夕闇の中に、何かがうごめいた気がした。


 「園原さん?」


 ぼうっと窓の外の闇を眺めていた杏里は、隣を歩く帝人の声ではっと我に返った。不思議そうな顔をしてこちらを見ている帝人に、なんでもないです、と声をかけて歩きだす。実際気にかけるようなことはなにもなかったし、なにもないはずなのだから。


 「・・・・・・・・これで本当に良かったんでしょうか」


 それは自問に近かったが、それでも律義に帝人は反応して、苦笑を交えた笑みで杏里を見た。仕方ないと、その笑みが語っている。


 「やられちゃったことを今更どうにかできないしね。まあ、仕事がひとつ減ってラッキー、くらいに思っておこうよ」


 「でも、相手は折原臨也です。あの人に借りを作るのは、その、危険だと思います」


 「確かに。何を要求されるかわかったもんじゃないけど・・・・・あの人がそうあからさまに仕掛けてくるとは、考えにくいんだよね。あの人は水面下でごちゃごちゃ二重三重にも罠を仕掛けて楽しむ人っぽいから。せいぜい、解剖させて程度のことだったら、前向きに検討するんだけど」


 「・・・・・・・竜ヶ峰くんの自己犠牲なところ、私あまり好きじゃありません」


 拗ねるように呟くと、帝人は苦笑しながらごめんね、と口にした。そんな言葉を言わせたいわけではなかったので、杏里もそれ以上追及することを止める。


 帝人が『死ねない』身体なのだと、折原臨也と平和島静雄にバレるきっかけとなったあの工事現場の事件は、帝人が手を打つ前に何者かによって『平和島静雄が鉄骨で大怪我をした』事件、になっていた。帝人曰く工事現場の賠償金も平和島静雄とは関係のない場所からふんだんに支払われ、また被害者が平和島静雄ということもあって被害にあった建設会社もこれ以上ないくらい低姿勢になっているらしい。


 その何者かが誰なんて、杏里にでさえわかったのだから、帝人が気づいていないわけがなかった。


 おせっかいだよねえ、と笑う帝人に対して、杏里はあまり笑えなかった。折原臨也が帝人にどういった感情を抱いてこの情報操作を行ったのかはわからないが、彼に借りを作るのは得策とは思えなかった。


 「ぼくたちの出る幕はもうないよ。でも園原さんにお願いがひとつあるんだ」


 「なんでしょう?」


 「街の人たちが本当に『平和島静雄が鉄骨で大怪我した事件』と思っているかどうか、確認してほしいんだ。ぼくもネットであちこち調べてみたけど、やっぱり人間の生の声を聞かないと」


 情報収集は帝人の得意分野だが、それはネットの世界だけに限った話で、実際地に足つけての聞き込みなどは体力のない帝人よりも人の集まりであるがゆえにどうしても微妙な齟齬が生まれてしまう黄布賊よりも、ただ淡々と機械のごとく『母』の命令に従う『罪歌』たちのほうが得意だった。


 「任せてください」


 帝人の役に立てるのが嬉しくて、自然と杏里の顔に笑みが浮かぶ。帝人はなんでもひとりで抱え込んでしまう嫌いがあるから、こうやって頼りにされるのは純粋に嬉しい。


 再び口を開いた帝人だが、その唇から声として音を発する前に、ぴたりと閉じてしまった。杏里はそれを訝しんだが、背後から聞こえてきたぱたぱたという軽い足音を鼓膜が捉えた瞬間、その理由を理解した。


 背後から聞こえてきたその足音の持ち主が自分たちに用があるのだと杏里が悟ったのは、今がほとんどの生徒が下校したもう日も完全に落ちた放課後で、今杏里が帝人と共に歩いている廊下には自分たち以外に人影などなく、また廊下の先が職員室や普通の教室ではなく一般生徒が用などあるはずのない物置代わりに使われている部屋ばかりだからだった。問題なのはその持ち主の用件と、杏里と帝人、そのどちらにその用件があるか、だ。


 「竜ヶ峰帝人、先輩ですよね?」


 それは杏里ではなく隣を歩く帝人にかけられたものだったのだが、反射的に杏里も背後を振り返る。そしてそこに立っている、何の変哲もない、成長しきっていない童顔が特徴の少年の顔を眺める。


 幼い、という感想を最初に抱いた。


 隣にいる帝人も童顔だが、目の前に立っている少年は同じくらい、否、それ以上に幼い顔をしている。どこか浮足立ったような雰囲気がそれに輪をかけて、この少年を幼く見させているような気がした。杏里はそれほど同級生と交流があるほうではないのだが、同じ学年で見たことのある顔だとは思えなかった。


