の昼間だというのに制服姿が目立つのは、きっと今日が終業式だったのだろう。ほのぼのとした気持ちで道を行きかう学生たちを眺めていた私の背中に、どん、と軽い衝撃がはしった。揺れたテーブルに載っていたカップから、少しだけカフェオレがこぼれた。
「あ、すみません」
申し訳なさそうな声が背後から聞こえた。気にしなくてもいいと、言おうとして振り返った私は硬直した。そこに立っていた少女の、水色の制服。形も色も全く違う、けれど懐かしい、かつて私も袖を通したそれに脳みそが揺さぶられる。来神高校。今では来良学園と名前を改めてしまった、私が18の歳まで3年間を過ごした母校の思い出、が あふれ だ
廊下に転がっていたドラム缶、悲鳴、絶叫、怒声、割れる窓ガラス、空を飛ぶ、飛ばされる、投げられる人間、金髪のバケモノ、砕けるコンクリート、折れたナイフ、赤い目の悪魔、違う、違わない、望んでない、望んでいた、私は確かに望んでいた、ただ、覚悟が足りなかっただけ、危機感が摩擦していただけ、そこまで深く、堕ちたかったわけじゃ、ないぃいぃぃいぃ、ぃいいいぃいい
過去の思い出が脳みそを好き勝手に食い散らかす。ああ、好き嫌いしないで食べるのなら全て食べなさい。トラウマだけ残すのはルール違反というものだろう?
「あの、どうかしました?」
少女の声が私を現実へと蹴りだした。なんでもないと、笑みを浮かべる。もちろん効果音は『にこり』ではなく『ぐちゃり』。こんな腐敗した笑みでも少女は問題ないと判断したらしく、私の右隣三つ向こうのテーブルに腰掛けた。
口内で苦い鉄錆の味と硬い何かの欠片を舌が発見したので、手もとの紙ナプキンの上に吐き出してみた。白乳色の石のような欠片。どうやら先ほど噛みしめた時に砕けた歯のようだ。今度歯医者に行って検査してもらわないといけない。むやみやたらに昔のことを思い出さないほうがいいんだなあと反省と共に教訓を胸に刻んだ。
カフェオレで口内の血と胃酸を喉の奥へと流し込んで、そのまま過去の思い出も全てポイ捨てする。誰か拾って役に立ててはくれないだろうか。
煮込まれた汚泥のような記憶をなかったことにして、私は食後のゆったりとした時間をおくる。昼休みが終わるまでにはまだ余裕があり、私はここで窓ガラスの向こうの忙しなく行きかう人々を眺めて時間を潰すことにした。会社に戻ったところで私の帰りを待ちわびているのは手つかずの仕事だけだし、寒い外を無意味にぶらつくよりは暖かい店内でまったりしているほうが精神的にも肉体的にも非常にお勧めだと道行く人々100人中100人が迷惑そうな顔で答えてくれるだろう。
そう思って、カフェオレのおかわりを店員さんに頼んだ、その直後。
派手な音と無数のガラス片を伴って、見慣れた赤い自動販売機が店内に突っ込んできた。
「・・・・・・・・・」
一瞬の静寂、のちに無数の足音。客どころか店員すら逃げ出した音だ。店内に残っているのは、再起不能になった自動販売機と、すっかり逃げるタイミングを失ってしまった私と、溜息をつきながらサンドウィッチを頬張っている、先ほどの来良高校の制服を着た少女。
硬直して逃げられなくなってしまった私とは違い、少女は黙々と栄養摂取を続けている。逃げる気なんて爪の先ほどもみせていない。なんだろう、度胸があるとか肝が据わっているとかそういう話ではない。自動販売機が飛んできた、それはつまり池袋の喧嘩人形とあだ名されるあの男が近くにいるということなのに。この私よりも小柄な女の子は、全く気にしていない。
「・・・・・・逃げなくて「あー!!!」
私の声をかき消したのは、数年ぶりに聞く同級生の声だった。その声が聞こえた瞬間ポイ捨てしたはずの思い出が根性で私の脳みそへとよじ登ってきた。お帰り、とにこやかな声をかけられるはずがない。帰ってくるなと勘当したはずなのに、そんなこと知るかと過去のブラックコーヒーよりも苦い思い出が私の脳みそへと浸食し、聞いていもいないのにその声の主が折原臨也だと告げてくる。知りたくもなかった。
この男と三年間同じ学び舎で勉学を共にしたことは、私の人生の中でもトップクラスの汚点だ。汚点というか、後悔ランキング〜今すぐタイムマシンで私のあの瞬間に戻して〜なんてものがあったら、そのトップを飾るであろう事実だ。そして私が先ほど来良高校の制服を見た瞬間思い出した下水道にでも捨ててしまいたい思い出の大半を占めている男でもある。
