家賃と交通の便だけで決めたアパートの一室の扉に鍵を差し込んで回す。そのままぼきりと折ってしまわないように気をつけながら鍵を抜いて無言のまま帰宅した。背中から聞こえたお邪魔します、の声に、もう何年も自分がただいま、と言っていないことに静雄は気がついた。


 なんやかんやで背負う形になった帝人を、来客用に確保してある部屋へ連れて行く。時折ふらっと泊まりに来る弟のためのその部屋は、簡素なベッド以外家具らしい家具は置いていない。そこに帝人を寝かせ、動かないように厳命する。


 「トイレはそこの廊下の突き当たりだ。風呂は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ひとりで無理だったら手を貸すぞ?」


 「・・・・・・いざとなったらお願いします」


 屈辱と羞恥に顔を伏せて、消え入りそうな声で帝人が返事をした。怪我をしているとはいえ、いい年して身体を洗ってもらうというのはなかなか羞恥を覚える。と、そこまで考えたところで静雄はあることに気付いた。


 「そういや、お前歳は?」


 「へ? 今年で17になりますけど」


 ぼろ、と静雄の口から火のついた煙草が落ちた。危ない、と帝人が叫んだのでオチらそれを拾って手のひらでもみ潰す。この程度、火傷どころか傷すら残らないことはすでに経験で知っていた。


 「17って・・・・お前、高校生か?」


 「平和島さん、ものごく意外そうな顔してますね。どうせぼくは童顔ですよ・・・・・・」


 実年齢よりもいくらか幼く見られていたことに気付いたのか、帝人が不満そうに唇を尖らせる。そのあとさらりと、なんでもないように「学校なら行ってませんよ。ぼく、孤児ですから」と言った。


 「小さい頃に反政府組織の抗議テロに巻き込まれて両親が死んだので、ぼく、孤児院にいたんですよ」


 淡々と語る帝人に静雄は小さく「そうか」と呟いた。珍しい話ではない。治安が悪化した今、帝人のような孤児は年々増加傾向にある。即急に作られた育児施設も数が追いついていないと聞く。経営が困難な施設も多い。全ての施設が預けられている子供たちに満足のいく教育が施せるわけではない。


 「そこで会ったのか」


 誰に、とは言わなかった。帝人は少し驚いたような顔をした後、ふわり、と目を細めて微笑んだ。


 「・・・・・・正臣はぼくの全て、ですね」


 遠い過去を懐かしむ帝人の表情は今までのどの表情よりも嬉しそうで、楽しそうで、幸せそうで、それなのにとても哀しそうだった。


 「いつもぼくの手をひいて歩いてくれて。ぼくが知らないことはぜんぶ、正臣が教えてくれました。楽しいことはぜんぶ、正臣が持ってきてくれました。幸せはぜんぶ、正臣が作ってくれました」


 彼がその幼馴染をどれだけ大切にしているのか、無法地帯に単身で乗り込んでくるという行動から察していた静雄でさえ、その恍惚とした台詞には驚きを隠せない。まるで初めて見た者を親鳥と思い込む、雛のような。


 狂おしいほどの、親愛。


 一途なんて言葉では表せない。盲目の愛。しかしそれは情愛という絡みつくようなものではなく、ただひたすら、真綿で幾重にも包むかのような親愛。重すぎる、けれど決して相手を不快にさせない親愛。


 だから、と帝人は微笑んだ。その顔はどこか、遠い昔に見た自分をやんわりと嗜める母に似ていた。


 「ご迷惑をおかけするとは思いますけど、しばらくの間よろしくお願いします。あ、家事とかなら得意ですよ、ぼく」


 わたわたと精一杯自分かできることを述べる帝人に苦笑して、静雄は彼の短い髪をくしゃくしゃっとかき回した。


 「いーから怪我治すことだけに専念しろっつってんだろ」


 「あ、じゃあ歩けるようになったらしてもいいんですね? リハリビみたいなものですよ、たぶん」


 帝人はけらけらと笑いながらぽん、と軽く己の包帯で固定されている左足を叩いた。とりあえず無茶をしないとように約束させて、静雄が食事の支度のために部屋を出た。誰かとこうして喋るのなんて、いつぶりだろうかとなんとかく考えた。




















 (変な・・・・ひと)


 静雄が出て行った扉を眺めて、帝人はごろんとその華奢な身体をシーツに埋めた。頻繁に洗濯してあったのか、誇り臭くないシーツをぎゅうを抱きしめる。屋根のある場所で寝泊りするなんて久しぶりすぎて、最後にこうしてベッドに横たわったのがいつなのか思い出せない。


 (まさおみ)


 たったひとりの、大切な。


 (初めてひとりで外に出たよ。君がいないから。一緒に街で遊ぼうって言ってくれた君がいないから)


 ごろり、と仰向けに寝転がる。天井の木目がムンクという画家が描いた絵にどこか似ていたけれど、怖いとは思わなかった。


 (まさおみ、まさおみ)


 (きみがいないばしょにぼくはいます)


 (ぼくのとなりにきみがいません)


 (ねえ、こきゅうってどうやってするんだっけ?)


 (きみがいないと、ぼくはこきゅうのしかたさえわからないよ)


 (なにもかも、きみがいないとわからないよ)


 視界がぼやけた。けれど、涙なんてもう一滴も零れない。


 (きみはこのそらのどこかで、こきゅうをしているのですか?)