彼は決して恵まれた環境に産まれたわけではなかったが、それでも己を不幸だとは一度も思ったことがなかった。父母はいたって普通の人たちで、すこしだけ感覚が他人よりずれている気がしないでもなかったが、村でも特に目立つような人たちではなく、普通に彼を慈しんでくれた。彼はスバ抜けて整った容姿を持って産まれたがそんなもの欠片も役に立たず、産まれつき赤い瞳のせいで、村中から後ろ指をさされ、忌避され、疎まれても、それでも彼は己を不幸だとは思わなかった。
村長によって、皆が崇め奉る龍神へとその身を捧げる贄に指名された時も、彼は自分を不幸だとは決して、思わなかった。
竜ヶ沼と呼ばれる場所がある。
山の奥にあるそこは昔から竜が住むと伝えられている場所で、沼というにはやや大きい水辺があり、峰の雪解け水が流れ込んできているため水は驚くほど澄んでいて、手を入れれば痛いほどに冷たい。どんなに酷い干ばつが辺りを襲った時も決して涸れることはなく、その水で幾度も村人を救ってきた場所だ。水辺から少し離れた場所に小さいながらも社が建てられていて、そこには村人が持ってきた果物やら穀物やらが供えられていた。
供物のひとつである山ブドウを一房取ってその実を口に放り込みながら、イザヤは神様がこんなものを食べるわけないのに、と心の中で嘲った。だいたい供物など勝手に人間が置いていくだけで、神様が望んだわけではない。どうせ腐っていくのがオチなのだから、イザヤが食べたって構わないだろう。
それにどうせ、イザヤも供物の一部なのだから。
イザヤは村の汚点だった。血のように紅い、禍々しい両目。片手ほどの歳の頃に村の卜占師に不吉だ忌み子だ騒がれてから、イザヤは薄々こうなるのではないかと思っていた。村には置いておけない、しかし祟りが恐ろしいのでうかつに殺せない、どうしようもない厄介者を排除するのに、供物と言うのはなかなか、良い手段だとイザヤも思う。
もちろん両親は反対したが、長の意思は絶対だ。ただでさえイザヤのせいで良くない扱いを受けているのに、これ以上待遇を悪くされたら大人である両親はともかく、まだ年端もいかない妹たちは死んでしまう。そう両親を説得して、イザヤは今まで触れたこともない絹の衣に着替えさせられて、まだ日が昇る前に村を出た。村人たちはイザヤと供物を社の前に恭しく置くと、そそくさと山を下りて行ってしまった。殺されると思ったイザヤは拍子抜けして、こうして果物を頬張ったりしているわけだが。
これからどうしようかと、少しだけ悩む。
供物なんていっても神様が取りに来るわけがない。このままここにいてもどうしようもないのだが、イザヤにはもう、帰る場所も戻る家もない。社は小さいながらも人が寝泊まりできる造りになっているから、その気になればここに住み着くことだってできる。
脳裏に浮かぶいくつかの案。しかしその中に、山を下りて他に生きる場所を探すという選択肢は、なかった。
人前に出れば必ず皆この両目を恐れる。それは故郷の村だけではなく、きっとどの村でも同じことだろう。下手をすれば問答無用で殺される。だからイザヤには、帰る場所がないのと同じように、行く場所もなかった。
とりあえず空腹を満たす為に山ブドウを胃に納め、こんもりと盛られているアケビに手を伸ばしたところで、
「それ、美味しいんですか?」
瞬時に前に跳びながらイザヤは振り返る。ただ声をかけられた、それだけならこうも驚かないし、警戒しない。
―――――背後から声をかけられるその瞬間まで、辺りには人はおろか、獣一匹の気配さえなかったのに。
まるでその空間からわき出したかのような声の主をその両目で捉えて、イザヤは思わず手にしていたアケビを落とした。転がったアケビの実が潰れて汁が飛んだが、それを拭う余裕などない。
「食事を続けないんですか? あ、ぼくに遠慮しているのなら、その必要はないですよ。確かにそれはぼくに捧げられたものですが、ぼくはそんなもの食べませんから」
小柄な少年だった。見たこともない服装で、小さいが綺麗な装飾品をいくつか身につけているその姿は、服装だけでもイザヤよりはるか上位の者だと知れた。短く整えられた黒髪とその大きな瞳が幼さを強調して、家に残してきた妹たちを思い起こさせる。自分よりいくつか年下だろうその少年は、特別麗しいわけでもたくましいわけでも醜いわけでもなかったが、一目で異常だと知れた。
キラキラと日の光を反射させて煌めき風に吹かれて波打つ水面に、彼は平然と立っているのだ。
まるでそこが土の上なのだとイザヤに錯覚させてしまうほど自然に、彼は水面を歩いてイザヤのほうへと近づいてきた。彼が一歩踏み出せばその場所だけ水面がかすかに揺れるが、それだけのことで、決して少年の足が水中へと沈むことはない。
「ヒトは腐る寸前の果物を好むみたいですけど、それって美味しいんですか? 何度か食べたことがあるんですけど、ぼくにはよくわからなくて」