昔の私は『日常』に飽いていた。何の変哲もない『日常』の中に埋もれて腐っていくことをなによりも忌避していた。なのでまあ、若気の至りというかなんというか、電灯に引き寄せられる蛾のようにほいほいと折原臨也に近づいた。そこから先は割愛したい。自分の軽率さを恥じて顔から火が出るより先に、暗黒色をした青春時代の記憶が私の胃に命じて口から胃液の滝を出現させてしまうから。
「帝人ちゃん! ああ会えてよかった君に会うためだけにわざわざ池袋まで出向いてきたんだから! てなわけで火急速やかにシズちゃんは死ね。俺と帝人ちゃんのために死ね」
ファーがついた真っ黒のコートを翻させて、頬に擦り傷を作った折原臨也が駆けてきた。ああやっぱりあの喧嘩人形を怒らせたのは彼かと思うよりも先に、私は折原臨也が親しげに来良高校の制服を着た少女に声をかけたことに驚いた。知り合いなのだろうか、と横目で少女を伺った私はすぐさま視線を元に戻した。
少女は笑っていた。にっこりと微笑みながら、己の手を親指だけ突き出した状態で、真っ直ぐ下に向けた。死ねの言葉すら交わすのが嫌なのか、ジェスチャーで己の感情を表現した少女は怖いくらい笑顔を貫き通している。最近の女子高校生はデンジャラスだ。
「相変わらずつれないね! でもそこが可愛いよ愛してる!」
「相変わらず臨也さんはウザいですねさっきの動作のどこに可愛げがあったのかはなはだ疑問ですがとりあえずぼくに会うためだけに池袋に来たんでしたらもう目的は達成さてたでしょうどうぞお帰りくださいぜひそのまま一生出会わないことを祈ってますよ」
「あ」から「よ」までをワンブレスで言いきった少女の肺活量も気になるが、それよりも私が気になったというか度肝を抜かれたのは。
彼はいったい誰だ。本当に折原臨也か。
そのデレデレな顔が気持ち悪い。例えるのなら天然炭酸水よりも爽やかな好青年が壁にスプレー塗料で「夜露死苦」と描いている場面を目撃したような、顔に銃痕や切り傷が残るスキンヘッドのいかつい男性がにこやかに幼稚園児と戯れている場面に遭遇したような、そんな背筋を凍らせるような違和感。あ、鳥肌が。
どうやらあの少女は折原臨也のお気に入りらしい。その顔の良さから女性をとっかえひっかえしていた折原臨也に気に入られるなんて。しかし私は彼女を憐れまない。私は今までこの折原臨也に笑顔で死ねというジェスチャーを堂々としたうえにウザいだのもう二度と会いたくないだの言ってのけた女性を見たことがない。そんな少女が折原臨也の毒牙にかかるわけがない。むしろ逆にへし折りそうだ、毒牙。しかも笑顔で、ものすごく清々しそうに。
「ウジ蟲ぃぃぃいぃいいぃいいぃぃいいぃぃぃっ!!!!」
地獄の閻魔大魔王も裸足で逃げ出しそうな怒声と共に、今度は道路に設置されているミラーが飛んできた。当然のように鏡は無残にも割られ、ただの鉄の棒となったそれが槍かなにかのように真っ直ぐに飛んできてカフェテリアの看板に突き刺さった。池袋の喧嘩人形のご登場である。こちらも私としては見たくなかった。
数年まえとなにも変わっていない金髪はまるでライオンのたてがみのようだ。ぐるるるとその噛みしめられた口元から唸り声が聞こえてきそうだ。一応人類に分類される彼の口元から牙としか思えない鋭くとがった歯がちらりと見えた気がしたが、目の錯覚としてなかったことにした。明日は歯医者以外に眼科にも行かなくてはいけない。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね今すぐ死ねぇえええぇぇぇっ!」
彼の拳に殴られて店の外壁にぼっかり穴が開く。それでいて拳には傷ひとつつかないのだから、サイボークかロボットどちらですかと尋ねたくなる。一応あれでも人類なのだ、信じられないけれど。
平和島静雄が素手でコンクリートの壁を砕くと、なぜか少女はぱぁぁと顔が明るくなった。折原臨也に対するドライアイスよりも温度が低そうな冷やかな笑みではない、保育園児がブラウン管越しに菓子パンのヒーローに送るような、そんな表情。
「こんにちは、静雄さん」
少女が屈託のない笑顔で話しかける。どうやら彼女は平和島静雄とも知り合いらしい。まあ彼は折原臨也と違って怒らせなければ害のない人間だし、その外見と異名に怯えずに近づけば、親しくなるのはそう難しいことではない。
「りゅ、竜ヶ峰っ!?」