 この顔で杏里より年上ということもないだろう。ならば後輩ということになるのだが、入学式が終わったまだ数日しか経っていない、新入生歓迎会という形ばかりの顔合わせすら行われていない今、後輩と知り合う機会はそう多いわけではない。


 まだ委員会だって、決まっていない時期なのに。


 その感情が表情に出たのだろう、少年が杏里を見て「変な人じゃないですよ!」と叫んでぶんぶんと顔の前で手を振った。


 「ただダラーズの関係で、竜ヶ峰先輩のことを知っているだけです!」


 その単語を聞いた時、ぴくり、と杏里の右腕が少年に悟られない程度に動いた。いつでもそこから『罪歌』を出現させて、少年に斬りかかれるように。


 ダラーズは帝人が趣味半分、隠れ蓑の意味半分で作った組織だ。その名前が出ると、無意識に杏里は緊張する。自分は隠しごとに向かないのかもしれないと、こういう時は必ず思う。


 杏里は小さな笑みを、あ、やべ、みたいな顔をした少年に向けた。それはおそらく『ダラーズではないかもしれない人にダラーズのことを話してしまった』ということに不安を感じている少年に、自分もダラーズと関係があるのだと知らせるためだ。実際、少年は杏里もダラーズの一員、もしくは関係者だと思ったらしく、露骨に安堵の表情を見せた。


 「一年の黒沼青葉って言います! 竜ヶ峰先輩のことは一年くらい前から知ってました! ほらあの、初めてのダラーズの集会の時! 竜ヶ峰先輩が中心っぽかったんで、先輩もダラーズの人なんだなって思って!」


 矢霧製薬との揉め事のことを言っているのだろうと、杏里にもわかった。あれは帝人がダラーズの良いパフォーマンスになるといって、黄布賊や『罪歌』はノータッチで行った。ただ黄布賊や『罪歌』にもダラーズのメンバーはいるので、完全に関わりがなかったわけではないのだけれど。一応、杏里と正臣はノータッチでいる。止めようとは思ったが、あそこまで無邪気に目を輝かせ、わくわくと心躍らせている帝人を止めることなど、付き合いの長い正臣が無理だと諦めた時点で、杏里にも同じように諦める道しか残っていなかった。


 あんな大規模な集会を行ったのだから、いつかそこから自分の顔がばれる日がくるだろうと、帝人は言っていたけれど。


 実際にこうなる日がくることに実感がわかなかった杏里は、どう対応していいのかわからずに戸惑った。杏里の心中など知らない少年はそのまま叫ぶように言葉を連ねる。


 「それで、俺、今日は竜ヶ峰先輩にお願いあって・・・・・・・・・・」


 ふとそこで少年が言葉を切った。切ったと言うよりは、しぼんで消えたといった具合だった。杏里は少年が帝人を見つめて驚いた顔をしているを不審に思って、隣の帝人の顔を見た。そして杏里もまた、驚いて固まった。


 帝人は泣いていた。顔をゆがめるではなく、嗚咽を漏らすでもなく、ただぽろぽろとその大きな両目から透明な滴をこぼしていた。流れた滴が頬を伝って先日届いたばかりの真新しい制服に大きなしみを作っているけれど、そんなことなど欠片も気にせず、そんなことなど眼中にはないといったふうに、ひたすら瞳から涙をこぼし続けている。


 透明な滴がこぼれて彼の頬を伝う、ただそれだけの光景なのに。杏里は胸をなにか鋭いもので突かれたような、そんな痛みを感じた。


 「泣かないでください」


 涙で濡れる頬を、少年の指が撫でた。杏里に止めるということさえ思いつかせない、自然な動きで。


 「なんで、ですかね。あなたが泣いていると、俺が俺でいられなくなるんですよ」


 少年は泣いてこそいなかったは、悲しそうな、苦しそうな、切なそうな表情で、熱を孕んだ瞳で、じっと帝人だけを見つめていた。


 「それは君が優しいからだよ」


 ふっと帝人が微笑む。杏里は確かに見た。帝人の口元が動くのを。彼の唇が音もなく「ひさしぶり」と呟くのを。杏里は見てしまったから、なにも言えず、どうにも動けなかった。


 その三日後、竜ヶ峰帝人が池袋から姿を消した。





 











お題は選択式御題さんよりお借りしました。