イザヤの足元に転がるアケビを拾い上げて、指に付着した果汁を舐めとる。そうして小難しい顔をして首を傾げた少年に、ようやく頭が回転しだしたイザヤは馬鹿らしいと思いながらも、ぎこちない動きで口を開く。
「えっと、まさかとは思うけど、君、神様?」
この地に住むのは龍神だという。水の化身、作物に潤いを与えてくれる神、決して涸れることのない水源の主。
「ええ、確かにぼくはここに住んでいる龍神です」
イザヤが拍子抜けしてしまうくらいあっさりと少年はそう言った。いつもならなに君頭おかしいんじゃないのと鼻で笑うイザヤだが、彼が水と戯れるように優雅に水面を歩いてくる場面を見てしまったから、もう何も言えない。
「それで、神への供物を食べているあなた。名前は?」
「・・・・・・イザヤ」
「イザヤさん、あなた仮にも神への供物を食い散らかして、恐れ多いとか思わないんですか?」
龍神の言葉にイザヤを咎める響きは含まれていなかった。まるで幼子が疑問を口にするかのように無邪気で、それでいて師が弟子にする問いかけのような緊張感があった。
「だって、俺も供物だし」
無意識のうちにイザヤの唇が、答えを、漏らす。
「供物が供物の中に収まるんだから、別にいいでしょ」
投げやりなイザヤの態度に敬愛の念は見えない。イザヤは目の前の少年が龍神だということは認めていたが―――――それがなんだと、突き放す。イザヤにとって龍神だからというのは、敬う理由には、ならない。それが自分の身を捧げなければならない相手なら、なさら。
イザヤはじっと自分がその身を捧げる相手を見つめた。イザヤは別に死にたいわけではない。けれど龍神を目の前にして、あまつさえ彼への供物に手をつけて、ただですむとは思っていなかった。
「供物? ああ、生贄ですか。まいったなあ、ぼく、必要だなんて一言も言っていないのに」
迷惑そうと言うよりは面倒くさそうに、悩むと言うよりは戸惑うように、少年はまるで値踏みするようにイザヤを上から下まで眺めた。実際、値踏みしているのだろう。イザヤは彼にとってどれくらいの価値になるのか。
「質問に答えてください」
唐突に少年はそう言った。いきなりすぎて面を食らったイザヤは、その質問とやらが何を指しているのかわからなかった。名を問われたがもう名乗ったし、恐れ多いかと訊かれて否と答えた。それ以外になにかあっただろうか。
そこでようやく、少年の手を果汁で汚すアケビの存在に気がついて、それに関する質問を思い出した。美味しいのかと、問われたのだ。腐る寸前にまで熟した果物の味について。
「・・・・・・美味しいから好んで食べるんじゃん」
「ではその美味しいというのはなにを基準にして定められているんですか?」
「それは・・・・・個人の自由。感情に基準なんてないからね」
「そうですか」
まだ幼さが色濃く残る顔に不釣り合いな真剣な表情で深く考え込んだ少年。イザヤにしてみれば、今の質問のどこにそこまで考え込む要素があるのかがわからない。
「なんでそんなこと訊くのさ? 美味しいから食べるって、当たり前のことじゃん」
ぼやくようにイザヤは呟く。不味いものを好んで食べる人間がどこにいようか。味の好みなど千差万別で、それに理由や定義を求めるのも馬鹿らしい話である。
呆れたようにイザヤにきょとんと眼を瞬かせて、龍神は言った。
「当たり前って、それは誰にとっての当たり前なんですか?」
言葉が矛のようにイザヤを突き、まるで喉元に刃を添えたように一切の動きを封じた。
思えば、神に人間の当たり前を説く、それ以上の戯言などなかった。同じ世界で生きてはいるけれども、思考が、原理が、常識が、お互い理解できるはずもないくらいに異なっていた。
それはイザヤが識らない、識る必要のない、そして識ることのなかった、彼の世界。
「っく、あは、あははは、あははははははっ!」
腹を抱え、喉を震わせ、声が涸れんばかりの勢いで、笑いが響く。嘲笑でも苦笑でもない、まるで晴天の空がそのまま音になったような、明るい笑い。己の喉でこんな音が出せるのかと、イザヤ自身が驚くほどの。
「ねえ、君の名前を、教えて」
笑うだけ笑うと、顔をあげてイザヤは問う。そこにもはや不審も戸惑いも諦めもない。
在るのは緋の目、そこに沸いた好奇心。
じっと見ているだけだった龍神はイザヤのそれとは正反対な、彼が住むと言われる水塊の底を連想させる瞳を一度だけ、軽く伏せて。
「ミカドです」
「ミカドくんって呼んでいい?」
「どうぞ、あなたの好きなように」
「じゃあミカドくん」
自分より小さいその身体、その水のように冷たい頬に触れて。龍神に対する畏れなど、そんなもの道端にでも投げ捨てて。
「君の為に死ねないけれど、君のモノに、なってあげる」
言葉は宣誓。吐息は祈り。徒人であるイザヤの言葉はなんの束縛も力も持ってはいないけれど、それは確かに、イザヤとミカドを結び付ける、縁たるものであった。