少女に話しかけられたとたん、急速に頬を染めた平和島静雄が一切の動きを止めた。その光景にまた私は鳥肌が止まらなくなる。これは不可抗力だ。なぜなら、私の目の前でうろたえて頬を染める青年は、池袋の喧嘩人形なのだ。もうあれだ、この光景は視覚による暴力だ。
「お久しぶりです。寒くなってきましたけど、静雄さんは相変わらずバーテン服なんですね。静雄さんらしいですけど、風邪とかひかないんですか?」
「頑丈だからな、俺は。竜ヶ峰はどうした、制服で」
「今日終業式だったんです。明日から冬休みなんですよ」
にこにこと笑う少女と赤く頬を染めながらも受け答えする平和島静雄という、なんだか見ているこちらが恥ずかしくなってくるような初々しいふたり。くっつくかくっつかないかといったもどかしい雰囲気をぶち壊すように、その間に折原臨也が乱入した。
「あ、じゃあ帝人ちゃんクリスマスイブ空いてるんだね。俺とデートしよう、デート!」
疑問形じゃなくて断言で言いやがったよこの男。相手の予定は無視、というか自分とデートして当然だと思っているらしい。頭の中に蟲でも湧いているんじゃないだろうか。そう思っているのは私だけではないようで、少女も笑顔を消してゴミでも見るような目で臨也を見る。
「・・・・・・・・臨也さんって、病院でおとなしくしているだけで他人から感謝される人間ですよね」
あ、これはすごい切り返しだ。普通の人間だったら再起不能になるだろうけれど、そこは折原臨也だ。
「やだなあ入院なんかしたら帝人ちゃんに会えないじゃん! あ、でも帝人ちゃんが毎日お見舞いに来てくれてリンゴ剥いてくれてあーんって食べさせてくれるなら、俺今すぐ入院するよ!」
頭腐ってやがる、この男。ていうか本当にこの男は折原臨也なのだろうか。あの折原臨也がここまで言われて、それでもにこにこ笑っているだけというのは私には考えられない。頬を染める平和島静雄といい、なんだろう、この人たち同姓同名で顔がとても良く似ているだけの別人なんじゃないだろうか。
「おいこら竜ヶ峰から離れろウジ蟲。そんなに入院したいのなら今すぐ俺が潰してやるよ」
「脳みそまで筋肉で出てきてる単細胞は黙ってなよ。あれだよね、シズちゃんの場合病院じゃなくて刑務所が似合うよね。もしくは動物園の檻の中とか」
「墓の下にでも埋まってろ汚物!」
平和島静雄が近くにあったテーブルを掴んでそのままフルスイングした。あのテーブル、金具で床に固定してあったはずだか全く意味をなしていない。平和島静雄はそのままナイフを投げ付けてくる折原臨也と共にカフェレリアの前の道路で戦争を始めた。その様子を、少女は微笑みながら見つけている。
この少女は、あの二人をみて笑うことができるのだと、理解した瞬間私は納得した。彼女は似ている。昔の、『日常』に飽いて貪欲に非現実的な『非日常』を求めていた私に。それでもきっと、彼女は私のように打ちのめされてその好奇心を消滅させるようなことはないのだろう。
あの時の私には覚悟が足りなかった。『非日常』へ踏み出すことがそういうことか、全くわかっていなかった。
けれどこの、あの戦争コンビの殺し合いよりも自身の食事を優先させる少女には、危機感も覚悟もなにもかもがそろっている。彼女はそれなりに賢く、それなりに自分の命が惜しいと思っている。だからきっと、保身に手を抜かないし、私のように裏の部分を見て心が折れるようなこともない。
この少女がこのまま大人になったのなら、きっと平和島静雄よりも折原臨也よりも恐ろしい大人になるのだろう。それを少女が望んでいるいないに関わらず、彼女が『非日常』への好奇心を途中で放り投げない限り、きっとそう成長しざるをえなくなる。
あのふたりが少しだけ離れた位置で殺し合っている、今が逃げ時だろう。私はサイフから千円札を抜きとってかろうじて無事なカウンター席に置くと、オレンジジュースをすすっている少女に「はいこれ」と鞄から取り出したマドレーヌを差し出した。
「あげるわ。先輩からの差し入れと思って受け取ってちょうだい。あなたはがんばってね」
「え、あ、はい・・・・・ありがとうございます」
ぽかんと私を見上げる少女に背を向けて、私は会社への道を歩き始めた。ヒールが立てる聞きなれた足音が私の後ろを突いてくる。最後に見た少女の顔が忘れられなくて私は思わずくすりと笑った。あの子はいったいどんな『終わり方』を迎えるのだろうか。道半ばでくじけた先輩として、あの少女の『終わり方』が少しでも美しくあることを、私は願った。
美しく終わって御覧なさい
お題は選択式御題さんよりお借りしました。